ホーム > デジタル展覧会・電子紀要 > 尾竹竹坡の画業における目黒雅叙園室内装飾について

尾竹竹坡の画業における目黒雅叙園室内装飾について

遠藤亮平(富山県水墨美術館)

はじめに.本研究の動機と『生誕140年 尾竹竹坡展』の開催について

 本研究は、『生誕140年 尾竹竹坡展』の開催に向けた調査の一環として、特にその晩年の活動を明らかにするべく実施した。富山でこそ尾竹竹坡の名前は、兄越堂、弟国観とともに、売薬版画の制作に携わった絵師の一人として知られているが、竹坡が富山で活動したのは画業において初期のごく短い期間であり、上京後の活動について知る機会はこれまでほとんどなかった。その理由としては、没後の評価の低迷や、代表作の多くが行方知れずとなり、画業の再検証が困難になっていたことが考えられる。しかしながら、近年、尾竹家に残されていた資料・作品が新潟県立近代美術館・万代島美術館に寄贈された他、東京国立近代美術館が竹坡の新出作品7点を購入するに至り、少しずつ竹坡の画業の再検証に向けた環境が整い始め、筆者は竹坡が生誕140年を迎える2018年に初めての回顧展を開催することを企画し、初期から晩年までの活動の全体像を明らかにすることを目指した。竹坡の画業については、竹坡の次男が記した唯一の評伝『尾竹竹坡傳〇その反骨と挫折』に詳しいが、不遇であったとされる晩年についての記述は少なく、また一般的に晩年の活動に対する評価は低いことから、画業の中でも研究が進展することはなかった。そこで、この研究では、竹坡が最晩年に携わった目黒雅叙園の室内装飾に注目し、そこから晩年の画業の一端を明らかにすることを試みた。

『生誕140年 尾竹竹坡展』展示風景

1.尾竹竹坡の先行研究について

 尾竹竹坡は、明治時代後半に文展で受賞を重ね、一時は画壇の寵児として圧倒的な人気を誇ったが、度重なる挫折を経て画名を落とし、没後、その名前は次第に忘れ去られていった。1968年には次男である親氏が評伝を出版したが、再評価の機運が高まることはなく、1980年代以降、大正時代の日本画の再評価が進展するのに伴い、ようやく竹坡の大正時代の実験的な日本画作品に光が当てられるようになった。しかし、竹坡の画業の全体を再検証する機会は訪れず、2007年には雑誌『Bien』で尾竹三兄弟特集が組まれ注目を集めたが、以降も美術館で竹坡の画業を顧みる個展が開催されることはなかった。

尾竹親『尾竹竹坡傳○その反骨と挫折』、東京出版センター、1968年
『Bien(美庵)』Vol.43、藝術出版社、2007年春号、特集「きみは、尾竹三兄弟を知っているか?」』

2.尾竹竹坡の画業について

 尾竹竹坡は、明治11年に新潟で生まれた。紺屋を営んでいた父倉松と母イヨの間に生まれた四男一女の三男であり、兄越堂、弟国観も後に日本画家として活躍することになる。竹坡は尾竹家の食客であった南画家の笹田雲石に絵を学んだと言われているが、雲石は竹坡が5歳の頃には亡くなったらしく、ほとんど独学であったと考えられている。竹坡は、明治24年頃、売薬版画の下絵制作を行っていた兄越堂を追って富山に移り、兄の下で同様の仕事に携わることになる。富山でも独学で日本画を学んでいたらしい竹坡は、明治29年、弟の国観とともに上京し、本格的に日本画家の道を歩み始めた。上京後は川端玉章に弟子入りしたが、早々にその元を離れ、以降は絵画共進会や、日本美術院の研究会を通して、画技を磨いた。日本美術院を率いた岡倉天心は竹坡の才能をいち早く認めた一人であり、天心は竹坡を日本美術院が移転した五浦に招き、竹坡はここで第一回文展出品作《羅睺羅》を制作している。天心は竹坡を認め、竹坡もまた天心を慕っていたというが、いわゆる新派系の画家たちが第二回文展への不参加を表明して開催した国画玉成会の展覧会をめぐって、二人は袂を分かつことになる。国画玉成会展覧会の審査員指名の席で、竹坡は天心の独断的な態度に異を唱え、以降、日本美術院とは疎遠になっていった。天心という新派系の大きな後ろ盾を失ったかに見えたが、以降の竹坡は文展を舞台に快進撃を続け、一躍画壇の寵児となっていく。第3回文展で《茸狩》が三等を受賞したのに続いて、第4回展では《おとづれ》(図1)で最高賞二等を受賞、そして第5回文展でも《水》で最高賞二等を受賞し、竹坡は文展の花形作家の仲間入りをする。そして第6回文展では《春秋》、《俄雨》、《天孫降臨》各六曲二双屏風を計3点出品し、この時は《俄雨》の褒状受賞にとどまった。文展で着実に評価を確かなものにしていった竹坡であったが、第7回文展では出品作2点が思いがけず落選となり、以降の創作活動は大きく変化していく。この落選については、当時審査員を務めた横山大観が、竹坡の実力を恐れて落選させたのではないかとまことしやかに伝えられているが、真相は定かではない。竹坡は落選後も文展への出品を続けたが、同時に作風を模索して実験的な作品を描くようになり、自らの個展や巽画会展覧会で発表した。文展が終了し、新たに帝展が始まると、竹坡は参加せず、大正9年には門下の画家が結成した八火社とともに展覧会を開催し、帝展に反旗を翻した。この八火社展は竹坡の個展と八火社の併合展という形であったが、実際は大半が竹坡の作品であり、またその画風や画題も多岐にわたった点が注目される。中でも《月の潤い・太陽の熱・星の冷え》(図2)は、当時話題となっていたロシア未来派の前衛絵画の影響を感じさせる作品として、現在では竹坡の代表作として知られている。大正時代には、日本画の他、油絵や彫刻、さらには演劇の公演も計画するなど、多岐にわたる活動を展開させていたが、大正12年に発生した関東大震災により家屋や作品を失い、実験的な活動には終止符が打たれた。震災後の竹坡は、一転して帝展への出品をはじめ、《市・町・村》など、写実的に風景や植物を描いた作品を入選させ、昭和3年以降は無鑑査となったが、竹坡の作品が再び注目されることはなかった。晩年は、植物や野菜などを細密描写で描いた作品に熱心に取り組んだが、昭和10年の秋ごろから体調を崩し、翌11年6月、気管支喘息によりこの世を去った。

図1《おとづれ》明治43年 東京国立近代美術館蔵
図2《月の潤い・太陽の熱・星の冷え》大正9年 宮城県美術館蔵

3.目黒雅叙園と尾竹竹坡

 目黒雅叙園(現・ホテル雅叙園東京)は、昭和6年に細川力蔵が目黒に広大な土地を入手して開業した料亭、総合結婚式場である。戦争が激化する昭和18年まで、建物の拡張や庭園工事が逐次繰り返され、建物内は豪華絢爛な装飾で埋め尽くされたが、戦災や昭和63年の目黒川改修工事に伴う大改築により、その大部分が失われ、現在では百段階段(旧三号館)(図3)だけが当時のまま残されている。竹坡は、力蔵が昭和3年に芝浦にあった自邸を改装して料理店・芝浦雅叙園を開業した当初から、室内を飾る作品の制作に携わり、目黒雅叙園においても多くの装飾を手掛けた。力蔵は帝展や院展の出品作を購入する美術愛好家であり、雅叙園の装飾には竹坡のみならず多くの日本画家が参加している。中でも竹坡が手掛けた装飾は多く、装飾画だけではなく、浮彫や螺鈿装飾の原図制作も行った。現在では散逸しているが、力蔵は竹坡の作品も多く購入していたようで、新潟県立近代美術館・万代島美術館所蔵の第5回文展出品作《梧桐》は、目黒雅叙園旧蔵品として知られ、またボストン美術館所蔵の第13回帝展出品作《阿寒原始林》(図11)も同様である。力蔵に関する文献は少なく、力蔵と竹坡の関係を物語る資料を確かめることはできなかったが、晩年の竹坡にとって力蔵が重要な支援者であったことは間違いない。

図3 目黒雅叙園 百段階段「漁礁の間」 百段階段の中で竹坡が主な装飾を手掛けた客間
図4 目黒雅叙園 レストラン渡風亭「竹坡」(旧《長門の間》)

 竹坡が携わった装飾は今でも見ることができるが、当時の状態をとどめるものや、下絵や原図ではなく直接描いた装飾画は少ない。中でも現在はレストラン渡風亭の一室「竹坡」として復元されて残る旧《長門の間》(図4)は、竹坡が描いた欄間画や天井画等が残る貴重な作例である。この《長門の間》の欄間画のテーマとなっているのは阿寒湖の風景であり、それぞれに阿寒湖、樹海、屈斜路湖、摩周湖の風景が描かれている。(図5)《長門の間》は、かつてはそれぞれに軍艦の名前が付けられた部屋が並ぶ軍艦通りの一室であった。竹坡はこの軍艦通りの部屋の中で、「長門」の他に少なくとも「浅間」、「陸奥」、「青葉」、「蓬莱」の部屋の装飾も手掛けているが、これらの装飾はいずれも花鳥がテーマとなっており、阿寒の風景を描いた《長門の間》の特殊性が際立つ。《長門の間》で竹坡は、壁面の螺鈿装飾「松竹梅に群鶴の図」の下絵や、天井周縁の春秋の瀑布渓谷図も手掛けているが、ここでは他の装飾とは大きく異なる阿寒の風景を描いた欄間画に絞って考察を進める。
 部屋の入口上部の欄間画二面が「樹海」(図6)であり、左右各面に湖が描かれ、その湖を中心に前景には木々が茂り、後ろには山並みが描かれている。欄間に「樹海」と記されているが、二つの湖が隣接するその風景から、今でも原生林に囲まれる二つの湖、パンケトーとペンケトー周辺の景色が描かれている可能性が高い。「樹海」の右隣の欄間画四面が「阿寒湖」(図7)であり、四面に渡って阿寒湖が描かれ周囲の木々が紅葉している。「阿寒湖」の右隣り、「樹海」に向かい合う二面が「摩周湖」(図8)である。摩周湖前景の白い樹皮の木々は、葉を落としているようであり、冬の季節を思わせせる。さらにその右隣り、「阿寒湖」に向かい合う、床の間を有する壁面上部三面が「屈斜路湖」(図9)であり、中央の極めて横長の画面に屈斜路湖が描かれている。竹坡はなぜ《長門の間》の欄間画に阿寒の風景を描いたのであろうか。雅叙園、細川力蔵から何らかの指示があった可能性は高いが、ここでは当時の時代背景や竹坡と北海道の関りから考察してみたい。
図5 旧《長門の間》平面図
図6 旧《長門の間》欄間画「樹海」
図7 旧《長門の間》欄間画「阿寒湖」
図8 旧《長門の間》欄間画「摩周湖」
図9 旧《長門の間》欄間画「屈斜路湖」

4.尾竹竹坡と北海道

 屈斜路湖を描いた欄間画には「阿寒国立公園 屈斜路湖」と記され、天井には「昭和癸酉初春」、竹坡が下絵を描いた壁面の螺鈿装飾には「昭和八年初春」とあり、この旧《長門の間》が昭和8年に制作されたことがわかる。阿寒は昭和7年10月に国立公園の候補地の一つに選定され、昭和9年に正式に国立公園に指定されており、欄間画が描かれた当時、阿寒は国立公園の候補地として注目を集める場所であったと考えられる。竹坡は、生涯にわたって最新の画風を吸収して自らの創作活動に生かした、時代に敏感な画家であったことを考えれば、国立公園選定に向けて注目を集める阿寒の風景を、竹坡が意図的に描いたと考えても不思議ではないだろう。また、こうした時代背景の他にも、竹坡と北海道、阿寒には注目すべき関係があった。
 竹坡は東京に居を構えて創作活動を行ったが、大正時代頃から、しばしば北海道を訪れていたことが当時の新聞記事に記されている。大正8年8月22日付け『読売新聞』には、「副業に綿羊を飼養すべく北海道へ出張中」と記され、また同新聞大正11年8月26日付けには次の記載がある。「◆北海道は北見国に百二三十町歩の土地を持つて木材だけでも大した実入りがある上に昨年迄に十町歩だけ開墾した尾竹竹坡画伯◇此広大な地面からあがる一切を自分では使はず全部を文化事業に費したいと意気込んでゐる◇尤も八火社同人二十人が喰へなくなればみんな引きつれて渡り、「八火社トラピスト」とも言ふべき修道院を営んで、半農半芸術の共産主義を営みたいという計画もあるのだと」。新聞記事は、竹坡が北海道で何らかの事業を計画してたことを伝えているが、特に阿寒は、晩年の帝展出品作の画題にもなっていた。昭和2年第8回帝展出品作《山中の水》(図10)は、阿寒湖を描いた欄間画と類似点が多いことから、同じく阿寒湖を描いた作品であると考えられ、昭和7年第13回帝展出品作《阿寒原始林》は、正に阿寒の原生林がモチーフとなっていた。帝展出品作の他にも、新潟県立近代美術館・万代島美術館には竹坡が阿寒を旅して描いた画帳(図12)が残されている。この画帳には、阿寒の風景とともに所々に竹坡による書き込みがなされており、スケッチと書き込みから、竹坡が大楽毛から、徹別、ピリカネップを経て阿寒に辿り着いたことがわかる。この画帳には、「雄阿寒ホテル」の書き込みがあるが、同ホテルの開業年が、諸説ある中でも最も古い記録が昭和3年であることから(『阿寒村史』(阿寒村役場、昭和27年9月)に「昭和三年八月に佐々木元吉が室数三二を有する豪荘な雄阿寒ホテルを雄阿寒岳山麗に開業」とあるのが、雄阿寒ホテルに関する最も古い記録)、この画帳が昭和3年以降に描かれたことがわかる。この画帳の他にも、同美術館には、竹坡が雄阿寒岳山頂付近にある赤沼と青沼を描いた作品《山岳図》(図13)も残されている。《長門の間》と、帝展出品作、画帳類の関係は定かではないが、竹坡が大正時代には北海道の北見に土地を持っていたということが事実であれば、竹坡が大正時代以降、阿寒を訪れる機会は幾度もあったであろうし、阿寒が晩年の竹坡にとって重要な創作源の一つとなっていたことは十分考えられる。《長門の間》の題材の選択に当たっては、阿寒の国立公園化というタイミングとともに、大正時代以降の竹坡と北海道の関係をその背景として指摘することができるだろう。

図10 《山中の水》昭和2年
図11 《阿寒原始林》昭和7年 ボストン美術館蔵
図12 竹坡が阿寒を訪れて描いた画帳 新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵
図13 《山岳図》 新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵

5.最後に

 竹坡は、昭和6年の目黒雅叙園開業当初から、亡くなる前年の昭和10年に完成した百段階段の装飾まで関わっていたことから、雅叙園の室内装飾は晩年の竹坡の活動を示す重要な作例と言える。中でも、旧《長門の間》は、竹坡と北海道の繋がりを示すだけではなく、多くの関連作品・資料とともに、不遇と言われる晩年の竹坡が活発な創作活動を行っていたことを示している。今回の調査により、晩年の画業、活動のごく一部を明らかにできたと思われるが、竹坡の晩年の作品、活動については再検証される余地が残されていることに変わりはない。今後も竹坡の再評価を進めるべく、引き続き調査研究を続けていきたいと思う。

主要参考文献

『帝国絵画商報』第9巻11号「尾竹竹坡画伯展覧会号」、1920年
『帝国絵画新報』第10巻第10号、1921年
『巽』第2巻第7号「竹坡号・應東号」、1929年
『竹坡遺芳』竹坡未発表遺作展講演会、1936年
『尾竹竹坡伝 その反骨と挫折』尾竹親、東京出版センター、1968年
『大正日本画 その闇ときらめき』図録、山口県立美術館、1993年
『闇に立つ日本画家-尾竹国観伝』尾竹俊亮、まろうど社、1995年
『美術之考古学「未来派の父」露国画伯来訪記!!ブルリュークと日本の未来派』図録、西宮市大谷記念美術館、1996年
『Bien』43号「特集“理想の日本画”から消された世俗よ、感情よ、輪郭線よ・・・憤怒の潟よりよみがえれ!!-越堂・竹坡・国観-きみは、尾竹三兄弟を知っているか?」芸術出版社、2007年
『大正期振興美術資料集成』、菊屋吉生・滝沢恭司・長門佐季・水沢勉・野崎たみ子・五十殿利治、国書刊行会、2007年
『現代の眼』622号「尾竹竹坡」、2016年
『近代の日本画 花鳥風月 目黒雅叙園コレクション』細野正信、京都書院、1990年
『時の流れ目黒雅叙園』細川敏郎監修、目黒雅叙園、1990年
『雪月花 近代日本画に描かれた美』猪巻明監修、茨城県天心記念五浦美術館、2001年