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オモキ造りを記録する―造船技法の記録保存とその試み―

廣瀬直樹(氷見市立博物館)

はじめに

 本州の日本海側ほぼ中央に位置する富山湾は、豊かな漁場が広がり、古くから定置網漁をはじめとする漁撈活動が営まれてきた。湾内での定置網の操業は史料のうえでは近世初期にすでに確認でき、そのほか刺網漁や地曳網漁、釣漁、磯見漁などが操業された。また、明治後半から昭和10年代にかけて、遠く北海道方面や三陸などの太平洋沿岸、朝鮮半島沿岸にまで出漁した記録が残る。こうした漁撈活動には、10mを超す定置網の網取り船から、小商売の漁師が用いる5m前後の小型の船まで、大小さまざまな和船 ― 日本在来の工法で建造された木造船 ― が使用された。
 これら和船の建造を担ったのが船大工である。船大工は、木を刳る、曲げる、接ぐといった、家大工とはまた異なった技術を駆使して和船を建造した。だが、昭和40年代後半以降はFRP(繊維強化プラスチック)製の船が主流となり、木造の和船はその役割を終えた。船大工もその多くがFRPによる造船に転じるか、あるいは廃業していった。
 それから40年余りが経過した現在、かつて建造された和船の多くが消失し、また船大工経験のある方々も高齢化が進んでいるため、和船とその建造技術は廃絶の危機にある。地域の漁業や流通を支えた木造の和船が消えていきつつあるなかで、地域の博物館はどのような手段を講じることができるのか。本稿では、造船技法をいかにして記録し、後世に伝え、また博物館資料として役立てていくかを考えてみたい。

1. 富山湾周辺地域の和船(第1図)

 富山湾周辺地域で漁撈に用いられた和船は、現存する実物資料や図面・写真等の記録、船大工からの聞き取り調査によって、オモキ造り、一枚棚構造(平底)、二枚棚構造(三枚底)、オモキを有する二枚棚構造の、大きく4種に分類が可能である。また、船体の大小や船形などによってさらに細分される。

第1図 富山湾周辺地域の和船横断面模式図

 このうちオモキ造りは、丸太から刳り出したオモキと称する部材を底板の左右両端に組み込んだ構造で、日本海沿岸地域に色濃く分布する。オモキ造りによる船は、一般に丸木舟(刳舟)から板を接ぎ合わせて造る構造船へと変化する過程にある準構造船に分類される。近世には板材を接ぎ合わせた棚板構造をもつ船が主流となるが、日本海沿岸地域の漁撈には引き続きオモキ造りの船が併用された。富山湾から能登半島では、主に定置網漁の網取り船として用いられた全長約15mの大型船、ドブネがオモキ造りの構造を持つ。
 棚板構造とは、船首の水押材と底板に棚板を接ぎ付けた構造で、棚板が左右各一枚のものが一枚棚構造、上棚と下棚の左右各二枚となるものが二枚棚構造である。いわゆる構造船に分類されるもので、近世の海運を担った弁才船の活躍などによって日本の各地に棚板構造の造船技術が伝播し、在地の漁船などにも応用されるようになったものと推測される。富山湾周辺地域ではテンマやサンパ、キンパチ、新湊地域のテントなどが二枚棚構造、氷見や朝日町のカンコが一枚棚構造である。
 一方、オモキを有する二枚棚構造は、二枚棚構造の船底左右両端に刳材オモキを組み込んだ構造を持ち、ドブネのオモキ造りと弁才船の三階造り ― 舷側板が上棚、中棚、根棚で構成される構造 ― 双方の影響を受けたものと考えられる。各地のテントやカワサキなど、全国で一般的にみられる二枚棚構造に対し、二枚棚構造にオモキを組み込んだ船形は、新湊を除く能登半島内浦地域から入善町までの富山湾一帯にのみ分布するものである。
 先述のように、こうした木造の和船は、昭和40年代後半以降FRPなどの新素材による船に置き換わっていった。特にドブネについては、そもそも建造費用が高かったことに加え、オモキに用いるスギの大木の入手が困難になったことなどから、昭和35年頃を最後に建造されなくなった。そのため、ごくわずかではあるが現存例がある他の船種に対して、富山湾で用いられたドブネはすでに現存していない。なお、富山湾のドブネとほぼ同規模で、やや構造の異なるドブネが石川県能登町に3艘、同じく構造が異なりやや小型のものが輪島市に1艘現存しており、能登町の3艘は重要有形民俗文化財に指定されている。
 オモキ造りは、日本海沿岸地域固有の造船技法であり、オモキ造りの構造を持つドブネは、長らく富山湾の定置網漁を支えてきた船である。さらにいえば、近世前半期の日本海海運を支えた北国船や羽賀瀬船がオモキ造りとされているなど、オモキ造りは日本の造船史のなかでも重要な位置を占めるものといえよう。それにも関わらず、富山湾のドブネに関する資料は、いくつかの写真と、氷見市立博物館で展示している氷見型ドブネの船首部実物大カットモデルおよび縮小模型(1/10スケール)があるのみである。
 ただ、現時点ではかろうじてかつてドブネの建造や修繕作業に関わった船大工や、実際にドブネ乗船経験のある老漁師がご存命であり、その知識と経験を記録に残すことが急務といえる。そこで今回、オモキ造りの造船技法としての記録保存とその方法論をテーマとして研究を行った。

2. 造船技法の記録保存とその方法

 造船技法を保存していく最良の方法は、船大工がその技術を次世代に継承していき、定期的に造船の機会を得て、船を造り続けることに尽きる。とはいえ、観光やイベント用以外に和船の需要がなく、船大工の高齢化と後継者の不在が深刻化するなかで、そうした理想は望むべくもない。
 一方で、博物館の通常業務の一つであり、現実的な方法として考えられるのが、実物資料の収集である。無形の民俗文化財である船大工の技術そのものではないが、その技術によって建造された船そのものを残し、用いられた道具を残す。また、合わせて現存船の実測図を作成するほか、建造過程の記録写真や記録映像、船大工からの聞き取り調査の成果などを交えて資料として収集、保存していくことで、技術そのものが途絶えてしまっても、とりあえずは造船技法を後世に伝えていくことにつながるわけである。
 氷見市立博物館としても、これまで実物の船や船大工用具の収集に努めてきたが、ドブネをはじめすでに現存しない船もある。また、かろうじて実測図を残すことができたが船自体は収集できなかったもの、写真資料や板図としては記録に残されているが実物はすでに失われてしまったものなど、この地域の多様な和船文化を考えるうえでの不足は多い。
 造船技法の記録の手段として、もう一つ考えられるのが、船大工による和船模型の製作である。実物の船はコスト、収蔵場所等の問題から建造は難しいが、縮小模型やカットモデルであればそうした諸問題を解決できる。また船大工自身が製作を行うことで、船の構造や船形をある程度まで再現することが可能となる。もちろん、あまりに小さな縮尺であればその分の不具合も生じることなり、またあくまで当時の船を「再現」した二次資料として慎重に扱う必要はあるが、実物資料に代わるものとして、造船技法と船そのものの記録保存とその展示活用に用立てられるものと考える。
 実は、氷見市立博物館では、すでにそうした試みを実践している。昭和56年、当館の開館に向けて製作され、「氷見の漁業」コーナーで展示しているドブネ船首部実物大カットモデルとドブネ縮小模型(1/10スケール、写真1左)は、当時石川県七尾市庵に現存していたドブネをモデルに、そのドブネの棟梁を務めた東度金蔵氏(明治35年生まれ)の指導のもと、船大工の番匠光昭氏(昭和21年生まれ)が製作を手掛けた。庵のドブネは、最後の「氷見型ドブネ」であったが、数点の写真と模型2点を残してすでに現存しない。だが、この模型の製作が、最末期のドブネを修繕した経験しかなかった番匠氏にドブネの建造技術が伝承される機会となったことは大きい。また、同規模かつほぼ同型の能登内浦のドブネと氷見型のドブネとの最大の相違点である船首部の構造を、形として残すことができた点で、この地域の和船研究を進めていくうえでは貴重な資料となった。
 その後も氷見市立博物館では、番匠光昭氏製作による船板材接合工程モデル(写真2)やテンマ建造過程復元模型(1/10スケール)、テント縮小模型(1/10スケール、写真1右)など、模型を通じた和船とその建造技術の記録保存および展示・活用を行ってきた(廣瀬2011b・和船建造技術を後世に伝える会2014)。
 オモキ造りの造船技法としての記録保存とその方法論をテーマとした今回は、ドブネの船尾部を模型として製作し、復元を試みることにした。

写真1 ドブネ縮小模型(左)とテント縮小模型(右)
写真2 船板材接合工程モデル

3. 模型製作のコンセプト

 製作する模型は、氷見型ドブネの船尾部カットモデルである。船首部カットモデルがすでに存在することから、それを補完することを意図したのはもちろんだが、オモキ造りの造船技法上の特徴が船尾に現れると考えたからである。
 棚板構造の船の場合、底板(チョウ)に船首の角材(ミヨシ)と船尾の板材(トダテ)が接合された状態を基本に、棚板が曲げ付けられる。つまり、ミヨシ・チョウ・トダテが船体の基礎であり、いわば洋船の竜骨のごとく船の背骨に相当するものとなるわけである(写真3)。
 一方、オモキ造りの場合は、スギの丸太を半裁して刳り出したオモキが船体の基礎となるため、基本的には背骨に相当する部材はない。船首にはミヨシがなく、そのかわりにロクマイと呼ばれる角材を積み上げて構成される。船尾についてもトダテは後付けの部材であり、オモキや舷側版(ハタ)が組み上がった後に押し込むように取り付けられる。こうした工法のため、棚板構造の船では必ず横板で用いるトダテは、ドブネはじめオモキ造りの船では接合と摺り合わせが考慮され、縦板になるように木取りされる(写真4)。このようにオモキ造りと棚板構造、それぞれの船の船体構造および造船工程上の相違点を顕著に観察できるのが、船尾回りなのである。

写真3 テンマ建造の様子。底板(チョウ)にミヨシとトダテが接合されている。この後、棚板を曲げ付け、船体を形作っていく。
写真4 陸揚げされたドブネの船尾(昭和40年頃)。縦板のトダテが確認できる。

 模型の製作は、船大工の番匠光昭氏に依頼した。番匠氏は、現在の富山県内で実際に和船を建造できる、ほぼ唯一の現役の船大工である。先述したように、ドブネ船首部実物大カットモデルを製作したのも番匠氏であり、ドブネ最末期の昭和30年代後半にはドブネの修繕作業に加わった経験もある。そうした経験知に基づく造船技術を形として残す意味でも、模型の製作は有意義と考えた。
 今回製作する模型の仕様については番匠氏と相談のうえで決めていった。まず、縮尺は1/2スケールとした。既存の模型2点とは縮尺が異なるが、完成後の取り回しと、展示での活用を考慮し、また、感覚的に大きさを判断しやすいこと、チキリや船釘を含めてある程度の部分まで実物同様に作り込めることなどから、実物の半分の大きさで製作することにした。
 製作する部分は、当初は船尾のトダテからチョウ(底板)の接合部までがあればよいと考えていたが、番匠氏のご意見を受け、チョウの屈曲部までとした。厚さ15cm余りの角材を組み合わせたドブネのチョウは、挽き曲げによって船尾側で浅く折れている。その立ち上がりの部分までを製作することになったことから、想定より模型の全長が長くなり、これによって脇櫓用のロベソを備えたヘシオリフナバリについても再現することが可能になった。
 さて、近世以来この地の定置網漁に使用されてきたドブネは、オモキ造りの基本構造はともかくも、その大きさや艤装については時代により変化してきたものと考えられる。例えば、櫓3丁、櫂8~10枚によって操船された無動力時代のドブネには舵はなかったが、機械船に曳航されて漁場に向かうようになった昭和30年代頃には、船尾に舵が備えられるようになった。そのため、船尾のトコの上に舵穴を設けたウワドコが追加で取り付けられたという。また、棚板構造の船では上回りに座板が敷かれるが、ドブネだけはザギと称する丸太を縄で結束したものが敷かれており、それが後に他の船と同じく座板に変わったという。今回、模型の製作最終段階で、ドブネのザギの実物資料が発見されたことから、模型の製作ではそれを見本にすることができた。そのため今回製作した模型では、ウワドコと舵を持たず、上回りにはザギを敷いた、一昔前のドブネの姿を再現することとした。結果、これは七尾市庵の最後のドブネをモデルに、無動力時代のドブネを再現したドブネ船首部実物大カットモデルとドブネ縮小模型に準じるものとなった。
 模型の製作にあたり、既存の2点のドブネ模型から作図した実測図を基礎資料とし、さらに昭和30年代頃までに撮影された古写真(写真5など)および昭和56年頃撮影の七尾市庵の氷見型ドブネの写真を参考とした。さらに、氷見で長らく造船業を営んでこられた船大工の山口升儀氏からご意見をいただいた。山口氏は、七尾市で船大工の修行を積んだ後、昭和27年には氷見に来て、番匠光昭氏の父の元でドブネの建造や修繕作業を手掛けた。特にドブネの船尾回りの作業を専属で務めたといい、今回の模型製作では貴重な話をお聞きすることができた。

写真5 曳航されるドブネの船団(昭和37年10月、氷見市灘浦沖)
第2図 ドブネ実測図 破線が今回のカットモデルのカットライン。破線より後方を模型化した。

4. 類例調査 ~能登内浦のドブネ~

 模型の製作に先立ち、能登内浦に現存するドブネの現地調査を行った。調査には筆者と番匠光昭氏のほか、山口升儀氏にも同行いただいた。山口氏にとっては実に半世紀ぶりのドブネとの対面となった。
 現存する能登型のドブネは全部で4艘あり、そのうち石川県能登町で保管されている3艘が「能登内浦のドブネ」として重要有形民俗文化財に指定されている。氷見型のドブネとは、全長はほぼ同じだが、船首材の構成と組み方や、オモキ材の大きさなど、いくつかの相違点がある。またその一方で、船尾回りには共通点も多い。今回の調査では、筆者と番匠氏が聞き手にまわり、山口氏から氷見型と能登型のドブネはどこが違うのか、あるいはどこが共通するのかなど、実物のドブネを目にしながら、話していただいた。

写真6 石川県能登町遠島山公園のドブネ。現存する能登型ドブネの1艘。

5. 模型の製作

 模型に使った木材には、実物と同じくスギとアテ(ヒバ・アスナロ)を用いた。オモキをはじめとする主要部材がスギで、舷側上部のカイバタなど、強度が必要な部分はアテである。
 部材は、粗木取りの後十分に乾燥させ、製作に取り掛かった。工程としては、6月下旬に製材を行った後、7月上旬には粗木取り、7月末から9月いっぱいで本体の建造および艤装を行った。8月半ばには、先述したようにドブネのザギの実物資料が発見され、その後の作業ではそれを元にザギの復元を行った。なお艤装のうち、ロマクラやハヤオ、ザギの結束などには元漁師の方の手もお借りした。
 模型の製作を進めるなかで、残された写真や能登の現存例では確認できない部分について番匠氏の経験則によって復元された部分がある。一つ目はトダテとチョウの接合面である。棚板構造の船では、チョウに刳り込みを入れてトダテを接合するが、トダテを最後に組み込むドブネではそういった刳り込みの加工は施されておらず、能登のドブネについての過去の調査(石川県立水産高校郷土史研究部1977)や山口氏の証言によれば、チョウに対して真後からトダテを接合するのだという。ただ、その接合方法では材がずれやすくなるため、今回の模型では、加工のしやすさや、接合強度を考慮し、チョウの上にトダテを載せるような構造で復元を行った。二つ目はオモキとチョウの接合方法である。オモキは、外面からホーズキと呼ばれる船釘で接合し、内側にはチョウに続く面を削り出して、チキリが打ち込んで材を固定した。最末期のドブネでは内外面とも接合ラインをまたいで刳り込みを入れた中に平カスガイを打ち込んで固定したというが、今回の模型では、カスガイによる接合以前にはこうした接合方法もあったのではないか、ということからこうした方法を取った。これらの点に関しては、この模型を叩き台として、今後再検討していきたいと考えている。

(1)製材し、乾燥中のスギ材。
(2)粗木取りしたチョウ(船底)。
(3)チョウと粗木取りしたオモキ材。オモキは背中合わせに木取りされる。チョウは内面がチキリ、外面がオトシ(縫釘)で接合される。チキリを打ち込むため、この後、オモキ内面の下部に刳り込みが入れられた。
(4)完成した模型(氷見市立博物館常設展示室)。
(5)断面。チキリを打つために、オモキの内面を刳り込んである。
写真7 ドブネ船尾部カットモデル建造過程および完成写真

おわりに

 完成後、模型は氷見市立博物館常設展示室に搬入し、現在一般公開を行っている。平成27年3月2日には、氷見市立博物館所蔵の漁撈用具2,853点が「氷見及び周辺地域の漁撈用具」として国の登録有形民俗文化財となった。今回製作したドブネ船尾部カットモデルも、既存のドブネ船首部カットモデルおよびドブネ縮小模型とともにその中に加わった。すでに失われてしまった氷見型のドブネだが、模型としてその形を後世に残すことができたのである。この地の漁撈に欠かすことのできなかったドブネを知る貴重な資料として、今後もこれらの模型を活用していきたいと考えている。

引用・参考文献

石川県立水産高校郷土史研究部 1977 「ドウブネの研究」 民俗資料調査報告第1集 能都町教育委員会
出口晶子 2001 『丸木舟』 ものと人間の文化史 98 法政大学出版局
氷見市立博物館 1999 『特別展 氷見の漁業と漁村のくらし』
氷見市立博物館 2001 『特別展 氷見の漁業と漁村のくらしII』
氷見市立博物館 2011 『特別展 氷見の手仕事 ―職人の手業と用の美―』
廣瀬直樹 2011a 「富山の和船 ~富山湾沿岸地域とその周辺の海船・川舟~」 『とやまの和船 和船建造技術を後世に伝える会調査報告書III』 和船建造技術を後世に伝える会
廣瀬直樹 2011b 「船板材接合工程モデルについて」 『氷見市立博物館年報』第29号 氷見市立博物館
廣瀬直樹 2013 「二枚棚構造とオモキ造り ―富山湾周辺地域のテントに見る造船技法―」 『民具研究』 148号 日本民具学会
四柳嘉章 1981 「第三章 漁具・漁法 第三節 和船(漁船)の発達」 『能都町史』 2 漁業編 能都町史編集委員
和船建造技術を後世に伝える会 2005 『船をつくる、つたえる 和船建造技術を後世に伝える会調査報告書』
和船建造技術を後世に伝える会 2008 『氷見の和船 和船建造技術を後世に伝える会調査報告書II』
和船建造技術を後世に伝える会 2011 『とやまの和船 和船建造技術を後世に伝える会調査報告書III』
和船建造技術を後世に伝える会 2014 『富山湾の漁撈用具 和船建造技術を後世に伝える会調査報告書IV』