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越中万葉歌の継承とその展開について-歌枕を視点に-

田中夏陽子・新谷秀夫・関隆司・垣見修司(高岡市万葉歴史館)

1. はじめに

 越中万葉は、万葉集成立以後、「歌枕」として知られていた。それは越中万葉歌そのものを広めることではなかったが、都の人々に越中への憧れを抱かせることとなった。越中万葉の歌世界は、長きにわたり多くの人々にとって、歌枕という漠然とした存在であった。それが、近世後半になり、国学が広がり、版本による万葉集やその注釈書が普及することによって、越中万葉の世界は、歌枕という茫洋なものから、実際に万葉集の本文を読み、理解するものへと飛躍をとげた。そして、内山逸峰・宮永正運・五十嵐篤好といった郷土の人々によっても、越中万葉研究が進められ、さらには勝興寺19代住職法薫による「布勢湖八勝」のような美的で文芸的な創作活動という形で結実していく。

2. 歌枕とは

 「歌枕」とは、今日、和歌に多く詠み込まれる名所や旧跡をさす言葉である。しかしながら、もともとは、「歌の枕」-歌の表現の拠り所・典拠-という意味の、和歌に詠み込まれる歌ことば全般をさしていた。たとえば、平安時代中期の能因(のういん)(988~?)によって書かれた『能因歌枕(のういんうたまくら)』のように、地名だけではなく、花や鳥、気象や季節の風物などの一般的な歌言葉全般をとりあげる歌学書も「歌枕」と呼ばれていた。それが、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、今日のような、地名だけに限った狭い意味で用いられるようになったのである。
 歌枕と称される地名は、単に名所を意味するばかりでなく、「龍田山(たつたやま)」といえば「紅葉(もみじ)」を連想するように、歌全体のイメージをも決定づけていくキーワードであり核である。
 都の貴族たちによって、歌や物語の中でのみ語られながら、現実の風景から離れていくと、掛詞(かけことば)などの修辞によって心情を導き出す言葉となっていった。
 田中裕(ゆたか)氏によれば、歌枕は、うたわれ続けるうちに、次のように変化するという(『後鳥羽院と定家研究』和泉書院、平成6年)。
 第1段階 現地詠
 第2段階 地名と景物・景趣が慣例的に結びつく
 第3段階 地名の修辞的機能に関心が集中
 さらに、中世以降、秀歌とされる歌の中には、第3段階の修辞的機能を保ったまま、あたかも現地で詠まれたかのような仮想の歌としてあらわれるのである。

3. 万葉集と歌枕

 『万葉集』の歌には、約半数に地名が詠み込まれており、その多くが現地で詠まれたものだと言う。
 歌枕という概念が一般化するのは、平安時代に入ってからである。しかし、万葉後期には、「住吉(すみのえ)」といえば「忘れ貝・黄土(はにふ)」、「逢坂山」といえば「逢瀬・別れ」というように、すでに地名と特定の景物や人事の詠み合わせに固定化がみられる。また、『万葉集』において「玉櫛笥(たまくしげ)二上山(ふたがみやま)」「海(わた)の底(そこ)沖つ白波龍田山」、のように枕詞(まくらことば)や序詞(じょことば)を伴う地名は、後に名所化し、歌枕として自立していく。万葉歌の地名表現は、歌枕の前史段階にある。
 越中の歌枕についてみてみると、「二上山」といえば「ほととぎす」、「布勢(ふせ)の水海(みずうみ)」といえば「藤」などといった詠み合わせの固定化がみられる。これは大伴家持が越中での5年間の生活の中で風土と親しみ、育まれた嗜好が『万葉集』に記載されたことにより、後世そのまま歌枕として形作られていく。
 家持が越中守(えっちゅうのかみ)として赴任し、多くの歌を残していたため、和歌史において、越中が空白地帯とならずに済んだのである。

4. 越中万葉の歌枕

 越中の歌枕の多くは、『万葉集』を元とするものが大部分であり、奈良時代、越中国守(えっちゅうこくしゅ)として赴任していた大伴家持(おおとものやかもち)の生活圏である射水(いみず)郡、特に国府(こくふ)付近に集中している。
 また、多くの歌学書に取りあげられている「多胡(たこ)」「布勢(ふせ)の水海(みずうみ)」「奈呉(なご)」「二上山(ふたがみやま)」「礪波(となみ)山」「三島野(みしまの)」などは、単純に越中万葉歌を出典とする地名というだけで歌枕化したのではない。
 平安時代以降、都(みやこ)の人々によって、いにしえの万葉びとに対する憧憬(どうけい)と共に、特定の景物や情景と結びつけられ、歌枕へと変化していったものなのである。
 その究極は、「有磯(ありそ)」「卯花山(うのはなやま)」などの歌枕のように、万葉歌では普通名詞として詠まれていたものが、その歌全体のイメージから固有名詞化し、そこからさらに特定の地域の名称として固定化されるまでに至ったものもある。
 このように「歌枕」は、多くの人がイメージを共有しているものであるため、「越中万葉の歌枕」を知ることによって、平安時代以降、後世の人々が、越中にどのようなイメージを持っていたのかをかいま見ることができる。
 無論、越中の歌枕には出典不明のものもある。平安時代中期に成立した歌学書の代表でもある『能因歌枕(のういんうたまくら)』(広本)の「越中国」には、「すゞめの嶋・うしのかは・たちゐの社 いつはりの山・あるま川・うたがひの山・たまほりの川・すゞめ川・しほやま・たまゆふの里・小野森」と、所在不明の地名が挙げられているが、万葉に関わる地名はひとつもない。また、平安中期の歌人で越中国守として赴任していたと思われる源頼家(よりいえ)の天喜元年(1053)八月の記載がある「越中守頼家歌合(うたあわせ)」にも、「立島(たつしま)・鹿汲川(かくみがわ)・無景水(かげなしのみず)・櫛田杜(くしだのもり)・三島(みしま)・木葉郷(このはのさと)・渋谷浦(しぶたにのうら)・石西渡(いわせのわたり)・名子続橋(なごのつぎはし)・二神山(ふたがみやま)」と『万葉集』にみられない地名も見られる。大伴家持以後も数多くの国司(こくし)が越中国に赴任したわけであるから、現存しないたくさんの歌が詠まれ、それらの歌から歌枕が生まれていたのかもしれない。

5.「越中歌枕マップ」

 こうした越中万葉における歌枕を視覚的に理解するために、越中国全体と、歌枕が集中している射水郡の2枚の「越中歌枕マップ」を制作した。制作にあたっては、2つの点を考慮した。

越中歌枕マップ・越中国>
・使用した絵図
(財)高樹会所蔵・射水市新湊博物館保管「越中四郡村々組分絵図(文政八年四月)」
越中歌枕マップ・射水郡>
・使用した絵図
(財)高樹会所蔵・射水市新湊博物館保管「射水郡分間絵図(文政六年九月)」

 第1点は、使用する地図の選定である。昔の地名が数多く記されており、かつ近代の開発が進む以前の山河の地形がわかるもの、現代の主要な街や鉄道などの交通網を重ね合わせることができるものを条件とした。
 選定にあたっては、近世絵図を専門とされている射水市新湊博物館の野積正吉氏にご助言をいただき、(財)高樹会所蔵・射水市新湊博物館保管の「越中四郡村々組分絵図(文政八年四月)」と、同「射水郡分間絵図(文政六年九月)」を用いた。両絵図とも、江戸時代後期の測量家石黒信由(いしくろのぶよし)によって制作され加賀藩に提出された絵図の控えで、現代の国土地理院の地図にも匹敵する精度を持つ重要文化財指定されている絵図である。
 第2点は、マップに記載する歌枕の選定基準と表記について。マップには、中世和歌の歌学書の集大成で後世に多大な影響を与えた順徳(じゅんとく)院(1197~1242)による『八雲御抄』の名所部に掲載されている地名及び、万葉集にみられる地名を記載することとした。

順徳院『八雲御抄(伝伏見院筆本)』第五・各所部で、越中に関連する注のある歌枕>

 候補地が複数あるものには*を付した。結果的に、越中のおもな歌枕と、越中万葉にみられる地名の比定地を掲げることができた。
 なお、地名の表記や場所の選定については、越中万葉研究の基礎資料として活用される機会が増えた当館編『越中万葉百科』に準じている。

越中のおもな歌枕
越中万葉百科

6. まとめにかえて

 今回制作した2枚の「越中歌枕マップ」は、この秋より、大型展示パネルとして常設的に展示している。越中万葉の歌世界を、歌枕という切り口で視覚的に示したものだが、越中の和歌史研究のみならず、宮永正運の『越の下草』をはじめ森田柿園の『越中志徴』などの越中郷土史を研究する際にも、使い勝手のよい有益なマップとなっている。
 また、文献調査の際には、新資料の発見もあった。飛騨国の国学者田中大秀の手よるものと考えられる『遊覧越中旧国府大伴家持卿古蹟述懐辞』(勝興寺蔵)である。当館で本年度の秋に刊行した『開館20周年秋の特別企画展 越中万葉の歌枕─越中万葉研究のあゆみ2』の図録で、カラー写真と共に内容の一部について触れたが、詳細は本年度3月末刊行の当館紀要で述べる予定である。また、同じく大秀の、越中万葉の故地めぐりの記録集である随筆『越中紀行草』等、従来ほとんど注目されてこなかった富山県と田中大秀の関係について、飛越能の交流史も視野にいれつつ、今後の研究課題としたい。

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