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稲積川口遺跡出土馬鍬の使用方法を復元する―馬鍬復元モデルの製作から―

廣瀬直樹(氷見市立博物館)

はじめに

 平成20年、能越自動車道氷見北ICのアクセス道路、一般県道鹿西氷見線の道路拡幅に先立つ稲積川口遺跡の発掘調査で、7世紀前半(飛鳥時代)の馬鍬が出土した(写真1)。出土馬鍬としては比較的遺存状態が良いもので、この種の馬鍬としては県内初出土となる資料である。
 馬鍬とは、馬や牛に引かせて水田の代掻きを行う農耕具で、農業が機械化されるまでごく一般的に使われていた。出土遺物としては古墳時代前期以降に確認されるようになるが、台木に複数の歯を備えた基本構造はその時点から大きく変わっていない。だが、歯の長さや柄の形状など、民具としての馬鍬とは違った点があることも見過ごすことはできない。構造上の相違点から、近現代の馬鍬とは異なる使用方法の存在も予想されるからである。
 そこで今回、他の出土馬鍬や近現代の馬鍬との比較・検討を行い、あわせて稲積川口遺跡の馬鍬復元モデルを製作し、定型化以前の馬鍬の使用方法について復元を試みた。

写真1 稲積川口遺跡馬鍬出土状況

1. 馬鍬について

 先述したように、馬鍬は牛馬に引かせて水田の代掻き作業に用いる農耕具である。民俗語彙としてはマグワ・マンガなどと称される。
 馬鍬は古墳時代に大陸より伝来し、日本各地に広まったとされる。最古級の資料としては、古墳時代前期の佐賀県八ツ溝遺跡・静岡県仮宿堤ノ坪遺跡、4世紀後半から5世紀前半の大阪府木の本遺跡、4世紀末から5世紀初頭の滋賀県石田遺跡の例があり、その伝来は古墳時代前期にさかのぼると考えられる。奈良時代から平安時代には歯が木製から鉄製に転換し、全国的に定型化の道をたどる。定型馬鍬と呼ばれるそれは、台木の長さが90cm前後、歯は鉄製で20cm程度、歯の本数は8~9本、台木の上方に伸びる柄と把手は鳥居形となり、前方に引棒が付属する(写真2・図1)。こうした定型馬鍬は、農業が機械化する昭和30年代頃まで使用されてきた。なお、出土馬鍬の歯は、鉄製歯を持つ定型馬鍬と同程度の長さのものもあるが、比較的長大なものが多い。
 奈良時代以前の木製の歯を持つ馬鍬については、稲積川口遺跡例を含めて全国で48遺跡60例程度の出土が確認されている(註1)。おおむね6世紀後半から9世紀前半が中心で、古いものでは前述したような古墳時代前期ものがある。近畿地方を中心に東北から九州まで広範囲に分布しており、それも6世紀後半にはすでに東北まで広まっていたようである。
 出土馬鍬は脆弱な木製の遺物であるため、全体像を伺える資料は少なく、台木の断片だけの出土というものもあれば、歯が残っていないものもある。特に、馬鍬の使用方法を考えるうえで重要な部材である柄については良好な出土例が少なく、台木に残る柄孔から類推するしかなかった。
 出土馬鍬の柄孔には、水平方向のもの、垂直方向のもの、柄孔が無いものの3種が確認されており、なかでも水平方向の柄孔を持つ馬鍬が多い。この水平方向の柄孔を持つ馬鍬については、柄孔に棒を通して複数の馬鍬を連結させる平枠馬鍬(河野1994)や、柄の下方に L 字に曲がったホゾを想定する復元案(奈良国立文化財研究所1985)が考えられてきた。一方、柄孔が垂直方向の馬鍬は、定型馬鍬と同様の構造であり、柄の形状も定型馬鍬と同じような鳥居形のものが想定される(註2)。また柄孔が垂直方向の馬鍬で、柄が現存する例として大阪府上田部遺跡出土馬鍬(8世紀前半)があるが、これは台木の上に伸びる柄に股木を利用した握りを持つという、定型馬鍬とは異なる特殊な形状である。
 引棒が現存するものは兵庫県山垣遺跡(8世紀前半)の1例のみである。この山垣遺跡出土馬鍬には柄孔がなく、柄が無いタイプの馬鍬と考えられている。

写真2 定型馬鍬(氷見市立博物館所蔵)
図1 定型馬鍬(氷見市立博物館所蔵)略測図
(写真1の馬鍬とは同形の別個体)

2. 稲積川口遺跡の馬鍬

 稲積川口遺跡の調査で出土した馬鍬は、引棒は欠くものの非常に良好な状態であった(図2)。台木はクリ製で、全長117.5cmを測り、断面は最大高10.7cm、最大幅8.1cmを測る。歯の総数は11本で、すべて装着状態であった。歯は、先端が刃状に尖っており、根元はやや太く、台木に収まる部分は刀の茎状にやや細くなっている。歯の上部は台木を貫通して上に突き出ており、歯が抜けないように、突き出た部分の孔に横棒が通されている。また、台木と歯の隙間には木製のクサビが差し込まれ、歯のがたつきが防止されている。歯の長さは、台木下端から約45~47cmを測る。
 歯の進行方向裏側には、台木から17cm程度の位置に縦幅2.5cm程度の圧痕が残る。また進行方向側には、裏側の圧痕を挟む上下2か所に圧痕が残る。これら表裏3か所の圧痕は、11本の歯全てで確認できる。この圧痕については、歯と直交する方向に当て木を固定してあったため生じたもの、と推測している(廣瀬2010)。当て木は進行方向裏側に縄で縛り付けられ、進行方向側に残る縄の跡が進行方向側の2か所の圧痕ではないかと考えた。
 台木には柄孔や引棒孔以外にも小さな孔が3か所に貫通しており、それぞれに目的・用途不明の小角材が差し込まれている。小角材は、抜け防止のため頭部を設けたもの、台木を突き抜けた部分の孔に横棒を通したもの(註3)、台木と面一になっているものがある。なお頭部を設けた小角材の台木を挟んだ反対側にも横棒を通した孔の一部が残る。
 この馬鍬で特筆すべき点として、柄の現存があげられる。台木に2本の柄が装着されており、うち1本は端部まで完全な状態で残されていた(もう1本は中間部を欠損)。その柄の形状は、定型馬鍬の鳥居形の柄と違って台木の後側に伸びるものである。先述したとおり、台木に対して水平方向、つまり歯に直交する方向の柄孔を持つ馬鍬はこれまでも多数の出土例があった。こうした柄孔に対応する柄の形状が把握できる資料としては、愛知県の勝川遺跡出土の断片的なものに次ぎ、全体形がうかがえるものとして貴重な資料といえよう(註4)。なお、柄は台木に差し込まれたホゾの部分の付け根で屈折し、やや湾曲しながら斜め上にのびており、歯に対して約100度の開きを持つ。また、上からみると微妙ではあるが左右に開きがあるようである。なお、歯を垂直にした際の柄の高さは最大約61cmを測る。操作者は後に突き出た柄を両手で保持して使用すると推測され、その状況は運搬用の一輪車(手押し車)を想起させるものとなる(註5)。このタイプの馬鍬を、便宜上本稿では水平柄馬鍬としておく。
 欠落している引棒は、おそらく護岸遺構に組み込まれる際にはすでに抜き取られていたものと考えられる。引棒孔は台木に対し前後方向に貫通しており、台木後側の引棒孔周辺を観察すると縦方向にクサビが差し込まれていたような圧痕が残る。歯上端突出部や小角材の固定方法と同じく、引棒も後端に設けた貫通孔にクサビを打ち込んで固定してあったものと推測される。

図2 稲積川口遺跡出土馬鍬実測図

3. 出土馬鍬の形態

(1)柄の形状と歯の長さについて
 先にも触れたように、出土馬鍬は長大な歯を持つものが多い。稲積川口遺跡の馬鍬は、その典型的な例といえよう。図1で示した定型馬鍬と図2の稲積川口遺跡馬鍬を見比べるとわかるように、台木に10本前後の歯を持つという基本形は共通するものの、その姿はかなり異なっている。「一部に馬鍬としての使用を危ぶむ声もあるほど」(黒崎1996)というのもうなずける。一方で、兵庫県小路大町遺跡例(8世紀前半)や、静岡県岳美遺跡例(8世紀後半~9世紀前半)のように歯が短いタイプの出土馬鍬については、定型馬鍬と比較してもさほど違和感はない。
 台木の上にのびる柄が残存していた大阪府上田部遺跡例では、歯の長さは台木の下端から約32cmと、鉄歯の定型馬鍬の15~20cm程度の歯長と比べ、いささか長い。ただし柄の先端から歯先までの馬鍬の全高は77cmで(註6)、図1に示した氷見市立博物館蔵の定型馬鍬の全高77.1cmとほとんど同じ数値となる。柄・把手は鳥居形にならないが、上田部遺跡例では定型馬鍬と同様の使い方が可能だったと推測される。
 対して、歯が台木下端から約45~47cmと長く、後にのびる柄を持つ稲積川口遺跡例では、定型馬鍬と同じ使い方は想定しづらい。定型馬鍬に比べて長大なものが多い出土馬鍬の木製歯は、より深い水田を代掻きするためのものとも考えられるが、それでは馬の使用に適さない。また歯が深くささらず、台木が田面から浮いた状態で作業していたことも考えにくい(松井2004)。だが、稲積川口遺跡例のような水平柄馬鍬あれば、その操作体勢からしても歯が根元まで土に刺さることは無く、重い台木を宙に浮いた状態で保持しなければならない。一方で、鳥居形の柄・把手を持つ馬鍬であれば、把手を持って下に押さえつける力を加えることができ、歯は根元まで水田にささることになる。なお稲積川口遺跡例では、歯の中央に横棒の当て木が添えられていたと推測しているが、当て木の推定位置は歯先から約28cmとなる。当て木をしても定型馬鍬より歯が長いが、前述の上田部遺跡例とはさほど変わらない数値となる。

(2)引棒と歯の角度について  次に、出土馬鍬では唯一引棒が残存している兵庫県山垣遺跡(8世紀前半)と比較してみたい(図3)。山垣遺跡例では、引棒が台木から斜め下方にのびており、そのため引棒と歯の角度は約50度と鋭角になる。だが、出土馬鍬の多くは歯と引棒孔が台木の前後方向に真っ直ぐ彫り込まれており(田中2011)、引棒は歯と直角となると推測される(註7)。こうした点で、山垣遺跡例は特徴的ではあるが、一方で民具の馬鍬と比較すると、引棒が台木から斜め下方にのびる例は一般的にみられる事例である。例えば、図1の実測図で示した定型馬鍬では引棒と歯が65度の角度を持つ。また、引棒は馬の鞍に結わえらて引っ張られるため、角であろうと直角であろうと、馬鍬の進行方向に歯先を向けるよう傾くことになるわけである(註8)。だが水平柄馬鍬では、後側に突き出した柄を保持する限り、歯先は真下を向く。歯先を前方に向けるためには柄をかなり下げる必要があり、不自然な姿勢を強いられることになる。

図3 馬鍬の引棒と歯の角度
左:山垣遺跡(奈良国立文化財研究所1993よりトレースし反転)
中:稲積川口遺跡(引棒は推定)
右:氷見地域の定型馬鍬(氷見市立博物館所蔵)

4. 馬鍬復元モデルの製作

 このように、定型馬鍬とは異なる形状を持つ水平柄馬鍬については、形状が明らかになったとはいえ、その使用状況については謎が多い。また、両者は台木に10本前後の歯を持つという基本構造は共通するものの、特に使用方法の面で異なる操作方法、使用体勢が積川口遺跡の馬鍬の実物大復元モデルを製作した。製作は、木材の扱いに長けた氷見市在住の船大工、番匠光昭氏に依頼した。
 復元モデルの材料には、実物と同じクリ材を用意した。台木の寸法、柄孔、歯孔の大きさは実物とほぼ同寸とした。ただし歯については、実物同様に先端を尖らせ剣状に加工すると、歯を支点にした使用状態の再現や、今後の展示・活用を考えた場合に強度の不足が懸念されるため、太く先端も平たいままとした。また柄については、実物は芯持材の、おそらく曲がりを持つ細い枝などを利用したものとみられるが、やはり強度不足が心配されるため、同じ栗材から削り出したものとした。これら、材料の手配から細かい仕様に関しては、筆者が作製した図面を基に基本的に番匠氏にお任せし、適宜打ち合わせの場を持った。

写真3 馬鍬復元モデルの製作
(左上:クリの原木 右上:台木 左下:歯 右下:完成)

5. 馬鍬復元モデルによる検討

(1)使用体勢について
 完成した馬鍬復元モデルを実際に持ってみると、いかにも重い。伐り出してから日が経っておらず、水分を含んだ生木であることを加味してもかなりの重さがある。ただ、柄を両手で保持し歯先を支点に構えてみると、さほど扱いづらさは感じない。身長172cmの筆者でも背を丸めて持てば普通に使える柄の高さである。その形状から運搬用一輪車に似た使用体勢を想像していたが、操作の際には実際にそのような体勢をとることになる。また鳥居形の柄・把手と違い、下に押し付ける動作はできない。操作者は、馬に引かれる馬鍬を歯が垂直になる角度で支えることが主な役割であり、馬鍬を田面に押し付ける、左右に振る、といった動作は困難と考えられる。

(2)用途不明の小角材について
 今回、馬鍬復元モデルを作成して収穫だったのが、用途不明だった台木3か所の小角材について新たな知見が得られたことであった。以前の報告(廣瀬2010)では、欠損した前方側に縄などを結わえて引棒の補助として用いられた可能性を指摘していたが、もとより根拠のあるものではなく、馬鍬の構成材としてほかに考えようがなかったからにすぎない。実際には、現存する台木の後側だけでなく、前側にも横棒のクサビを貫通させてあったため、引き綱を結わえるような強度はなかったと考えられる。むしろ前後に横棒や出っ張った頭部を設けて台木を締め込むような役割、例えば台木を締めて歯が抜けるのを防止するためなど、小角材を組み込み、台木を締め込むこと自体が目的だったのではないか、と漠然と考えていたわけである。
 復元モデルが完成に近づいた頃、番匠氏からこの小角材の解釈について指摘を受けた。番匠氏によると、歯を台木から抜き差しする際、孔がきついので金槌で叩く。そのため徐々に台木の歯孔周辺に割れが生じてきているという。実際の馬鍬でも、こうした割れた部分を押さえるために小角材をボルトのように用い、横棒のクサビで締め付けたのではないか、とのことであった(写真4)。
 これは、若干その意味するところは異なるものの、漠然と考えていた「台木を締め込むこと自体が目的」という仮説に合致するものであった。何より、それが実際に長年木の加工を手掛けてきた職人より語られた、ということを強調しておきたい。あらためて稲積川口遺跡の馬鍬の台木を観察してみると、中央から付近の台木下側の歯孔には、歯孔同士をつなぐような亀裂が見られ、台木右端にいたっては歯孔周辺がブロック状に欠落しているのも確認できる。こうした亀裂や欠落は馬鍬の埋没以後のものと考えていたが、歯の抜き差しや、歯周囲にクサビを打ち込む際など、製作時ないし使用時に生じた可能性も当然考えられるのである。
 復元モデルを通した検討によって、稲積川口遺跡の馬鍬において謎のひとつであった3か所の小角材については、欠損しているものもあるが、台木の前後を出っ張った頭部や横棒によって台木を締め込むためのものであり、それ自体で完結しているものである可能性が高まった。また角材の位置についても、割れ防止だとすれば別の解釈が可能になる。これまで、柄との位置関係に目を取られ、左右の柄の内側に左右対称に配置し、右側のみ単独で配置されると解釈していたが、柄の位置を考えず角材の位置のみに着目すると、台木の右側に等間隔に存在することがわかる。台木の木質の影響で、左側は割れが生じず、小角材で締める必要がなかった。その一方、割れが生じた台木右側に等間隔に小角材とクサビによる締めを施した、という解釈である。副次的とはいえこうした知見が得られたことは、復元モデル製作の大きな成果であった。

写真4 復元モデル歯孔に生じた割れと小角材

おわりに

 実物大の馬鍬復元モデルを製作し、実際に手にとってみることによって、出土馬鍬の問題点を整理し、その形態が決して完成されたものではないということを実感することができた。また、製作の過程において、用途不明であった小角材について、仮説を提示することができたのも大きな成果であった。
 結局、水平柄馬鍬は淘汰され、奈良時代から平安時代に鉄歯へ転換して以降は定型馬鍬に統一されていくことになる。民具の馬鍬には、水平柄馬鍬の柄の形状が継承されたものはない。それはその構造の使いづらさに起因するのではないだろうか。
 さて、今回製作した馬鍬復元モデルは、展示台の上から横たえたままの実物とは異なり、実際に手に取ることができる。使用方法の検討だけではなく、博物館での展示をはじめとする活用にもさまざまに利用していきたいと考えている。

(1)河野通明氏、田中義昭氏、松井和幸氏の集成に管見の資料を加えた(河野1994・田中2011・松井2004)。このなかには松井氏が「2類馬鍬」とする小型の馬鍬も含む。実際には、小型の馬鍬は1本の柄を設けて使用するもので、牛馬を用いた畜産農耕具である馬鍬とは一線を画すものと考えられる。
(2)なお、島根県の西川津遺跡では鳥居形の馬鍬柄が出土している(田中2011)。
(3)建築用語で「鼻栓止め」と呼ばれる構造に近い。これは柱を貫通させたホゾに孔を開け、クサビ(鼻栓)を打ち込んで抜けなくする技法である。
(4)愛知県春日井市の勝川遺跡出土の馬鍬は、歯4本分の台木が残存し、3本の歯、斜め後方にのびる柄が1本現存する。飛鳥~奈良時代のものとされる(田中2011)。台木下端からの歯の長さは約34cmで、稲積川口遺跡例と比べると10cm以上短い。
(5)ちなみに一般的な運搬用一輪車の柄の高さはおおよそ65cm程度を測り、近似値を示す。
(6)数値は『木器集成図録 近畿古代編』によった(奈良国立文化財研究所1985)。
(7)実際には、稲積川口遺跡の馬鍬の柄が斜め上に屈折しているように、引棒孔の角度と引棒そのものの角度が一致しない可能性もある。
(8)民具の馬鍬では、引棒と歯が直角になり、あらかじめ柄が台木に対して斜めに取り付けられているものもある。そうした馬鍬では使用時も歯先は真下を向くことになる。引棒の角度、操作者の柄の傾け角など、地域差・年代差・操作者の個人差等を考慮する必要があろう。

引用・参考文献

河野通明 1994 『日本農耕具史の基礎的研究』 和泉書店
河野通明 2009 「農耕と牛馬」 『人と動物の日本史2 歴史のなかの動物たち』 吉川弘文館
黒崎 直 1996 「古代の農具」 『日本の美術』 №357 至文堂
田中義昭 2011 「古代馬杷一試考」 『弥生時代集落址の研究』 新泉社
奈良国立文化財研究所 1985 『木器集成図録 近畿古代編』 奈良国立文化財研究所 史料第27冊
奈良国立文化財研究所 1993 『木器集成図録 近畿原始編(解説)』 奈良国立文化財研究所 史料第36冊
氷見市教育委員会 2009 『稲積川口遺跡 一般県道鹿西氷見線地方特定道路事業に伴う発掘調査報告』氷見市埋蔵文化財調査報告第52冊
廣瀬直樹 2010 「稲積川口遺跡出土の馬鍬について」 『氷見市立博物館年報』 第28号 氷見市立博物館
松井和幸 2004 「馬鍬の起源と変遷」 『考古学研究』 第51巻第1号 考古学研究会
雄山閣 2008 『季刊考古学』 第104号 特集 弥生・古墳時代の木製農具

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