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氷見地域の和船とその建造技術~他地域との比較検討を通して~

廣瀬直樹(氷見市立博物館学芸員)

1. はじめに

 平成15年に氷見市教育委員会が実施した鞍川D遺跡の発掘調査で平安時代の丸木舟が出土して以来、氷見市立博物館では、各地の出土丸木舟および木造和船とその建造技術、それら和船を用いた漁撈と習俗の調査を研究テーマのひとつとして活動している。
 氷見地域では、昭和40年代頃まで海や河川、十二町潟と周辺の湿田地帯では大小さまざまな木造船が使用された。これらは人々の生活と密接に関わり、定置網漁をはじめとする漁撈、海や川での舟運、潟周辺での農作業などに活躍した。しかし、FRP(繊維強化プラスチック)製の船が全盛となったことや、十二町潟や河川の環境の変化により木造船はそのほとんどが姿を消してしまった。
 氷見地域の木造船は、準構造船の範疇におかれるオモキ造りのドブネをはじめとして、構造船であるテント・サンパ・カンコ・テンマ・タズルといった多種多様なものがあった。だが、現在では小型の船が数艘ずつ保存されているにすぎず、ドブネ・テント・サンパといった大型船にいたってはすでに現存していない。また、富山湾沿岸の各地で使用された木造船についても、そのほとんどは基礎的な調査・研究がなされないままであり、すでに消失してしまったものも多い。
 今回、氷見地域の木造和船とその建造技術について、現存資料および船大工からの聞き取りを基に、富山湾沿岸の周辺地域との比較・検討、また他地域との比較・検討を行った。

2. 調査の目的

 日本海沿岸地域の木造船については、赤羽正春氏、出口晶子氏らの研究がある(赤羽1998・出口1995・2001ab)。日本海沿岸の若狭湾、丹後半島から秋田の男鹿半島にかけて、ドブネ型と称される準構造船が分布する。これらはオモキ造りという造船技法を船体構造の基本にすえた船である。オモキ造りは、刳船と板船双方の技法を船体に生かしたもので、舷側下方に刳り貫き材を用いた平底の形状、三角に尖る船首と箱型の船尾、接合に木製カスガイであるチキリや木栓であるタタラ、接着剤としてウルシを用いるという共通点を持つ。また、オモキ造りの船の多くは、推進具として鵜の首櫓というツクを持たない独特の櫓が櫂と併用される(註1)。
 氷見のドブネは、全長約14~15mの大型船で、定置網漁の網起こしに用いられた。氷見のほか、新湊、魚津でもドブネが使用されており(魚津市史編纂委員会1972・新湊市史編さん委員会1992・富山県1973・和船建造技術を後世に伝える会2008)、明治期には岩瀬でもドブネが導入されたという(註2)。
 一般に日本の造船史のうえでは、丸太を刳って造る単材の丸木舟から、刳材を船体の一部に組み込んだ準構造船、板材を接ぎ合わせて建造する構造船へと発展していく、という発達過程が示される。だが実際にはそう単純ではなく、地域によっては単材の丸木舟が近年まで現役で活躍し、オモキ造りや東北地方のムダマハギといった準構造船が構造船と並存してきた。日本海沿岸地域においては、ドブネに代表されるオモキ造りの船が、漁の形態と結びつき構造船と併用されてきたのである。
 氷見では、昭和40年代にはドブネが使われなくなり、代わって使用されたのがテントやサンパといった二枚棚構造の大型船であった。これらはドブネと比較して建造費が安く、船足も速かったため、定置網漁の主力となっていった(註3)。特にテントは、後には焼玉エンジンやディーゼルエンジンを備えたテント型動力船として活躍した。テントという名称は、氷見のほか新湊、岩瀬でもみられ、同様の二枚棚構造の大型船としては、黒部の櫓船、入善の芦崎作りの舟などがある(黒部市誌編纂委員会1964新湊市史編さん委員会1992・富山市史編さん委員会1987・入善町史編さん室1990)。これらは地域によって、あるいはその船が使用される漁法によって、微妙な差異があったと考えられる。
 さて、氷見で使用されたテントはすでに現存しておらず、昭和30年代に撮影された写真に残るのみである。そのため二枚棚構造で全長が9~12m程度(註4)であるということ以外、不明な点が多い。だが、平成19年度に実施した氷見の船大工、番匠光昭氏(昭和21年生まれ)からの聞き取り調査により、同じく二枚棚構造をとる小型船テンマとテントの大きな違いとしてオモキ、キリモモという刳材が組み込まれる点があるということが明らかとなった(註5)。オモキは丸太を半裁してマサカリ・チョウノではつり出したもので、チョウ(底板)の左右に接合され、さらにその外側にカンジキ(中棚)が付く。つまり、根棚としてオモキが入れられているわけである。オモキは船首ではコナガシ、船尾ではキリモモに接合される(註6)。船大工によると、ドブネのオモキ造りとはまた違ったものという認識はあるが、1本の丸太から背中合わせに木取りし、はつり出すことなどはドブネのオモキと同じ、という。
 富山湾の二枚棚構造の船にオモキと呼ばれる用材が組み込まれていることについては、出口晶子氏が『日本と周辺アジアの伝統的船舶』の中で魚津市や滑川市の手繰網漁船の例としてあげ、「ドブネと構造上関連性のある船」としていたが(出口1995)、それ以上の検討はなされてこなかった。だが、富山湾沿岸地域の構造船としてある意味最も完成されたものといえるテントに、ドブネに通じる刳材オモキが接合されるということは、この地域の和船の建造技術を捉えるうえで、大きな問題点を投げかけるものであろう。また、一般に二枚棚構造の船を指すテントであるが(註7)、オモキを組み込んだものは、三枚棚構造、いわゆる弁才船の三階造り(註8)に通じる可能性が指摘できる。そこで、富山県内の氷見以外の地域、あるいはさらに離れた地域の二枚棚構造の大型船との比較・検討を通じ、オモキ造り分布圏の構造船について考えてみたい。

氷見周辺地域の木造船断面模式図
氷見周辺地域の木造船断面模式図

3. 氷見地域の二枚棚造船

 氷見地域で二枚棚構造を持つ船としては、テント・サンパ・キンパチ(註9)・テンマがある。
 テンマは、全長4.5~6m程度、ハタ(舷側板)とチョウ(底板)の間にカンジキが入る二枚棚構造の小型船である。軽くて扱いやすいため、たいてい小商売の漁師が1人乗り、櫓と櫂を練って操船された。また、荷物の運搬や、大きな船の艀にも使用された(阿尾地区高令者生きがい活動推進協議会1983・小境2005・氷見百年史編修委員会1972)。
 現在、氷見市立博物館で収蔵しているテンマには、氷見のものと、石川県志賀町大島で使用されたものの2種類がある。能登半島を挟んで東西に位置する氷見のテンマ(氷見型)と志賀町大島のテンマ(能登外浦型)は形状がやや異なり、特に構造上の大きな差異が、カンジキの角度とミヨシ材への接合の仕方の違いである。
 氷見型は、チョウにカンジキをゆるい角度で接ぎ付け、ほとんど平底に近くなる。カンジキは、船首側端部が三角形に収束していき、側端面にハタが接ぎ付けられる。そのためカンジキはミヨシには接合されない。船首側ではカンジキはほぼ水平になり、ハタとは直角に接合される。一方、能登外浦型は、氷見型に比べカンジキがチョウに対して急角度に接ぎ付けられている。カンジキは船首へ向けて90度近くひねりが加えられ、ミヨシに接合される。そのためカンジキ材船首側の平面形は尖った四角形となる。ハタは船尾から胴部にかけてはカンジキの側端面に直交するように接合されるが、船首先端付近ではハタの下端を切り欠き、カンジキ端面にハタ端面をのせるように接ぎ合わされている(註10)。どちらも船首下方にコナガシという部材が入り、カンジキと接合されるが、氷見型ではコナガシとカンジキがほぼ直交するのに対し、能登外浦型ではカンジキをミヨシに接合するため、コナガシとカンジキの角度は鈍角となっている。
 この構造の違いにより、氷見型は平底に近く平板な船形となり、一方の能登外浦型はミヨシが反り上がって底は尖り、より波切りを重視した船形となる。これは内湾で比較的波が穏やかな氷見地域と外海である能登外浦の、自然条件の違いが大きく関係していると推測される(和船建造技術を後世に伝える会2008)。
 さて、小型船のテンマに対し、テントとサンパはどちらも二枚棚構造を持つ大型船で、テントが全長9~12m程度、サンパが7.5~15m程度とされる(註11)。氷見で造船を手掛けた船大工からの聞き取りによると、「氷見テンマを大きくしたのがサンパ、能登テンマを大きくしたのがテント」であるという。つまり、先述した氷見型テンマと能登外浦型テンマの差異がそのままテントとサンパの差異に当てはまる、ということである。よって、テントは、カンジキをひねって水押材に接合し、それにより船首が尖りぎみとなるもの、サンパは、カンジキをひねらないためミヨシに接合されず、カンジキとチョウとの角度が開いて平底気味となるもの、と捉えることができよう。
 先述のように、テンマとテント・サンパを分かつ最も大きな違いがオモキやキリモモという刳材の使用となる。現在、氷見型のテントは残存していないため、写真資料のみが検討の材料であった。だが、特徴であるオモキ・キリモモについては基本的に水面の下となる部分であるため、写真には写らない。また数少ない陸に曳き揚げられた写真でも船体下面となるオモキの部分はよく見えない。よって写真資料からはオモキについての情報はほとんど得られなかった。ところが、氷見市姿の九殿浜にテント型動力船の残骸が打ち上げられていることが明らかとなり、わずかではあるが、氷見型のテントについての情報を得ることができた(註12)。
 残骸として残存するのは、船尾寄りの船底部で、チョウ、ジンノキ(註13)、キリモモ、カントウ材(註14)、トダテの一部からなる。チョウは4枚の材を接いであり、内面がチキリ、外面がフナクギ(オトシ)による接合である。長年浜辺に打ち寄せられていたため船底部の外面は擦り減り、板は元々の半分程度の厚みとなっている。また全体にフナクイムシ等の食害を受けている。オモキはすでに脱落し、チョウには釘穴のみが残る。状態は悪く、キリモモ自体外面の損耗が激しいが、キリモモ内面の造りが判明する点で貴重な資料である。船大工からの聞き取りによると、オモキ、キリモモは丸太を半裁して背中合わせに木取りするというが、今回確認できた実物のキリモモは、半裁した丸太の外側部分を面取りして船内側に用いているのがわかる。また丸太からはつり出した材とはいえ内刳りが施されているわけではないことも判明する。
 一方、サンパについても氷見市域にはすでに現存していない。だが、今回行った調査で海と渚の博物館(石川県かほく市)に屋外展示されている大型の木造船が氷見型のサンパであることを確認することができた。展示されている木造船は、石川県七尾市庵港で使用された全長15.33mのものである(註15)。能登灘浦に位置する庵港は、最後の氷見型ドブネが現存していた場所であり、氷見で建造された木造船が供給されていた地域であるため、このサンパも氷見で建造された可能性が高いと考えられる。
 このサンパは、胴が張っており、カンジキが開いた形のためほとんど平底のように見える。テントにあるオモキがなく、チョウの船尾側にキリモモのみが入る構造である。キリモモは最後部で約20㎝と非常に厚みがある。船首側は氷見型のテンマと同様、チョウから立ち上がるコナガシが付く。チョウとコナガシの接合やチョウの構成材の接合にはフナクギ(オトシ)とチキリが併用されている。
 さて、氷見地域の二枚棚構造の船について整理しておくと、コナガシ・オモキ・キリモモを持つ大型船がテント、コナガシとキリモモを持つ大型船がサンパ、コナガシはあるがその他の刳材が使用されない小型船がテンマとなる。『近世越中灘浦臺網漁業史』によると、テントはこの地域では比較的新しいものとされている(山口1939)。建造技術のうえでは、ひねりを加えながらミヨシやコナガシに接合されるカンジキや、ハタの曲げ付けにはヤキダメという焼くことで板を曲げる技法が用いられ、そこにオモキ造りの流れを汲むオモキ材が組み込まれている。構造船特有の板を曲げる技法と、刳る技法が複合している点が特徴であるといえよう。

氷見市姿の九殿浜より引き上げたテント型動力船の底板。底外面の摩滅は著しい。
氷見市姿の九殿浜より引き上げたテント型動力船の底板。底外面の摩滅は著しい。
チョウ(底板)の両端にキリモモが接ぎ付けられている。キリモモの内面形状がわかる。
チョウ(底板)の両端にキリモモが接ぎ付けられている。キリモモの内面形状がわかる。

4. 富山湾沿岸とその周辺地域の二枚棚構造船

 次に富山湾沿岸に位置する他の地域の二枚棚構造の船を見てみたい。
 新湊と岩瀬にもテントという名称の船があったようだが、現存していないため詳細は不明である。ただ、新湊のテントと称する漁船の図面を見ると、コナガシ・オモキ・キリモモは表現されていない(赤羽1998)。
 また、こちらも現存していないため詳細は不明だが、滑川で使用された船も同様にオモキが組み込まれた構造だったと考えられる(註16)。『全国の船大工存在確認調査報告書』によると、滑川で造船業を営んだ川尻太一氏(大正11年生まれ)は、全長8.5mの漁船や全長10~12mの網おこし漁船を手掛けたが、それらは富山に特徴的なチョウとカンジキの間にオモキ板をいれる造りの和船だった、という(財団法人東海水産科学協会 海の博物館2003)。先述したように、出口晶子氏も滑川・魚津の手繰網漁船にオモキが組み込まれていることを紹介している(出口1995)。
 現存する二枚棚構造の船でオモキが組み込まれているものとしては、黒部市の生地漁港にある全長約11mのもの(註17)、入善町横山の入善町漁村センターにある全長約9.1mのものなどがある。黒部市では他に1艘、入善町で使用されたものは他に2艘が現存しているが、これらは全長の違いこそあれ、ほとんど同様の型式の船である(註18)。
 黒部・入善の船も氷見のテントと同様にオモキが組み入れられた構造を持つ。ただし、よく観察すると、コナガシに接合されたオモキは途切れずに船尾まで続いているのがわかる。つまり、氷見ではキリモモを含めて片側3材により構成されるのに対し、黒部・入善のものはコナガシとオモキのみの2材で構成されているという違いがある。また、オモキにはわずかではあるが内刳りが施されており、特にオモキの船尾側(氷見のテントでキリモモにあたる部分)の刳りはやや強くなっている。なお確認できた船は全て、チョウ(註19)は2枚の板をチキリと船釘で接いだものとなっている。
 それら黒部・入善の船の操船には、鵜の首櫓が櫂と併用された。入善では鵜の首櫓のことをマガリウデと称した。普段はヒラウデの櫓を用いたが、波の高いときはヒラウデの櫓では具合が悪いため、そういうときはマガリウデの櫓を用いた、とされる(註20)。
 入善町横山でかつて地引網漁にたずさわった亀田恭二氏(昭和13年生まれ)によると、横山では、全長9m程度と全長7m程度の大小の船が地曳網漁に使用されたという。どちらも三枚底で、平底の船はなかった。大型の方は秋のフクラギ漁、小型の方はイワシ漁やイカ漁に使用された。大小ともに「ニーアンブネ」(註21)と呼び、大型は櫓1丁櫂4丁、小型は櫓1丁櫂2丁で操船した。櫓はヒラウデの櫓とマガリウデの櫓を使ったという。また『入善町史』によると、入善町芦崎では船首を大きくし、ミヨシ材(註22)も大きく頑丈なものを付けた「芦崎作り」と称する船が使用されたという(註23)。最も大きいアンブネ(網舟)が7尋(約10.5m)、エビをとるエンバ舟が5.5~6尋(約8.25~9m)、瀬引き(註24)の舟が4.5~5尋(約6.75~7.5m)程度だったとされる。そのほか、親不知辺まで行ってバイ籠でバイをとる漁には「川崎作り」の船が使用されたという(註25)。
 朝日町にでは平底(一枚棚構造)のカンコブネ(註26)、二枚棚構造のキンパツ(註27)、キンパツの船首部に改良を加えたカイゾウセンがあった。現存するカイゾウセンは全長約4.5mの小型船で、オモキは組み込まれておらず、コナガシもない。ただ、『富山県史 民俗編』掲載写真の朝日町宮崎での造船の様子を見る限り二枚棚構造を持つ大型船もあったようで(註28)、本文の記述中にはオモキ材という言葉も出てくることから、オモキが組み込まれた船が存在した可能性がある(富山県1973)。
 以上、実物資料や聞き取りの成果からは、富山県内では氷見から入善までオモキを入れたつくりの二枚棚構造船が存在するのが確認され、富山県最東端の朝日町までその分布が広がることが想定される。先述したように、滑川の船大工、川尻太一氏はオモキを組み込むつくりの船を富山に特徴的な構造である、としているが、それでは、この「オモキ造りの二枚棚構造船」の分布域はどこまで広がるのだろうか。

5. 他地域の二枚棚構造船

 氷見の造船所で建造された船が供給されていた能登灘浦では、ほぼ同じ形式のテント、サンパなどが使用されていたものと考えられる。能登半島をさらに北上した内浦地域では、明確に判断できる資料は少ないものの、能都町(現能登町)でかつて使用された昔テントと称する船にはオモキ材が組み込まれているようである。『能都町史 漁業編』で紹介される木造漁船のうち、昔テントの断面図にはチョウとカンジキを繋ぐ、断面が台形状を呈する材が確認できる。これがオモキ材であろう。昔テントは、明治から昭和10年ごろまで、主としてイワシのチョコ網の網起こし用に使われた船である。全長7~7尋2尺(約10.5~11.1m)の五枚ブネで、網起こしに用いるために船底が広く安定の良い構造になっており、操船には鵜の首櫓と脇櫓4丁を用いた、という(四柳1981)。能都町には昔テントとは別に、移動する漁に用いられた速力の出る船として改良テントがあったという。改良テントは、加賀テント(註29)とも呼ばれ、全長が6尋3尺(約9.9m)、ミヨシが極端に反り上がっている点が特徴だった。大正9年に加賀浜から購入された中古の船に習って、小木・宇出津の船大工が船型を変えて造るようになったものだという(四柳1981)。この加賀テントの図面ではチョウ(大敷)とカンジキ(加敷)が接合され、オモキ材は入れられていない。
 以上のように、加賀から加賀テントが導入され、オモキ材を用いた昔テントと併用された能都町を含む奥能登地域が、現在のところ「オモキ造りの二枚棚構造船」の分布の最西端となるものと推測される。その南西側、口能登にあたる羽咋には、内灘や加賀同様のベカあるいはドブネと呼ばれる船首が大きく反り上がったドブネ型の地曳網船があったが、これは内灘で造船されたり、譲渡を受けていたりしたといい(出口2001a)、奥能登方面より、加賀方面とのつながりが強い地域だったと推測される。加賀地域では加賀テントが使用され、さらに西の若狭ではサンパと称する二枚棚構造の船が使用されていたが、これはオモキ材が無いつくりである。
 それでは富山湾以東の地域に関してはどうだろうか。新潟県にはサンパ・テント・カワサキといった二枚棚構造の船が広く分布していたようだが、上越・中越地方のものは現存が確認されておらず詳細は不明である。下越地方では小型のサンパが残存しているが、コナガシ・オモキ・キリモモはない。そのほか新潟県下でかつて撮影された木造船の写真を見るかぎり、コナガシはなく、オモキもないようである(赤羽1985・1998・新潟市歴史博物館2007)。
 佐渡島では、沿岸全域でカンコという二枚棚構造の船が使用され、そのほか二枚棚構造のものとして、やや胴の膨らんだテンマ、カンコを大型にしたリョウブネ(全長約8.4m)、リョウブネより大きいテント(全長8.4~9m)、さらに大きいサンパ(全長約10.5m)があった(両津市郷土博物館編1997)。これらはいずれもコナガシ・オモキ・キリモモが組み込まれない構造である。また漁船ではないが、佐渡島の小木地区には越佐海峡の小木~寺泊間を往来した木造船、幸丸が現存している。二枚棚構造で全長16.8mの大型船である(註30)。こちらもコナガシ・オモキ・キリモモは組み込まれていない。
 また、山形県の致道博物館に重要有形民俗文化財「庄内浜及び飛島の漁撈用具」としてまとまって収蔵される木造船の中にも、秋田県で使用されたハタハタ船やカワサキにも、オモキ材が組み込まれた構造を持つ船はないようである(註31)。
 瀬戸内海歴史民俗資料館収蔵の重要有形民俗文化財「瀬戸内海及び周辺地域の漁撈用具」には、香川県・大分県・高知県・徳島県・広島県・大阪府等、瀬戸内海沿岸各地域の木造船が含まれている。このうち海船は二枚棚構造の船が主体となる。これらはコナガシがあるものとないものが拮抗するが、オモキを組み込む構造のものは存在しない。
 以上、太平洋沿岸地域、山陰地方等、未見の地域もあるが、「オモキ造りの二枚棚構造船」は富山湾沿岸を中心に分布しているものであり、この地域の二枚棚構造の大型船を特徴付ける造船技法である可能性が高いと考えられる。

6. 二枚棚構造船のオモキ材

 船大工が「ドブネのオモキ造りとはまた違ったもの」と認識する二枚棚構造の船のオモキ材ではあるが、背中合わせの木取りなどがオモキ造りと共通している。ただし、船大工からの聞き取りによると氷見のテントではオモキの内刳りはなかったといい、厳密にはテントのオモキ材は刳材とはいいがたい。だが、ドブネのオモキ同様に丸太からはつり出される部材であることを考慮し、日本海沿岸地域に特有のオモキ造りの系譜に連なるものと捉えておきたい。
 在来の造船技術としてオモキ造りの船が分布する日本海沿岸の地域では、新たな技術として一枚棚構造や二枚棚構造といった棚構造がもたらされたと考えられる。そのなかで、おそらく富山湾沿岸の地域では、新たに受容された棚構造の技術に、在来のオモキ造りの技術を応用することで二枚棚構造の船にもオモキと称する刳材が組み込まれたのではないかと推測される。そこで問題となるのが弁才船の三階造りとの関連である。
 氷見のテントをはじめ、本稿で「オモキ造りの二枚棚構造船」とする船は、チョウに根棚としてのオモキ、カンジキ、ハタを接ぎ合わせてあり、厳密には三枚棚構造(三階造り)に分類される構造をとる。
 三階造りは、近世中期以降、全国的に普及した弁才船に用いられた構造で、船底材である航に根棚・中棚・上棚という順に外板を組み合わせて船体を構成する。標準的な弁才船では根棚の厚さは航の厚さの50~80%とされたが、日本海海運の主力となった北前形弁才船では航と同程度の厚さの根棚が使われたという(石井1995ab・2002)。この根棚は板材ではあるが、外観はテントにおけるコナガシ・オモキ・キリモモを一体化したような形状である(註32)。
 さて、近世前期の日本海海運の主力となっていたのが北国船や羽賀瀬船といったオモキ造りの廻船であった。だが、次第に帆走性能に優れた弁才船に押され、近世後期には姿を消していった。北国船は千石積以上の大型船で、丸形の船首をもつ。羽賀瀬船は九百石積程度を限度とする北国船より小型の船で、厚板造りで平底、尖った船首形状をもつ。これらオモキ造りの廻船の構造は、弁才船に代表される三階造りの構造とは根本的に技術の系譜を異にし、ドブネなどにその片鱗をうかがうことができる、とされる(石井1995ab・2002)。
 富山湾沿岸を中心に分布する「オモキ造りの二枚棚構造船」には、三階造りの構造が反映されているものと推測される。ただし、三階造りを導入するにあたっては弁才船の構造をそのまま踏襲するのではなく、在来の北国船や羽賀瀬船などに用いられたオモキ造りの技術を応用し、技術が展開されていったのではないだろうか。赤羽正春氏は、北陸地方への棚構造の船の導入は早くて1600年代(慶長年間以降)と推測しており、それは鱈漁等、沖への進出が契機であった、とする(赤羽1998)。赤羽氏の推測する棚構造の導入時期と、弁才船が日本海海運の主力となる時期には100年以上の開きがあるため(註33)、実際にはもっと複雑な技術の交雑があったものと思われる(註34)。
 日本海の交易を支えたオモキ造りの北国船や羽賀瀬船は、より高性能な弁才船に駆逐され、姿を消した。オモキ造りはその後もドブネなどの漁船に残され、新たな技術として受容された棚構造の船と共存していくことになる。日本全国のかなり広範囲に分布しているミヨシ材をもつ二枚棚構造の木造船だが、富山湾沿岸地域においては、弁才船の三階造りにオモキ造りの技術が取り込まれ、独自の構造を持つに至ったのではないだろうか。

氷見型ドブネの模型(氷見市立博物館)
氷見型ドブネの模型(氷見市立博物館)

7. おわりに

 漁船として昭和40年代頃まで使用されたテントであるが、近世後期に小廻船として海運を担った天当船の後裔とも推測される(註35)。だが、そういった点に関しての検討はいまだ十分とはいえない。テントをはじめ、すでに現存する木造船は数が少なく、本稿で論じた内容や仮説を実証していくには、資料が足りないのが現状である。今後は、さらに広い地域の木造船を調査し、比較・検討のうえ、富山湾沿岸の木造船の位置付けを探っていきたいと考えている。

(1)氷見ではカラスクビ、能登灘浦ではマルロと称される。持ち手側が鵜の首のように削り出してあるもので、氷見のドブネではトモロ(艫櫓)に使用された。なお左右2丁のワキロ(脇櫓)には通常のツクの付いた櫓(平櫓)が用いられた。
(2)岩瀬では、明治42年に氷見の船頭の指導で大敷網が初めておろされ、その際にドブネ三艘が新造されたという(富山市史編さん委員会1987)。
(3)氷見では、マグロを捕る夏網(鮪網)については昭和初期の比較的早い時期からテントが網取り船として使用されたという(小境2005・和船建造技術を後世に伝える会2008)。
(4)この全長は『氷見漁業史』の記述による(氷見高校歴史クラブ1959)。なお、テント型動力船では6~13.5mまでの幅があったことが昭和39年に氷見地区木造船業組合が定めた「木造船協定価格」より明らかとなる(和船建造技術を後世に伝える会2008)。
(5)この聞き取り調査については、筆者が執筆を担当した『氷見の和船』にて報告している(和船建造技術を後世に伝える会2008)。
(6)なお、サンパにはオモキがなく、船首部のコナガシ、船尾のキリモモがチョウ(底板)に接合される。
(7)赤羽2006、昆1986、桜田1980・新潟市歴史博物館2007等。各地に分布する「テント」「テントウ」等の名称であるが、石川県から青森県までの日本海側沿岸地域では、おおむね二枚棚構造の大型船のことを指すようである。ただし、地域によってどのような船形、大きさの船を指すのかは異なっている。
(8)三階造りとは、船体外板を上棚・中棚・根棚の三段で構成する構造を指す。それに対し、本稿で二枚棚構造とする構造は二階造りといい、加敷・上棚の二段で構成する構造を指す(石井2002)。
(9)ケンパツ・キンパツともいう。氷見地域でキンパチと称された船については、二枚棚構造だったようだが、詳細はよくわからない。例えば『阿尾伝承誌』ではサンパと同一視されている(阿尾地区高令者生きがい活動推進協議会1983)。また、氷見で造船を手掛けた船大工の村田一夫氏(大正14年生まれ)は能登外浦型のテンマに似ているといい、同じく船大工の山口升儀氏(昭和2年生まれ)は朝日町に出稼ぎ漁に出ていた漁師が持ち帰った船がキンパチで、加賀テント(註29参照)を小さくした形だった、と語る。なお、『氷見漁業史』では全長4.5~8.7mとされ(氷見高校歴史クラブ1959)、テントの小型のものとして扱われている。これは村田氏の発言とも合致するものであり、現時点ではキンパチはテントの小型のものを指すと推測している。昭和20年代の終わりごろには、能登外浦型のテンマを模した船が氷見で数艘導入されているが、それはキンパチとは呼ばれていなかったようである。その時点で元来のキンパチは絶えていたのではないだろうか。
(10)この技法をモタセ造りという。
(11)全長は『氷見漁業史』の記述による(氷見高校歴史クラブ1959)。
(12)このテント型動力船の残骸は、氷見市立博物館が曳き揚げを実施し、現在収蔵庫にて保管している。八艘張漁に用いられた全長10m程度のものと推測される。
(13)船尾材トダテの前方に入れられる隔壁の土台になる部材。
(14)管筒材と書く。動力船特有の部材で、エンジンから延びるプロペラシャフトが通る。
(15)この船に添えられた解説板によると、名称は「天頭船」、全長15.33m、幅4.2m、高さ2.45m、七尾市庵港で定置網漁に使用された、とある。船名はテント系のものだが、氷見でいうサンパである。
(16)滑川ではテントやサンパという名称は確認できていない。定置網漁に全長約10.5mのオアミセンと全長約6.3mのコブネが必要だったといい(滑川の民俗編集委員会1994)、幕末の文書には猟船や金八舟という名称が見える(滑川市史編さん委員会1985)。
(17)『黒部市誌』で「櫓船」と称されるものであろうか。なお、同書によれば黒部には「キン鉢(小舟)」という船もあったのだという。
(18)黒部市、入善町の木造船は高く反り上がったミヨシが特徴的である。入善町漁村センターのものは現在ミヨシが短いが、これは船小屋から搬出する際に切り取られたのだという。なお、入善町芦崎にて長らく保管されていた現存するもう1艘の船も短いミヨシを持つが、こちらは元々短いのか、いつかの時点で何らかの理由で切断されたものかは不明である。
(19)入善ではシキと称される(入善町史編さん室1990)。
(20)魚津市や滑川市でも、手繰網漁船に鵜の首櫓が用いられたという(出口1995)。
(21)『ニーゴ網船」の意か。入善では、藁の先端部(実子)を用いたニーゴ縄で編んだ網をニーゴ網といい、地曳網に使用されたという。
(22)入善ではネボシと称される(入善町史編さん室1990)。
(23)大きく頑丈という記述が、高く反り上がったミヨシを指す可能性があろう。ただし実際には芦崎だけでなく、横山や黒部方面の船も同様の特徴を持っているため、別に芦崎の船のみの特徴があったのかもしれない。
(24)船上で網を引く手繰網の一種(入善町史編さん室1990)。
(25)「川崎作り」の船と「芦崎作り」の船の違いはよくわからない。註18で触れた、ミヨシが短い船が船型として存在するのであれば、そちらが「川崎作り」であるのかもしれない。
(26)朝日町境ではコロブネ・ゴロタブネ、同宮崎ではコンコロブネとも称された(富山県1973)。
(27)『朝日町誌』にはキンパチとあり、3丁櫂3人乗りとされる(朝日町1984)。
(28)朝日町宮崎の木造船について、『宮崎村の歴史と生活』では情報が錯綜しており、三枚合わせで全長4~5間(約7.8~9m)のテントがあり、これを別にカンコともいう、とか、普通の板を合わせたイソブネがあり、この方をコンコロという者も多い、という記述が見られる(宮崎村誌編纂委員会1954)。また同書によると、村に一人いる船大工は造船技術を生地から習ってきたのだという。
(29)通常、加賀テントと呼ばれる船は、加賀地域で使用された船型のテントを指し、ミヨシが湾曲して高く突き立っているのが特徴である。
(30)幸丸は、昭和15年に造船され、昭和36年まで航行した小廻船である。小木から薪・木炭・真竹などを、寺泊から清涼飲料水など日用品やセメント瓦などを運搬していた。和船と洋風帆船の長所を取り入れた「アイノコ船」とされる。
(31)秋田県はオモキ造りとムダマハギの接点となる地域である。ムダマハギは、オモキ造りに類するもので、船底材にムダマと称する刳り貫き材を組み込んだ準構造船である。秋田県北部以北の津軽海峡沿岸に分布する。ムダマハギ型の船の中には二枚棚構造の底板材にあたる部分に刳材を用いるものはあるが、底板両端に刳材を組み込む構造のものはみられない。
(32)北陸地方では弁才船の根棚のことを「おも木」と呼ぶのだという(石井1995a)。北前形弁才船の根棚は航と同程度の厚みをもつ板材とされるが、これが氷見のテントなどと同様のオモキ材である可能性はないのだろうか。
(33)弁才船が日本海海運の主力となるのは18世紀中期以降である。越前新保浦では享保2年(1717年)頃に北国船・羽賀瀬船から弁才船への転換が始まるとみられる。また越前より加賀藩領内のほうが弁才船の台頭が早いといい、元禄9年(1696年)の越中高岡界隈の藩米運送船では弁才船の割合が半数を超えるという(石井1995ab・2002)。
(34)例えば、『近世越中灘浦臺網漁業史』では、テントはこの地域では比較的新しいものであり、カンコはドブネに次いで古い、とされる(山口1939)。そうであるならば、一枚棚(平底)のカンコがまず導入され、遅れて二枚棚構造が入ってきたということになる。現在把握できるのは、昭和期まで存在した船型にすぎず、実際にどういう経緯を経てそれらが出揃ったのか、どういう変遷をたどったのか、という問題点については不明といわざるをえない。
(35)近世中後期に20~60石の小廻船として活躍したのが天当船である(氷見市2006・深井2001)

引用・参考文献

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