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ガッシェ親子とゴッホ、そしてセザンヌと間部時雄

杉野秀樹(富山県立近代美術館)

1. 事の始まり

 この研究テーマに思い至ったのは、東京芸術大学教授の中林忠良氏から相談を受けたことに端を発している。その相談とは、以下のような内容であった。同大学美術館に一台の銅版プレス機がある。これは長谷川潔(1891-1980)がパリで使っていたもので、駒井哲郎(1920-1976)が亡くなる数年前に長谷川からプレス機を譲りたいとの話を受け、その結果、日本に運ばれたのである。このプレス機は「古い」という骨董的な価値があるだけではない。印象派のパトロンとして著名で、自身も絵や銅版画を制作したガッシェ医師(Dr. Paul Gachet 1828-1909)が持っていたものだという。長谷川が譲り受けたのはガッシェ医師の息子ポール・ガッシェ(Paul Gachet 1873-1962)からである。ならば1870年代前半にカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro 1830-1903)やアルマン・ギヨーマン(Armand Guillaumin 1841-1927)、ポール・セザンヌ(Paul Cezanne 1839-1906)が、そして1890年ピストル自殺を遂げる2ヶ月前のフィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh 1853-1890)がエッチングを作り、試し刷りをおこなったのがこのプレス機ということになる。版画史上、特筆すべきプレス機である。ガッシェ医師旧蔵、長谷川潔愛蔵のプレス機を企画の中心に位置づけた展覧会の筋書きが書けないものだろうか、との相談であった。
 それを受けて即座に作成したのが本稿末尾のガッシェ医師を巡る関係図である。19世紀における銅版画、特にエッチングのリバイバルと、版画を通じての日欧交流史、さらに白樺派などが積極的に紹介した西洋美術に触発されて渡欧した日本の美術家のガッシェ邸訪問を軸に、展覧会の基本プランを作成した。
I.ガッシェ医師と腐蝕銅版画家協会との関係
II.ガッシェ医師と印象派および後期印象派との関係
III.印象派および後期印象派への浮世絵版画の影響
IV.世紀末のジャポニスムと浮世絵版画
V.ガッシェ医師と日本の創作版画
VI.浮世絵版画と創作版画
 ガッシェ医師旧蔵のプレス機のもつアウラは、何といってもIIに由来している。1873年にピサロ、ギヨーマン、そして後に19世紀の最も優れた画家の一人と評価されることになるセザンヌが制作した銅版が、東京芸術大学美術館所蔵プレス機で刷られたということと、同じく20年ほど経た1890年にゴッホがガッシェ医師の指導のもとで銅版にニードルを走らせた唯一のエッチングもこのプレス機を通っているというエピソードによっている。20世紀美術に多大な影響を与えた後期印象派の画家セザンヌとゴッホがそろってこのプレス機を使用したという事実は、17世紀の木製銅版プレス機がヨーロッパにほとんど現存しない稀少性以上に、この機器にいっそう特別な価値を付与する。ところがメトロポリタン美術館で近年開催された展覧会でその一角が崩されてしまった。セザンヌが滞在していた時期にオーヴェール=シュル=オワーズのガッシェ邸には銅版プレス機が設置されていなかったはずだ、との説が提示されたのである。

2. オーヴェール=シュル=オワーズの銅版プレス機

 そもそもガッシェ医師が美術に関心を抱いたのは、旧知の画家アマン・ゴーティエ(Amand Gautier 1825-1894)の影響である。彼は同時代の写実主義の流れに沿った画家で、若い医学生のガッシェを1850年代のボヘミアン的美術世界に導く。ゴーティエも銅版画を制作していたことから、彼を介して、後にアルフレッド・カダール(Alfred Cadart 1828-1875)を中心に創設されることになる腐蝕銅版画家協会(La Societe des Aquafortistes)の参加メンバー、シャルル・メリヨン(Charles Meryon 1821-1868)と交流の機会をもっている。しかし、1870年以前にガッシェが制作した作品は少数の油彩画とデッサンのみで、趣味の領域に留まるものであった。生活に欠かすことのできない要素として美術が入り込むのは、1872年以降のことである。
 パリで開業医をしていたガッシェが結核の妻の病状を気遣い、1872年にオーヴェールに家を購入した。以前から親交のあったピサロがオーヴェール近くのポントワーズに転居し、二人の関係がさらに親密となり、セザンヌとギヨーマンが集うようになる。こうした創造的環境がガッシェを刺激したようである。以後、彼自身もデッサンや銅版画の制作に力を注ぐようになる。ガッシェ医師作の銅版画は100点を越えるが、資質においても技術においても素人版画の域を出るものではなかった。制作の要因のひとつとして考えられるのは、腐蝕銅版画家協会創設を頂点とする「エッチングの復興」の波及であろう。ガッシェ医師は新しい美術動向にも関心を示し、印象派や後期印象派の若い画家たち-前出の4人に加え、ドービニーやマネ、モネ、ドガ、ルノワールらとも交流を持ち、作品を収集している。
 1873年にセザンヌがオーヴェールのガッシェ邸で銅版にニードルを走らせた。生涯にわたり版画制作に関心を抱かなかったセザンヌが、この時期に5点のエッチングを、1890年代後半に3点のリトグラフを制作したのは、彼を取り巻く環境によるところが大きい。後者は世紀末に画家のオリジナル版画集の出版を目論んだアンブロワーズ・ヴォラールが、前者はオーヴェールに集った、版画制作に熱心であったピサロとガッシェ医師が、セザンヌを「版の絵」に向かわせた結果である。
 長らくガッシェ医師の息子が記した書物によって、オーヴェールに転居した翌年、すなわち1873年に銅版プレス機が設置され、ピサロ、ギヨーマン、セザンヌの銅版がガッシェ邸のプレス機で刷られたとするのが定説となっていた。ところがガッシェのコレクションを根本的に再調査したメトロポリタン美術館の展覧会「セザンヌからファン・ゴッホ ガッシェ医師のコレクション」で、プレス機設置の時期が1875年以降であろうと結論づけられた。これによって、少なくともセザンヌらの1873年作の銅版はガッシェのプレス機を通ることはなかったということになる。ただしピサロ、ギヨーマン、セザンヌの銅版画制作を否定するものではない。ルーヴル美術館所蔵のセザンヌのデッサンが彼らの銅版画制作の傍証となる。デッサンには、ガッシェ医師の傍らでエッチング制作をしているセザンヌが描かれている(図版1)。多分、刷り自体はパリの銅版工房でおこなわれたのであろう。

【図版1】
【図版1】

 ガッシェ医師は1909年81歳で亡くなるが、それから4年後にふたりの日本人がオーヴェール=シュル=オワーズを訪ねる。山本鼎と森田恒友である。日本の創作版画運動の出発点といえる『方寸』の創刊メンバーであり、ゴッホ、セザンヌ詣での一環としてガッシェ邸を訪ねたのであろう。山本は後にそこに「セザンヌのエッチングもありました」と記しているので、銅版プレス機も目にしたのではなかろうか。
 創作版画運動の生みの親の山本と森田が訪ねたガッシェ邸。そこに設置されていた銅版プレス機が、創作版画運動で美術に開眼した長谷川潔の愛蔵するところとなり、第2次世界大戦後、世界から「版画大国」と称される日本に渡るのである。

3. ゴッホ唯一の銅版画

 ゴッホはピサロの薦めでオーヴェール=シュル=オワーズのガッシェ医師のもとで精神療法を受けることになる。ゴッホに銅版画制作を薦めたのがガッシェ医師で、結果的にはただ一枚だけを制作する。1890年6月17日の弟テオへの手紙で、ゴッホは以下のように記している。「南仏の主題を何点か、そう、たとえば6点、エッチングにしたいと思う。というのも、ガッシェ氏の所でただで印刷することができるのだ。彼はとても親切で、僕がやるならただで刷ってくれるというのだ」(テオ宛ての書簡642)。銅版画制作への並々ならぬ意欲を語りながらも、《ガッシェ医師の肖像(パイプを持つ男)》(図版2)だけが、ゴッホ唯一の銅版画になってしまった。

【図版2】
【図版2】

 銅版が刷られたのは、セザンヌの場合とは違い、ガッシェ邸に据えられたプレス機であったことはほぼ間違いない。しかし、ゴッホ唯一の銅版画制作にまつわる話はそう単純ではない。ゴッホ研究は、弟テオや妻ヨー、またゴーギャンらに宛てた多数の手紙の分析から、ほとんど日を追ってのゴッホの精神状態、行動、制作進行を明らかにしている。それと照合し検証すると、唯一の銅版画《ガッシェ医師の肖像》の位置づけが今ひとつ不確かなのである。その原因は版上に刻まれた年記にある。
 版上に文字を記すには鏡文字にしなくてはならないが、その制約はあるものの、文字の形が崩れかつ弱々しいために日付を判読するのが難しい。そのために「1890年5月15日」とも「1890年5月25日」あるいは「1896年5年15日」と読んで、《ガッシェ医師の肖像》とゴッホ、ガッシェ医師に光を当てる幾つかの論が組み立てられた。しかし、1890年5月15日といえば、ファン・ゴッホは明らかにまだサン=レミィにいた。そして1896年には当の本人が死んでいるので、年記を「1890年5月15日」と「1896年」と読むは間違いである。問題は「1890年5月25日」説である。

4. 1890年5月25日説を巡って

 1890年6月に弟のテオとゴーギャンに宛てたゴッホの手紙2通(テオ宛ての書簡642、6月17日。ゴーギャン宛ての書簡643、6月17日頃)から、以下のことがはっきりとしている。
・6月17日までに、ゴッホがエッチング1点を制作していること。
・他のエッチング制作の構想を持っていたこと。
・ガッシェ医師が様々な版画の材料を自由に使わせてくれている様子。
 1890年6月23日付のテオからの返信で兄を祝福している。「真の画家の手によるエッチング。技術の洗練ではなく、金属の上に描かれたドローイング」(テオからフィンセント宛ての書簡35)。テオは版画のテーマを示していないが、《ガッシェ医師の肖像》に言及している可能性が高い。6月17日以前の兄弟の手紙で版画に触れられたものはない。5月25日説を採るならば、さらに首をかしげたくなるのはまさに制作したその日に記したテオへの手紙に銅版画制作にかかわる何事も書かれていないのである(テオ宛ての書簡637)。それにはガッシェ医師と会った様子が記されているが、銅版画制作に精神が高揚せずにはいられなかったはずのゴッホの興奮がまったく感じられない、淡々とした文面である。
 5月25日説のもう一つ不可解な点は、6月8日にオーヴェールのガッシェ医師を訪問したテオが前述の6月23日の手紙まで、版画に一言も言及していないのである。5月25日に制作された銅版画を、6月8日に見なかったし、その話すらゴッホやガッシェ医師から一言も伝えられなかったのであろうか。
 こうした点から、かなり過激な推論を導き出したのが、ファン・ヒュグテンである。それによれば、実際の版画制作は5月でなく6月15日であったのではないか。また年記は、後にガッシェ医師が誤った日付を加筆した、という説である。もしそうならば、日付が加えられたのは版画制作からそれほど後のことではなかったであろう。というのも年記のない刷りは、今のところ一枚も確認されていないからである。彼の大胆な推測の決定的な弱点である。
 実際に5月25日に銅版が腐蝕されたが、数日間、刷られなかったということもあろう。刷り上がりを見る前にゴッホがその制作のことに一切触れなかったこと、また6月8日にテオも実見せず、銅版画についての言及が6月半ばまで待たなければならなかったことの説明になるだろう。さらに、ピックヴァンスは6月15日説に対して以下のように反論している。6月のはじめにガッシェ医師をモデルにした油絵が完成している。エッチングの制作を6月15日にしたならば、すでに肖像画としての手本ができあがっており、初めての銅版画制作であるから自然の成り行きとして油彩画のコピーに近づく傾向を示し、構図自体がもっと近似していてしかるべきではないか。そしてそれは必ず左右反転になっていたはずである、と。
 ピックヴァンスの反論にも裏付けとなるドキュメントがない以上、推測の域を出るものではない。蛇足ではあるが、1890年6月3日のゴッホの手紙(テオ宛てのフィンセントの書簡638)に記されている一文「君(テオ)に彼(ガッシェ医師)の肖像をすぐに送れればいいが」に着目して、これを銅版画《ガッシェ医師の肖像》であると断定して、5月25日説の補強材料としてはならない。前後の文脈からすると、明らかにガッシェ医師をモデルにして描かれた油彩画2点の内の1点を指しているからである。
 1953年に息子のポールが、1890年5月25日の日曜日-聖霊降臨の祝日にゴッホのエッチングが誕生した物語を出版している(テキスト執筆は1928年)。「庭での昼食を終え、パイプに火がつけられると、フィンセントにエッチング用のニードルとグランドが施された銅版が渡された。彼は新しい友をテーマに熱中して描いた。描かれるや否や、ガッシェ医師が見守るなか腐蝕が行われた。それは17年前のセザンヌと同じ状況であった。作業はまだ終わっていなかった。すべてのことがフィンセントを大いに喜ばせたに違いなかった。というのも、彼はすぐさま数枚の試し刷りをしてしまった。しかし、インクの拭き取りを十分にしなかったから、出来上がりは濁った感じとなった。彼自身も「少し汚い」と感じた。黒すぎたのだ。ちゅうちょなく数枚の版画をサンギーヌで刷った。ひとたびその道をくだり始めると、残りも予想がつくものだ。他の色を使っての試みが行われた。イエロー・オーカー、レッド・オーカー、灰色、緑がかった黒、それにオレンジ。そうした多様性に彼は非常に喜んだ。」
 ポール・ガッシェは臨場感たっぷりに描写しているが、17歳という彼の年齢、40年近くの歳月の隔たりからすると、父親からの伝聞と創作が入り交じったテキストである可能性が高い。また、5月25日の天候を調べた研究者によると、その日は暴風で、屋外で作業などできる状態ではなかったとの反駁が加えられている。
 原版は廃版にされずにガッシェ医師から息子のポールに引き継がれ、1951年フランスの国立美術館に寄贈された。その間、父と息子の二代にわたって《ガッシェ医師の肖像》を刷り、贈り物として使ったり、売却したりしている。こうした事情から正確な刷りの枚数は未だにはっきりしていない。それどころか、生前刷りの有無さえも明確ではない。ゴッホ美術館には、テオの所蔵となりゴッホ家に受け継がれた複数の刷りが保管されている。黒のインクがたっぷりと乗り、刷りムラのある作品と、イエロー・オーカーの刷り、サンギーヌ色の刷り、緑がかった青色の刷りである。刷り用のインクを変えることで、刷りの効果を実験している様が想像できるが、ゴッホ自身の探求なのか、それともガッシェ医師のそれなのか、やはり判然とはしない。確かに、ポールが記したゴッホの熱中ぶりを彷彿とさせる証拠品であるが、画家が刷ったという確証はどこにもない。
 さて、ゴッホとガッシェ医師との関係を《ガッシェ医師の肖像》を介して調べている最中に、ある日本人画家が不思議な存在として浮き上がってきた。間部時雄である。彼の生年は1885年であるから、ゴッホやガッシェ医師と同時代人ではない。ゴッホ、ガッシェ医師と間部の接点は、直接ではなく間接、時ではなく場であった。ゴッホが没して約30年の歳月が流れた後の1921年に、間部時雄はオーヴェール=シュル=オワーズに滞在するのである。

5. 間部時雄-ガッシェ邸訪問

 まず間部時雄(1885-1968)の履歴を概略しておこう。明治18年に熊本で生まれ、1898年(明治31)に熊本県工業学校染織工科に入学。学業が優秀であると認められ、翌年に京都市染織学校に転入している。1902年(明治35)に同校を卒業し、新設された京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)図案化別科に入学。同年にフランスから帰国した浅井忠が同校の教授となり、指導を受ける。1905年(明治35)同校を首席で卒業。1906年(明治36)同校の助教授となる。その後、関西美術会や文展に出品。1920年(大正9)文部省から絵画研究のために海外研究員を命じられ、11月にヨーロッパに向けて出立。翌年の11月20日にガッシェ医師の息子ポール・ガッシェからゴッホの銅版画《ガッシェ医師の肖像》が贈られている。
 贈られた銅版画裏面にインクで以下の献辞が記されている。「L’Homme a la Pipe (Dr Gachet)/Eau-forte unique de Vincent Van Gogh/Auvers. 25 Mai 1890/Confraternellement offert a M. Mabe/Paul Gachet/Auvers. 20 Nov. 1921」。さらに1922年にはガッシェ邸で銅版も試みている。版上に次のように刻された作品がある。「大正十一年九月廿七日/オーベル ガッシェ氏のアトリエにて」(図版3)。ギメ東洋美術館にガッシェ邸芳名録が保管されており、それには1930年代ぐらいまでに同邸に来訪した日本人300人ほどの名が記されているという。驚くほどの数であるが、その中でもポールと間部との関わりの度合いは相当に深いものであったと思われる。それは銅版画が贈られているからではなくて、ポールのもとで銅版画制作を試みていることによる。

【図版3】
【図版3】

 フランス滞在時に間部が制作した銅版画を見ると、初心者がおおかた進む道のりとほぼ同じであったように思われる。すなわち「単純から複雑へ」、「一つの技法から複数の技法の併用へ」、である。パリ時代の銅版技法のレパートリーは、エッチング、ドライポイント、アクアチント、ソフトグランド・エッチングである。デッサンを得意とした間部にとって、銅版のメティエの習得はそれほど厄介ごとではなかったであろう。前述の年記と制作場所とを明記した銅版画は、エッチングに、一部アクセントをつけるドライポイントの線が加えられた、しごく単純な風景画である。版上に刻した文字からは、間部にとって特別な作品であることが分かる。「やってみたいと思いながら一度も手をつけたことがなかった・・・(銅版は)なかなか面白みのあるものだと言うことも分り、昔から沢山の版画を残した人達の仕事ぶりも了解出来、興味もわいて新しい視野が開かれた様な気がした」という彼の言葉を思い起こすと、この銅版画こそがガッシェ医師のアトリエに残されていた材料を使い、間部が初めて試みた作品であると推定できる。
 仮にこの作品を《ガッシェ氏のアトリエにて》と名づけるにして、その特徴を以下に記してみよう。技法上の点で、構図の骨格はエッチングで制作されている。多分、試し刷りを確認した後、書き込み不足の箇所をドライポイントで加筆したのであろう。銅版画制作の初歩の手順である。また図柄の構成にも特徴が見て取れる。銅版の場合、細い線で描くことができるから、その集散で物体の明暗を精緻に表すことができる。立体的に表現するのに適した版画技法である。
 《ガッシェ氏のアトリエにて》でも明暗の差によって、3次元の空間を表そうとする間部の工夫を指摘することができる。前景左側の建物の側部を陰としてとらえ、かつその影が道路に落ちている。その向こうには陽の当たっている建物を配置し、手前の暗と奥の明を対比することで、遠近感を際だたせている。その白い建物の右側の、煙突のある家がガッシェ邸である。しかし、遠近感を強調しようとする工夫にもかかわらず、エッチングの線が意図を伝える構成となっていない。ぎこちなさと自由気ままな線の錯綜が《ガッシェ氏のアトリエにて》の特徴である。
 ガッシェ医師はエッチングの愛好家として自身100点ほどの銅版画を制作した。19世紀後半の銅版画愛好家と同じく、彼もまたしばしば風景をテーマにしている。線は粗略なデッサン調であり、明暗を表す線の構成を重んじるタイプの作品ではない。いうなれば、この時代にありがちの素人銅版画の域にとどまる作品群である(図版4)。それにたいしてアカデミックな教育を日本で受けていた間部のデッサンでは、まるで古典的な銅版画を見るような規則正しい平行線の連続で陰が表されている(図版5)。キアロスクーロの表現をデッサンで習得している間部が、《ガッシェ氏のアトリエにて》では過剰なほどにランダムな線を使ったのには、初めてのエッチング制作のなせる技とのみ断定してしまっては早計であろう。ポール・ガッシェのガイダンスと、そこで手本として示されたであろうガッシェ医師のエッチングが間部の銅版画の線に強く影響したと思われる。例えば、フランス滞在時の、多分後半に制作された《風景》と題された銅版画(図版6)では、平行線や交叉線(クロスハッチング)の線の構成に、几帳面であった間部の性格がよく表れている。

【図版3】
【図版4】
【図版5】
【図版5】
【図版6】
【図版6】

6.セザンヌと間部時雄

 《ガッシェ氏のアトリエにて》の制作では、ガッシェ親子の他にも指針があったと思われる。セザンヌである。1872年から翌年にかけてセザンヌはガッシェ医師のもとを親しく訪ね、その邸を画中に描き入れた油彩画を少なくとも3点描いている。その内の2点がガッシェ邸へと通じる「古道」にイーゼルを立てて描かれた作品である(図版7、10)。題名は同じ《La maison du Docteur Gachet a Auvers-sur-Oise》で、構図も当然のことながら類似している。古道が緩やかに左に曲がり、その道の行く手に一段高くそびえる煙突のあるガッシェ邸が描かれている。

【図版7】
【図版7】

 1999年に横浜美術館で開催された「セザンヌ展」には、現在イェール大学美術館所蔵となっている1点が出品され、図録にはこの作品の構図上の特徴が記されている。「この作品はY字形に画面が分割されているのである。クリーム色をした「古道」の右端は、草の緑によって境界をつくっているが、その境界線はこの絵の中心軸に一致する。その境界線は「古道」が左に曲がると同時に左に曲がり、それは木立に中断された後に、「古道」の左に建つ家の屋根の斜めの稜線へとつながっていく。一方、「古道」の曲がるところから右上に伸びる線は、灰色の切妻屋根の輪郭に沿って右上に伸びていく。こうしてこの作品が、Y字形の基本構造をもっていることがわかる」(図版7)。ちなみに、ピサロの「曲がる道」をテーマとした作品がセザンヌにある種のヒントを与えた可能性もあろう。何しろセザンヌはピサロの影響を多大に受けていた時期にあたるからである。
 間部の描いた銅版画を見てみよう(図版8)。ガッシェ邸に通じる古道の右端と道沿いにある塀との境界線は作品のほぼ中央に位置している。古道が緩やかにカーブして道が見えなくなるあたりで境界線は塀の曲線に沿って右上に伸びてゆく。一方、左手側は陰で表された手前の家の屋根の稜線沿いに伸びる線がある。さらにもう一本の線が、その家とは対照的に側面に光を受けている白っぽい家の屋根の斜線に沿って上昇している。セザンヌの油彩では左右に斜めに伸びる線の間にガッシェ邸が描かれていた。間部の銅版画でも左には2本の線が想定されるものの、やはり左右に伸びる線の間に、煙突のある塔のような建物-ガッシェ邸が描かれている。

【図版8】
【図版8】

 Y字形の基本構造の類似以外に、描かれている対象がセザンヌの絵と間部の銅版画双方に認められるだけでなく、左右反転しているのに気づくであろう。緩やかにカーブする道、道沿いに建つ白っぽい家、大きく描かれた樹木である。もちろん、銅版画にある塀や、陰で黒っぽく描かれている手前の家など、セザンヌの絵にはない対象を指摘することができるが、全体的にはY字形に画面が分割された基本構造をベースに、対象の配置が反転した構図となっている(図版9)。原版に描いた像は刷ると反転してしまうから、イェール大学美術館所蔵作品の構図を借用して、初めての銅版画制作に向かったかのように思えるが、セザンヌのこの絵が一度としてガッシェ邸に飾られていた事実はないのである。

【図版9】
【図版9】

 もう一方の同じ題名のセザンヌの絵を間部は見たであろう。1951年にポール・ガッシェがルーヴル美術館に寄贈するまでの約80年間、ガッシェ邸に飾られていた油彩画である(図版10)。管理換えで現在はオルセー美術館所蔵となっている作品もやはり「古道」から見えるガッシェ邸が主題となっている。

【図版10】
【図版10】

 この作品で中央線をなしているのは白い家の前の樹木であるが、これを軸にしてY字形の構図が図られているとはいい難い。それよりも手前の道路幅のほぼ中点から垂直に延ばした線が白い家の測線を通過して屋根の稜線との接点まで伸びている点に注目すると、Y字形が浮かび上がってくる。そしてガッシェ邸は、イェール大学美術館所蔵作品のそれよりもかなり左に移動しているが、それでも左右に広がり伸びる斜線の内側に位置している。この絵を参考に、間部はより安定した構図を求めて垂直線を銅版画の中心に移動した。そのために、偶然にもイェール大学美術館所蔵の基本構造に近づいたのではないかと思われる。
 油彩と銅版の位置関係は反転によるものかどうかという問題については、「古道」とガッシェ邸との位置関係を調査する以外に方法がないように思われる。構図が刷りで反転してしまったという版画制作初歩のミスで説明できる箇所もあれば、そうとも言い切れない部分も間部の銅版画《ガッシェ氏のアトリエにて》には見受けられる。カーブを描くメインの「古道」を含む対象物が反対の位置関係になっているのは、セザンヌの構図を反転させずに銅版に写したが故にと推定することが可能である。ディテールでもガッシェ邸の煙突の段差も反転している。「段差」と記したが、セザンヌの油彩画をよく見ると、色彩を変えて描き分けられている。ガッシェ邸には手前とその反対側にも煙突があった。間部の銅版画ではそのあたりが曖昧となっている。反してガッシェ邸のもう一つの特徴である窓の位置は反転していない。これについては、ガッシェ邸の輪郭を描いた後にスペースがないことに気がつき、ここに描かざるを得なかった可能性もある。この窓は煙突と共にガッシェ邸の側部を特徴づける、欠くことのできない窓であるからだ。しかし、セザンヌの絵からすると、左に緩やかに曲がった道が、ガッシェ邸に向かうには再び右にカーブする必要があるように思われる。すなわち間部の描いたように、である。たしかに間部の描いた地点は、セザンヌのそれよりもガッシェ邸に近づいている。
 セザンヌの油彩画と間部の銅版画との比較だけでは、刷りによる反転なのかどうかに回答を与えることはできない。しかし、制作のスタートを常に写生に求めていた間部時雄の流儀からすると、刷りによる反転を意識したか否かはともかくも、あくまでも実景に則しての制作であると思われる。もちろん描く視点と構図を決定する際には、セザンヌの油彩画に導かれたはずである。

7.結びにかけて-その後の間部時雄

 間部時雄が海外研修を文部省から許可されたのは2年間であった。さらに1年間の延長の許可を得て、1924年に帰国すべきところ、彼が加茂丸で神戸港に着いたのが1925年であった。そして京都高等工芸学校の教授職を辞して、東京に転居してしまう。その後は白日会を中心に作品を発表しているが、公職に就くことはなかったようだ。洋行帰りの画家として、さらに師の浅井忠亡き後の京都洋画壇を先導するという華々しい道が用意されていたはずであるのに、彼はその軌道から自ら進んで外れてゆく。そうした間部時雄の生き方に、19世紀後半フランスの画家の、絵画に賭ける精神、絵画へのロマンティシズムが投影してはいないだろうか。

【図版】

図版1:ポール・セザンヌ《エッチングを制作するガッシェ医師とセザンヌ》、1872-73年頃、紙・グラファイト、20.5×13.0cm、ルーヴル美術館蔵
図版2:フィンセント・ファン・ゴッホ《ガッシェ医師の肖像(パイプを持つ男)》、1890年、紙・エッチング、18.0×15.1cm
図版3:間部時雄《ガッシェ氏のアトリエにて》(仮題)、1922年、紙・エッチングとドライポイント、12.7×10.4cm、個人蔵
図版4:ガッシェ医師《クルミの木とオーヴェールの古道》、紙・エッチング、9.5×13.0cm
図版5:間部時雄《白川村》、1903年、紙・鉛筆、28.2×48.4cm、個人蔵
図版6:間部時雄《風景》、1922年以降、紙・エッチングとアクアチント、22.7×17.5cm、個人蔵
図版7:ポール・セザンヌ《オーヴェール=シュル=オワーズのガッシェ医師の家》、1872-73年、キャンバス・油絵具、61.6×51.1cm、イェール大学美術館蔵
図版8:図版3と同じ
図版9:図版8の反転
図版10:ポール・セザンヌ《オーヴェール=シュル=オワーズのガッシェ医師の家》、1872-73年、キャンバス・油絵具、46.0×38.0cm、オルセー美術館蔵

【参考文献】

Exh. cat., CEZANNE l’oeuvre grave Pavillon de Vendome, Aix-en-Provence, 1972.
Douglas Druick, "Cezanne’s Lithograph", in exh. cat. Cezanne The Late Work, The Museum of Modern Art, New York, 1977.
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Frits Lugt, Marques de Collections (dessins-estampes), supplement, San Francisco, 1988.
John Rewald, The Paintings of Paul Cezanne A Catalogue Raisonne, New York, 1996.
Michel Melot, The Impressionist Print, Yale U.P., 1996.
Ext. cat., Cezanne to Van Gogh The Collection of Doctor Gachet, The Metropolitan Museum of Art, New York, 1999.

小野忠重『版画』岩波新書、1961年。
京都国立近代美術館監修『長谷川潔版画作品集』美術出版社、1971年。
国立西洋美術館他「セザンヌ展」1974年。
ジョン・リウォルド編『セザンヌの手紙』美術公論社、1982年。
国立西洋美術館他「ゴッホ展」カタログ、1985年。
兵庫県立近代美術館他「セザンヌ展」カタログ、1986年。
岡部昌幸「間部時雄と牧野克次」『三彩』504号、1989年。
三重県立美術館「間部時雄展」カタログ、1991年。
町田市立国際版画美術館「腐蝕銅版画家協会」展カタログ、1992年。
横浜美術館、愛知県美術館「セザンヌ展」カタログ、1999年。
東京芸術大学美術館他「HANGA-東西交流の波」展カタログ、2004年。

ガッシュ医師を取り巻く19世紀後半の日欧版画関係図

ガッシュ医師を取り巻く19世紀後半の日欧版画関係図

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