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高岡市出身の彫刻家・本保義太郎の研究―セントルイス万博派遣とボーグラム・スタジオ時代を中心に

宝田陽子(高岡市美術館)

1.はじめに

 高岡市美術館では令和3年に「令和3年度国立美術館巡回展 国立西洋美術館コレクションによる 高岡で考える西洋美術——〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき」を開催した。本展覧会では、国立美術館の所蔵品を地方美術館に貸与・巡回するという従来の展覧会の型を拡大して構想・構成され、西洋美術の展示がメインでありながら、巡回各館のコレクションや各地方の美術の文脈をとり入れての展開となり、また、山形美術館と当館のふたつの展覧会を通覧することで、それぞれの地方の文化的背景が際立ち、複数成立し得る美術史が視覚化されて完結するという、これまでにない試みがなされた。高岡展では、明治期に政府の勧業政策により万国博覧会への参加意欲が高まった地域としての特色を汲み、この地で生まれた美術商・林忠正と彫刻家・本保義太郎の視点をたどりながら、西洋と日本の美術の交叉を俯瞰するという展開であった。
 近代日本美術の黎明期、美術エリートとしての道を着実に歩んでいた本保について、この展覧会において地元以外の視点からとり上げられたことは大きな成果であった。しかし、留学先のパリで夭折したため伝世する作品が少ない本保は、美術展覧会で取り上げられる機会が依然少なく、オーギュスト・ロダンと面会した日本人彫刻家、あるいは森鷗外講義の「西洋美術史」ならびに「美学」の筆録者という、特定の観点からの記述が勝り、作家としての全貌解明が進んでいるとはいいがたい。
 そこで本研究では、これまではあまり詳述されることがなかったアメリカ時代の動向に注目した。渡米前の代表作《若菜売》(1901年原型制作、東京藝術大学美術館所蔵/1981年ブロンズ鋳造)【図1】は、現存する数少ない本保の彫刻だが、塑造というよりは未だ木彫制作の域を出ていないことをのちに評論家・大隈為三から指摘されておりi、渡仏してパリ国立美術学校へ入学するまでのアメリカ時代にこそ、作家として重大な転換があったであろうことが推測される。当時の本保の動静については、富山県美術館が所蔵する家族宛の手紙・日記類が一次資料として現存しており、その内容とあわせて、セントルイス万博関連資料、本保が師事したアメリカ人彫刻家ガットスン・ボーグラムの作品資料を調査し、これらからアメリカ時代の本保の制作と影響関係をあらためて読み直すこととする。

【図1】当館所蔵《若菜売》のブロンズ像。当初全身像であったが、1911年の火災により石膏像の下半身が焼失した。
【図2】写真:パリ時代の本保(本保家旧蔵資料・富山県美術館所蔵)

2.本保義太郎について

 本保義太郎は1875年(明治8)年高岡の源平町に生まれた。父・喜作や一族が仏師の家系であり、本人も早くから木彫刻をはじめ、1893年のシカゴ万博に18歳で出品している。1894年(明治27)に開校したばかりの富山県工芸学校に入学するが、卒業はせずに東京遊学を思い立ち、富山県に出張中の政府の技師・大森惟中(いちゅう)に相談したところ彫刻家・竹内久一(たけのうちひさかず)につくことを勧められ、翌年11月に上京を果たした。竹内の助言により東京美術学校木彫科に入学して彼の下で教えを受け、一方で邨田丹陵(むらたたんりょう)に歴史画を学んだという。1901年(明治34)卒業後も研究科に残り、1903年(明治36)に美術学校が農商務省より委嘱された第5回内国勧業博覧会会場付属堺水族館前噴水の塑像《龍女神像》の制作に参加。この翌年、高岡ゆかりの美術商・佐野嘉七に推薦され、東京出品会の商工調査員iiとして、富山県勧業課からの依嘱も兼ねて、アメリカ・ミズーリ州で開催されたルイジアナ購買記念万国博覧会(以下、セントルイス万博と記す)へ派遣された。同万博にブロンズ彫刻を出品し、銅賞を受賞している。同年9月にニューヨークへ移り、彫刻家・ボーグラムのスタジオ助手をつとめながら農商務省実業練習生を志願し、1905年10月にフランス留学に転じた。1907年4月のサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナシオナル・ボザールに日本人彫刻家として初めて《一条公爵令息実光像》が入選、展覧会彫塑部門部長をつとめたロダンとの面会を果たす。このように前途に期待が高まるも、同年10月肺結核により32歳で逝去した。

3.渡米前の制作

 仏師の家系の後継者であったことから、岡倉天心の理想を表現した竹内の門下についた本保にとって、「歴史的彫刻」の修業が当初の目標であったことは想像に難くない。しかし本保の東京美術学校在校中、岡倉による伝統重視の教育方針が揺らぎ、西洋式の教育を推進する動きは勢いを増し、彫刻科の実技にも塑造の授業が採り入れられた。本保は木彫科にとどまりつつ、塑造の制作も始めている。渡辺長男(おさお)ら美術学校卒業生を中心に結成された「彫塑会」に本保も加わり、岡倉の理想主義に対して大村西崖が擁護した自然主義の影響が感じられる《飼育》【図3】iii《若菜売》など、市井の人々の生活情景を繊細な感覚で表す作品を発表した。
 渡米前年の1903年(明治36)、大阪で第5回内国勧業博覧会が開催された。これは国内産業を奨励して欧米列強に抗することを目指す政府が主催した最後の内国博であり、1900年パリ万博を模した娯楽や余興性が加わった大規模なイベントであった。独立した美術館が備わっていたが、美術部門に本保は出品していない。ただし、美術学校の仕事として竹内の監督の下、堺水族館前噴水の中央に立つ《龍女神像》【図4】の制作に美術学校卒業生の長愛之、細谷三郎とともに関わり、原型製作に従事しているiv。共同制作者の一人ではあるが、公共広場や建築の装飾として彫刻が活用される事業に初めて携わった例である。

【図3】写真:《飼育》明治33年(1900)彫塑会第1回展出品
(本保家旧蔵資料・富山県美術館所蔵)
【図4】堺水族館前噴水中央の《龍女神像》

4.セントルイス万博

 セントルイス万博はヒューマンスケールを超える規模であったことが有名だが、美術史からの記述は比較的少ない。そこで、本保が派遣された同万博について、美術展示を中心に資料をみていくことにするv
 セントルイス万博の会期は1904年4月30日から12月1日までであった。予定では前年が開催年であり、出品準備の時間的余裕が十分でないことと第5回内国博開催と同時になることを理由に、日本政府は当初公式参加を見合わせていた。しかし、ヨーロッパ諸国からの参加が振るわなかったことや会場整備の遅延により開催が1年延期され、アメリカ側から再三の勧誘を受けて、政府は1902年(明治35)10月あらためて公式に参加することを閣議決定した。こうして翌年7月に臨時博覧会事務局官制が公布され、総裁に農商務大臣が任命された。同万博で日本政府が公式出品したうち、陳列面積が最大となったのは工芸館、美術館は6番目であった。美術館での陳列面積は1900年パリ万博に比べると2倍以上増加しているが、会場総面積が約4倍であることはもとより、セントルイス万博では彫刻や絵画などのファイン・アートと日本が得意とした工芸を含む応用美術を同一ギャラリーで展示可とされたことも一因であろう。
 会場図面【図5】をみると中央に美術館があり、美術展示が重要視された様子がわかる。建築は4棟からなり【図6】、中央の建物は当初から恒久的な美術ギャラリーとなるよう計画され、セントルイス美術館として現存しているが、古典的な外装ファサードをもち、彫刻が装飾ふうに配置されている、宮殿のようなモニュメンタルな構造である。メインパヴィリオンはアメリカに割り当てられ、左右の展示室から行き来できる中央ホールには彫刻が効果的に集められていた【図7】。両翼の建物は国ごとに参加諸外国に割り当てられ、フランス、イタリアに続いて、日本の展示は西館の後方6室であった。本館後方に彫刻パヴィリオンの名を冠したアネックスがあり、アメリカにとっては古典的模範であるフランス、イタリア、ベルギーなどの彫刻が集められ、彫刻部長ゾルネイの考えによりアメリカの彫刻との相乗的な展示が試みられた。彫刻展示は美術館だけでなく、万博会場随所におかれた屋外彫刻とあわせて効果が上がるよう配慮されていた。なお、美術部門のチーフはセントルイス・スクール・アンド・ミュージアム・オブ・ファイン・アーツの創設者であるアイヴスである。将来的な美術館計画のための系統的な展示がアメリカ部門では意識されていたようで、1893年のシカゴ万博以降に制作されたコンテンポラリー部門、1809年から1893年の間の回顧部門、個人所蔵家などが国内外から収集した古典作品を含むローン部門の3つのセクションから構成されていた。
 次に、日本の出品についてみていく。万博の全般的な出品方針について、政府は将来の貿易拡大に資することを目指していたが、美術品に関しては「風趣高雅にして国光を発揚するに足るべき美術作品を展示し我国力の発展を示し」viていくこととし、そのために別項で厳しく鑑査することを定めた。臨時博覧会事務局の設置日から1903年(明治36)12月の鑑査の期日までに美術家の制作が間に合わないことも考慮し、第5回内国博の美術館と工業館で出品中のものに万博出品に適する美術品があるか、調査を東京美術校長の正木直彦らに依嘱している。例外もあったが、11の分科、各3名以上の鑑査官によって上野の日本美術協会列品館で鑑査が行われ、合計713点の搬入があり、243点が合格となった。ただし、美術品としての出品は不可とされた場合でも、工業品として再出願することは可能であったvii。なお、第3科彫塑に出願して出品許可を得た本保宛の通知書が現存する【図8】。石膏とあるが、鋳造の後に展示されたようで、《鋳銅置物 人物》の作品名で写真【図9】を確認することができ、これは彫塑会出品作と共通する自然主義的な傾向を示している。
 美術館内で実際にどのような展示が行われたかは、1904年7月時点の平面図viii【図10】で確認でき、他の報告書にある写真【図11】とある程度照合することが可能である。手前にあるイタリアの展示室から第125室に入るとまず日本画が並び、日本展示のメインフロアふうの第130室に銅器、鋳銅製の彫塑、牙彫などがあり、左隣の第131室の日本画展示を続けて見ることもできるが、順路にやや難がある。彫塑類の背後に第134室の七宝、漆器、陶磁器など、その左隣の第135室に刺繍や友禅など染織工芸が一連し、第129室の洋画が奥に追いやられたような構成である。日本画は花鳥画、山水画といった伝統的なもの、風俗や自然主義的傾向の主題がバランスよく混ざり、洋画は油彩表現による真に迫った風景画と風俗画が多い。工芸品もこれらと調和するように過度に技巧的なものは控えめになり、全体的に日本的情緒とも言うべき穏やかな印象でまとまっている。アメリカの公式記録ixをみると、19世紀に顕著であった日本美術の西洋美術に対する潜在的な影響力から、期待されていた展示であることがわかり、日本側の周到な配慮が十分に伝わっていたと思われる一方、若い世代が西洋由来の技術的な訓練を受けてネイティブのよさを失いつつある傾向が遺憾とされている。なお、会期終了後にセントルイス美術館へ寄贈されたのは1点xのみで、本保の《人物》は現地で売約があったのか、「本保義太郎190弗」の記録があるxi

【図5】万博会場平面図。図面上の赤印が美術館。
【図6】パヴィリオン平面図
Official Catalogue of Exhibition Department of Artより作成)赤印は日本の展示エリア
【図7】メインパヴィリオンの彫刻展示
【図8】出品許可通知書
(本保家旧蔵資料・富山県美術館所蔵)
【図9】本保義太郎《鋳銅置物 人物》
【図10】美術館内の日本出品陳列図
 (『聖路易万国博覧会本邦参同事業報告』をもとに作成)
【図11】美術館内の日本展示の写真。図10の矢印から見たか?

5.セントルイスからニューヨークへ

 セントルイス万博に出品する一方、東京出品会の商工調査員として派遣されることになった本保は、1904年(明治37)5月20日に大村西崖らと同船で横浜を出港、バンクーバから陸路をとり、6月7日にセントルイスに到着xiiした。9月にニューヨークへ移るまでの3ヶ月間の滞在中に博覧会見学を走り書きしたメモ帳1冊と、家族宛の手紙4通xiiiをたよりに、その間の動きをみていく。
 6月11日付の手紙はセントルイス到着直後に書かれ、初めて異国の地に立つ驚きが伝わってくる。早速美術館を訪れているが、万博会場一帯に彫刻が装飾として応用されているxivことに感じ入った様子である。
 7月8日付の手紙では、下宿を転々としながらアメリカ生活で感じる驚きを書く一方、調査報告書の完了次第ニューヨークへ転居したいという希望が述べられている。博覧会においてはドイツが盛況だが、やはり美術大国フランスが傑出しているとみている。
 8月は日付のある記録がない。本保は派遣された東京出品会から、①同会の出品物に関する一般の品評②同上の改良すべき要点③売行きの状況、将来の見込④出品物の陳列装飾その他に関し諸外国の特権ある設備の状況⑤そのほか東京商工業者の参考となるべき外国出品について調査することを依嘱されていたが、報告書は見当たらない。ただ、メモ帳には会場で目にした各国の工芸品のスケッチが多く、関連する資料であろう。同メモ帳は知人の住所録にもなっており、ニューヨークにあるボーグラムのスタジオの住所もあるが、この時点で知己を得ていたかは不明である。
 9月は動きが慌ただしく、9月9日付の手紙ではまだセントルイスにいたようだが、動向を記した前半部分が欠けている。同月に本保が受け取ったとみられる酒井祐之助の手紙xvには8月24日と28日の間にも書簡往復があったことが記され、本保の来紐を待ち受ける内容になっているが、ボーグラムのスタジオの便箋が使用されており、酒井が2人をつないだであろうことは、後のやりとりからみても間違いない。その後、日付を欠くが9月25日以降にニューヨークで書かれた手紙により、セントルイスを出て来紐するまでの動きがわかる。これによると、24日に酒井から至急の連絡を受け、ボーグラムの下で働くことが決まった。
 これら直筆資料には明確な記述はないが、同時代に渡米した他の美術家たち同様xvi、万博視察だけが本保の最終目的ではなかったと思われる。滞在先で資金繰りをし、より高次の美術修業へ達する途を現地で模索した姿が浮かぶ。師にボーグラムを選んだ理由も明かではないが、万博の美術館で金賞を受賞した作品xviiとの出会いや、当時のアメリカ彫刻界におけるボーグラムの立ち位置が影響していたのではないだろうか。

6.ガットソン・ボーグラムについて

 ボーグラムの名を知らなくとも、アメリカ・サウスダコタ州ラシュモア山にある未完成の大彫刻《4人の大統領像》を知る日本人は多い。政治家との人脈も深く、自身の政治的な活動やモニュメンタルな作品制作に注目した伝記が多いが、本保が出会った当時はヨーロッパから帰国して彫刻家としての活動を本格化した直後であり、先入観をもってみると本保への影響がわかりづらくなる。そこで、1900年代までの活動を中心にボーグラムの略歴をたどることにする。xviii
 ガットソン・ボーグラムは1867年にデンマーク移民の子としてアイダホ州で生まれた。父がネブラスカ州で医学の仕事を得ると、この頃から馬やインディアンとなじみのある生活を送った。家族はカトリックに改宗し、ガットソンはカンザス州セントメアリーズにある寄宿学校に数年間通って高等教育を受ける。17歳の頃には美術家を目指すようになり、カルフォルニア州に移ってリトグラフとフレスコ画の工房で働き、生計を立てるために肖像画を制作した。《ジョン・チャールズ・フレモント将軍の肖像》が初期の重要作となり、最初で最大の支援者となるフレモント夫人の知遇を得る。静物画家で美術教師のエリザベス・パットナムと出会って最初の結婚をし、彼女やフレモント夫人の応援により1890年に最初の渡欧を果たした。
 パリでの2年間、アカデミー・ジュリアンとエコール・デ・ボザールで学び、そのサロンで画家としての展示機会に恵まれた。一方、1891年にアカデミーに出品を意図したブロンズ作品《落馬した戦士(チーフの死)》が手違いでサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナシオナル・ボザールに届き、そのまま展示が認められるという珍事にあい、新旧二つのサロンで栄誉を得た。この間ロダンと出会い、師弟関係はなかったが、古典規範を遵守して変化や改革に抵抗するアカデミー会員らと戦っていたロダンと友情を結び、人間の内面精神を形態の表面まとわせる彼の造形に対して、自らの相通じる気持ちを綴っている。
 ボーグラムは1893年にスペインを経てカリフォルニアに戻り、スペイン系の宗教団体本部の建物修復やフレモント夫人の胸像を手掛け、3年後にロンドンへ赴いた。そこで肖像画や胸像、新聞のためのイラストを手掛け、第2次ボーア戦争の渦中にあった1900年にブロンズ作品の《ボーア人の帰還》を制作した。1900年パリ万博で弟のソロンが彫刻家としての名声を先に得たこと、画家としての成功を期待する妻との生活の行き詰まりが機となり、ボーグラムは独りでニューヨークへ行き、帰国後は彫刻に専念して東38番街にスタジオを設け、1909年にコネチカット州サンフォードの「ボーグランド」と呼んだ広大な制作場へ移るまで、ニューヨークに拠点を置いた。
 このように、当時のボーグラムは異色の新鋭彫刻家であった。セントルイス万博のために制作された《ディオメデスの牝馬》(メトロポリタン美術館所蔵)は、他人の感想をもとに後付けでギリシア神話と関連する題がつけられたが、生命のパニックにうちたたかれた魂の印象をあらわしたいという動機がまずあり、物語ではなく単純に運動を示したかったのだという。「全体の構図が三角形で、非常に激しい動きが私の心をゆすぶった」xixとは高村光太郎の印象である。調和がとれた静的な彫刻を最上とするアカデミックな作家とは相容れなさを感じていたことだろう。
 また、ボーグラムは1903年に全米彫刻家協会の会員に選ばれていたが、同会会長のワードと対立し、ダニエル・フレンチらに代表される保守的な上層部によって彫刻のコンペティションで若い学生たちが機会を奪われていることを憤り、論争を巻き起こした。未だ40歳を越えないが、アメリカを代表する彫刻家の一人として万博会場を飾る作家にボーグラムが選ばれていないxxのもこのためかもしれない。しかし、若い才能に援助を惜しみなく与える彼のアトリエは多様な人材が集い、その一人として、遠い日本からの留学生・本保が受け入れられたのだろう。

7.ニューヨークにおける本保の動き

 ニューヨーク時代には1904年10月から翌年10月までの家族宛手紙13通xxiがあり、これらをもとに本保の動きをみていく。
 10月23日付の手紙では、20世紀初めの博覧会を訪れたことをきっかけに世界を舞台とした美術の研究への志が抑えがたくなったという口上を述べ、家族には事後承諾でニューヨークへ飛び立った様子がうかがわれる。これに続く11月の手紙はないが、12月4日付の手紙までの間に、11月3日付酒井宛ボーグラムの手紙、同5日付本保宛酒井の手紙、11月11日付本保宛酒井の手紙がある。この三者の間でのやり取りから、本保は語学が苦手で、こうした事情とボーグラム側の査定により当初無給のままスタジオに通って困窮し、酒井のとりなしによって11月には週5ドルの報酬を受け取ることができるようになったということがわかる。なお、ボーグラムの下での書生生活については、1年後に同じ境遇となった高村の回顧と比較するとその状況が明らかになる。また、8日に万博の用務を終えた大村がボーグラムのスタジオを本保の案内で訪れている。xxii
 12月4日付両親宛の手紙には、このようにして月30ドルの収入を得ることになった顛末と、佐野を通じてセントルイス万博での売上金を得て生活が軌道に乗り始めた報告が続く。スタジオの様子にふれた記述もあり、「等身以上の人物の30人余りもある」合衆国国会議事堂の大彫刻の制作に助手としてかかわっているという報告があるが、ボーグラムの年譜では議事堂にかかる彫刻群の制作が確認できない。
 1905年1月14日付の手紙では、ニューヨークと日本の生活の違いを2月5日付の手紙とともに綴っている。現地における本保の人脈にも触れ、佐野のほか、山中商会の林愛作、茶商の古谷(竹之介か?)など、万博に際して渡米した商業関係者が多い。佐野に関して、15日からセントルイスを経由して2月4日に帰国、3月上旬に再渡米するという予定を記している。手紙に詳述はないが、この東京滞在中に佐野は本保が農商務省実業練習生となるよう便宜を図ったようで、練習生身元引受人として佐野が記名した明治38年2月付農商務大臣宛の保証書文案が現存、4月9日付本保宛の手紙で佐野はニューヨーク到着を知らせ、この時の面会で本保は正式な辞令xxiiiを受け取った。将来の見通しが立ったためか、同月13日付の家族宛の手紙にはかしこまった雰囲気があり、このなかで美術研究のために渡欧したいという希望、8月にはフランスへ行きたいという思いを初めて明かしている。
 同月24日付、5月13日付、6月30日付、8月20日付と手紙が続き、徐々に渡欧構想が具体化し、1908年(明治41)までの算段が記されているが、9月19日時点でまだ渡仏の許可が得られていない。パリ留学経験のあるボーグラムには助言を得ていたようである。10月に入ってようやく農商務省からの許可が得られ、同月7日付と21日付の船上からの手紙を最後に本保はニューヨークを発った。

8.ボーグラム・スタジオにおける本保

 セントルイスでは見聞中心の3ヶ月であったと思われる本保だが、助手をつとめたボーグラム・スタジオでは実制作にかかわる機会があった。ボーグラムの伝記には「ほかの人たちにフンボHumboと呼ばれた日本人がいた」xxivという一文だけが残るが、明治38年1月14日付の正木校長宛の手紙でスタジオの様子を報じているxxv。ボーグラムは建築装飾となる彫刻の仕事も受注しており、地下鉄のペディメント【図12】は先に竣工していたようだが、前項で触れた合衆国国会議事堂の大彫刻の補助に本保も関わり、大型作品の制作手順や石膏型製作について、美術学校時代との違いに苦労しながらも学んでいた様子がうかがえる。この時期のボーグラムの制作を本保は「理想主義でインプレスニチック」xxviとみているが、後年のモニュメンタルな彫刻に比べて内省的な精神、観照的な態度を反映した女性像が優っており、渡仏前に本保が譲り受けた写真にある《我笛吹けど汝踊らざりき》【図13】からもそうした傾向がうかがえる。この女性像のモデルをつとめたジュリア・パーシーによる、1905年から10年ころのボーグラムの制作方法に関する証言xxviiがある。本保が目撃し、関わった過程もこれに該当すると思われる。
 また、宗教的な論争とジャーナリストの好奇の眼から後年不本意にも有名になった、セント・ジョン・デヴァイン大聖堂のベルモント礼拝堂の天使像制作が1905年には始まっていた。ここで100体近い天使や聖人の石像の原型をボーグラムは制作している。同年7月から10月まで、本保は簡略な日記xxviiiを残しているが、7月1日と5日に「エンゼルの製作」、27日に「師と共にカテドラニ赴く」という記述がある。現存する石彫群は、アメリカ時代の本保が関わった作品のひとつとみることができるだろう。

【図12】写真:地下鉄のペディメント
(本保家旧蔵資料・富山県美術館所蔵)
【図13】写真:ボーグラムの石膏像《我笛吹けど汝踊らざりき》(1905)
(本保家旧蔵資料・富山県美術館所蔵)

9.おわりに

 以上、本保のアメリカ時代の動向について、関連資料を中心に読み解いてみた。近代日本における西洋美術の受容をたどろうとするとき、同じくヨーロッパ美術を追随する立場であった同時代のアメリカの仲介は軽視されがちではあるが、留学経験のある作家への影響を皆無として記述することはできない。ロダンの《青銅時代》と同じポーズをとるモデルの姿が写るボーグラム・スタジオの写真があり、ここで本保がロダン芸術に対する感化を受けた可能性は十分ありうる。冒頭で述べたように、本保は伝世する作品が少ないために展覧会を通した検証が成され難い作家であるが、幸いアーカイヴ資料には恵まれており、今後これらの解読や書簡類の翻刻が進むことが望まれる。
 今回調査した資料は関係機関による公式記録や、作家に近い立場から記述された二次資料が中心であり、別の立場から記述される同時代的な客観的批評、作品実見の上での考察という視点を欠いているという点で今後の課題が残るが、ひとまずは現時点での報告としたい。なお、本研究は令和4年度富山県美術館・博物館学芸員等研究補助を受けて行った。富山県美術館をはじめ関係各位の皆様には、ここにあらためて感謝を申し上げたい。

脚註

i『世界美術全集』第32巻、平凡社、1929年、p77-78.
ii『聖路易万国博覧会本邦参同事業報告』第2編、農商務省、明治38年、p544.セントルイス万博では、民間人が組織した日本出品協会が政府の臨時博覧会事務局から出品取扱事務を受託し、さらに東京出品会をはじめとする各地方出品団体との連絡をとった。
iii《飼育》に関して、大村西崖(無名子)が記した『東京日日新聞』明治33年5月24日の評と、『彫塑生面第1回展』目録(明治33年)掲載図版から推測すると、富山県美術館所蔵写真(本保家旧蔵資料)の左下に写る小鳥の像は当初の制作ではなく後補のようである。
iv『東京美術学校校友会月報』第1巻p37-38に「堺市公園中央の噴水器」に関する記事がある。噴水は同校助教授で図案家・千頭庸哉が設計し、面径30尺の池の中央に高さ15尺の円柱が立ち、その上に高さ8尺5寸の、珠を捧げる龍女神像がつくられた。珠は電灯であったという。長は明治33年卒、細谷は明治35年卒。復元設置が現存。
vセントルイス万博に関する参考文献は、前掲『聖路易万国博覧会本邦参同事業報告』のほか、以下の通り。
①『聖路易万国博覧会日本出品協会報告』、聖路易万国博覧会日本出品協会、明治39年
The Exhibition of The Empire of Japan Official Catalogue International Exposition St. Louis 1904(宮内庁書陵部蔵)
③『聖路易万国博覧会出品日本美術』関西写真製版、明治37年(宮内庁書陵部蔵、他)
General Information of Imperial Japanese Garden and Section of Exhibit Palace Louisiana Purchase Exposition 1904(宮内庁書陵部蔵)
The Universal Exposition of 1904, Louisiana Purchase Exposition Company, 1913, St. Louis
Official Guide to the Louisiana Purchase Exposition at the City of St. Louis, State of Missouri, April 30th to December 1st, 1904, Official Guide Company, 1904, St. Louis(復刻版)
The greatest of expositions completely illustrated. Official publication, St. Louis, Official photographic company, 1904(宮内庁書陵部蔵、他)
History of the Louisiana Purchase Exposition, Universal Exposition Publishing Company, 1905, St. Louis(復刻版)
Official Catalogue of Exhibition Department of Art, The Official Catalogue Company, 1904, St. Louis(復刻版)
vi前掲『聖路易万国博覧会本邦参同事業報告』、p89
vii前掲『聖路易万国博覧会本邦参同事業報告』、p106-140
viii前掲『聖路易万国博覧会本邦参同事業報告』、p350-353
ixThe Universal Exposition of 1904, p358-359. 同様の評価が「美術館長の書翰」として前掲『聖路易万国博覧会本邦参同事業報告』p700-701 に掲載されている。
x前掲『聖路易万国博覧会日本出品協会報告』、p401
xi前掲『聖路易万国博覧会日本出品協会報告』、p434
xii吉田千鶴子「大村西崖の渡欧日記」『近代画説』第17号、明治美術学会、2008年。博覧会事務局より派遣された大村の、本保を含む美術学校関係者との面会が記されている。
xiiiすべて本保家旧蔵資料で、現在は富山県美術館が所蔵。
xiv万博の屋外彫刻については、大村西崖「あめりかだより」(『美術新報』第3巻14号~17号、明治37年)が詳しく報じている。大村は、これらと日本の出品作や第5回内国博の噴水彫刻を比べて、日本人彫刻家の人体研究や写生がまだ十分でないこと、大作に不慣れであることを指摘している。
xv本保家旧蔵資料・富山県美術館所蔵。酒井(1874-1935)は長野出身の建築家で、1901年に渡米してニューヨークのロードアンドヒューレッド建築事務所で働き、1906年ペンシルベニア大学を卒業。
xvi前掲「大村西崖の渡欧日記」によると、政府公務でセントルイスに派遣された大村も現地での公務で得た資金を基に訪欧を計画していたようである。
xvii前掲Official Catalogue of Exhibition Department of Art,p59. 《ディオメデスの牝馬》《グラント将軍像》《ジョン・ラスキン像》《ネロ帝》《仮面劇》《ボーア人の帰還》《深い悲しみ》《11体のガーゴイル像》の8点の出品があり、【図7】左手前に見える《ディオメデスの牝馬》を金賞受賞作とする文献が本保の証言を含めて多いが、下記註xviii②には《ボーア人の帰還》が金賞受賞とある。《ディオメデスの牝馬》《ジョン・ラスキン像》は鋳造後にメトロポリタン美術館が所蔵。前者は同美術館がアメリカ人彫刻家の作品を収蔵した最初の例となった。
xviiiボーグラムに関する参考文献は以下のとおり。
Robert J. Casey, and Mary Borglum, Give the Man Room, Bobbs-Merrill Co., 1952, Indianapolis(電子書籍による復刻版)
Robin Borglum Carter, Gutzon Borglum His life and work, Mount Rushmore Bookstores, 1998(fourth edition 2015), U.S.A
③ H&A.シャフ『大統領を彫った男 : ガッツオン・ボーグラム伝』新評論、1996年(原著は1985年)
④高村光太郎「彫刻家ガツトソン ボーグラム氏」『高村光太郎全集』第7巻、1957年
⑤高村光太郎「ヘルプの生活」『高村光太郎全集』第20巻、1996年
①はボーグラム長女、②はその娘でボーグラムの孫が著者。④⑤は本保の1年後にボーグラムのスタジオ助手をつとめた高村による、同時代の日本人からの証言である。
xix前掲「彫刻家ガツトソン ボーグラム氏」、p151.
xx前掲Official Guide to the Louisiana Purchase Exposition at the City of St. Louis, State of Missouri, April 30th to December 1st p27-34 に万博会場の彫刻制作者のリストがあるが、ガットソン・ボーグラムの名は確認できない。
xxiすべて本保家旧蔵資料で、現在は富山県美術館が所蔵。
xxii前掲「大村西崖の渡欧日記」、p129
xxiii明治38年2月18日付辞令によると、ニューヨークでの「鋳銅品及陶器等原型に関する彫塑木彫」業の練習が命令内容であり、修業地変更の際は在外監督官に出願許可の必要が記されている。
xxiv前掲Give the Man Room, p94
xxv『東京美術学校校友会月報』第3巻5号、明治38年、p105-106
xxvi『東京美術学校校友会月報』第3巻7号、明治38年、p147
xxvii前掲 Give the Man Room, p93-94
xxviii本保家旧蔵資料で、現在は富山県美術館が所蔵
[図版クレジット]以下の図版の出典は次のとおり
【図4】宮内庁書陵部所蔵『〔第五回〕内国勧業博覧会場写真帖』
【図5】宮内庁書陵部所蔵『聖路易万国博覧会出品日本美術』 General Information of Imperial Japanese Garden and Section of Exhibit Palace Louisiana Purchase Exposition 1904
【図7】宮内庁書陵部所蔵The greatest of expositions, an album of the Louisiana purchase exposition 1904
【図9】宮内庁書陵部所蔵 『聖路易万国博覧会出品日本美術』
【図11】宮内庁書陵部所蔵 『聖路易万国博覧会出品日本美術』 The Exhibition of The Empire of Japan Official Catalogue International Exposition St. Louis 1904