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歴史のなかの嘘 -隠れキリシタン十字架調査顛末記-

麻柄一志(魚津歴史民俗博物館)

はじめに

 捏造という言葉で思い浮かべるのは2000年11月に発覚した旧石器遺跡捏造事件であろう。20年以上の間、宮城県を中心に東日本一帯で旧石器時代の地層に新しい時代の石器を埋め込み、遺跡を捏造していた事件は、捏造者の発掘成果(捏造成果)に基づいた日本の歴史を根底から覆し、日本列島における人類の登場を60~70万年前から約3万5千年前まで押し上げてしまった。考古学はモノの観察に学問の基盤を置いているが、この事件よって日本の旧石器時代研究者の石器観察能力が疑われた。僕も幾つかの著書で捏造遺跡を重要な遺跡として取り上げており、元々無かった信用を失墜した。この事件で唯一得たものは捏造という漢字が書けるようになったことぐらいである。このように旧石器遺跡捏造事件は日本の考古学会と僕に大きなダメージを与えたが、歴史の捏造は考古学の世界だけではない。古文書などには内容が捏造されているものが多数存在していることはよく知られているが、ここに紹介する一例は富山の近代史を巡る一種の捏造事件である。
 黒部市在住の平野武氏から同氏が保管している十字架が、魚津歴史民俗博物館所蔵の隠れキリシタンの十字架と云われているものと同一であることを教えていただいたことが契機となり、この十字架の由来調査を始めた。

1. 魚津のキリシタン資料

 魚津歴史民俗博物館に隠れキリシタンの十字架と称される鉄製品が収蔵されている(平野2002)。縦25.2cm、横19.7cmの質の悪い鋳物である(写真1)。縦横の交差点に両手を合わせた仏像の座像が付けられている。仏像の周りには車輪のように放射状の剣形の植物文と円形光背が組み合わさった装飾が施されている。不思議なことにこの資料についての資料カードは残されておらず、市内の某寺院からの寄贈ということ以外は詳細がわからない。少なくとも1979年以前の収蔵品と思われる。この資料は僕の知る限り1979年から1987年まで歴史民俗資料館の通路に展示されていたが、吉田記念郷土館が増設されたのを機に1988年から吉田記念郷土館の常設展示室に隠れキリシタン関係資料として展示している。従来この十字架を、江戸初期の寛永年間に魚津で密かにマリヤ像を隠し、キリスト教を信仰した罪で処刑された鈴木孫左衛門一族(魚津市史編纂委員会1968)など魚津の隠れキリシタンと関連するものと考えていた。
 魚津歴史民俗博物館にはこのほかにキリシタン資料として切支丹禁制の高札がある(写真2)。魚津町岡町にあった高札場に掲げられたものである。

     定
き里したん邪宗門の儀ハ堅く
御制禁た里若不審なるもの
有之ハ其筋の役所へ申出へし
御ほうび者下さるへき事
  慶応四年三月 太政官

 既に明治新政府が発足した1868年に出されたこの高札は前年(1867(慶応3)年)の浦上四番崩れと関係したものであろう。
 1858(安政5)年のアメリカを初めとする5カ国との修好通商条約の締結に基づき、外国人のための教会開設が認められ、長崎にも慶応(1865)元年に大浦天主堂が建てられた。これに伴い、度重なる弾圧に表面上は仏教徒として暮らしていた浦上の切支丹の末裔が大浦天主堂に名乗りをあげた。浦上の切支丹はこれ以後、地元の寺院修繕費拠出に協力せず、仏式の葬儀を拒絶したことによって、1867年に江戸幕府の長崎奉行所が弾圧に乗り出し、引き続き明治新政府によって明治2年までに浦上キリシタン全員が逮捕された。いわゆる浦上四番崩れである。浦上四番崩れで検挙された信徒は1869(明治2)年12月に三千名余りが金沢藩、大聖寺藩など全国二十余藩に流された。富山藩には翌年大聖寺藩や金沢藩経由で四十二名の信徒が収容された。流刑地の中で富山藩は東北端で長崎育ちの信徒には最も過酷な場所であったかもしれない。信徒は藩内の真宗寺院に分散して預けられ、改宗を強要されていたが、1872(明治5)年末か、1873年初め、当時新川県の県庁が所在した魚津に、2人の信徒が呼び出され、そのまま八畳の牢に約三ヶ月間入れられたことが記録されている(浦川1943、三俣2000)。浦上四番崩れの信徒が魚津にあった新川県庁の牢に収監されていたことは、魚津歴史民俗博物館所蔵十字架の由来の可能性を示した。

(写真1)魚津歴史民俗博物館所蔵の仏像付き十字架
(写真1)魚津歴史民俗博物館所蔵の仏像付き十字架
(写真2)切支丹取締の高札
(写真2)切支丹取締の高札

2. 仏像付き十字架

 同じ様な十字架は、浦上信徒が収容されていた婦中町西光寺にも信徒の遺品として残されている。富山藩に預けられ、西光寺に収容され、そこで死亡した「キク」の遺品といわれている。魚津歴史民俗博物館蔵の十字架と類似点が多いが、仏像の周りに配置されている円環とクロスの交点から四方へ延びる植物状の小突起が存在しない。この点を除けば、魚津歴史民俗博物館蔵の十字架とクロスや仏像の形態が同じで、魚津の十字架も形態から浦上四番崩れの信徒のものと考えることが可能となった。
 こうした十字架は富山県内にまだ他にも存在しており、『越中のキリシタン』には著者の飛見丈繁が収集したキリシタン遺品の中に魚津の十字架と同じ物が紹介されている。写真から判断すれば、魚津の十字架と同じ鋳型を使った同笵十字架であろう。飛見氏は同じ十字架を2点入手しており、元は高岡市内の民家に保管されていたものだという(飛見1963)。
 このほかにも黒部市の平野武氏から富山市内の個人蔵で同型のものが存在していることをご教示いただいた。富山市内の骨董市で入手したという。この中で由来が伝えられているのは西光寺蔵の「きく」の遺品のみである。つまり、「きく」の遺品を基準にすれば、富山県内で発見された仏像付き鉄製十字架5点は、幕末の浦上四番崩れの遺品である可能性が高いことになる。
 浦上四番崩れの遺品は長崎奉行所が没収し、現在東京国立博物館に収蔵されており、その図録も刊行されている(東京国立博物館1972)。この図録には四番崩れのほか三番崩れの遺品も含まれているが、十字架、絵画、彫像、ロザリオ、メダイなど様々な信仰遺物が掲載されている。十字架は58点あり、その内真鍮製が53点で鉄製は一点にすぎない。また、2点を除き十字架の上にはキリストが架けられており、仏像付きのものはない。江口正一によれば浦上の信徒が召し捉えられた時、所持する聖像・聖具は没収されたという(江口1978)。この記述が確かだとすれば、浦上信徒は流刑地に浦上で所持していた十字架等の聖具を持ち込んでいないことになる。当然弾圧側がこうした信仰に関わる品々を流刑地まで携帯するのを許すはずがなく、仏像付き十字架が浦上から富山藩へ持ち運ばれた可能性は低いといえよう。
 それではこの仏像付き十字架はどこで作られ、つかわれたのであろうか。考古学では一般にあるモノの分布の中心が、その製作・使用地であり、そのモノが表象する文化の中心地である場合が多い。ただし流通が発達した段階ではこうした分布論は成立しないが。そこで、富山県内に同一形態のものが5点もあり、「きく」の遺品が含まれることから、富山藩内で製作し、浦上信徒の改宗のために用いられた可能性も考えてみた。富山藩に流された信徒は藩内の仏教寺院に収容され、そこで連日仏教への改宗を強要されていたことが伝えられている。つまり、信徒が主体的に人の目を欺くために仏像を十字架に付けたのではなく、浦上信徒を仏教へ改宗させる為に十字架に見せた仏像をおがませようとした僧侶の計略ではないかと疑ってみた。しかし、九州のキリシタン遺物を調査された平野武氏から九州(特に長崎県・熊本県)に富山の仏像付き十字架と同一のものが多数存在していることを教えていただきこの推測が成立しないことが判明した。その後、東京の「東洋の十字架館」にも同型の仏像付き十字架が2点展示されていることがわかり、全国的に分布している可能性がある。予想以上に同の十字架が存在することに驚いた。

3. 偽物のキリシタン十字架

 このように、同笵の仏像付き十字架が全国的に分布していることに疑問をもっていたところ、平野武氏より驚くべき文献を教示していただいた。カトリック関連書籍を刊行している聖母の騎士社から刊行されているH.チースリクの『キリシタン史考』に仏像付き十字架が紹介されている(チースリク1995)。同書にはキリシタン遺物の偽造品が紹介されているが(写真3)、その中の一つとして「十字架の阿弥陀仏像」があげられている。魚津歴史民俗博物館所蔵の仏像付き十字架とまったく同一の資料である。やや長くなるが引用する。「昭和二十五年頃、突如として、あちらこちらに珍しい十字架像が「発見」された。縦二十六センチの十字架に、キリストのかわりに阿弥陀仏がついている。いかにも隠れキリシタンの遺物のようにみえて、展覧会や地方の博物館にも展示され、外国にも紹介された。ところが、その十字架は十九世紀にヨーロッパではやっていた新ゴジック風であって、おまけに、あまりにはっきりした十字架になっているので、決して「潜伏」時代のものであるはずはない。弾圧時代以前には、キリスト信者が阿弥陀像を十字架にあらわすはずもない。そのうえ、どうして昭和二十年後に突然こんなに多く発見されるのだろうか、などのことを考えてみれば、その「ニセモノ」であることがすぐわかる。実は、これは昭和二十年から二十五年のあいだに名古屋でつくられたものであって、その発案者も知られている。外人向のみやげものとしてつくられたそうであるが、このころ各地に出廻って、多くの郷土史料館にも展示されている。」魚津歴史民俗博物館も恥ずかしい「多くの郷土史料館」の一つであった。この本には「ニセモノ」の写真が付けられており、十字架から仏像の細かな細工まで富山県内の資料と一致している。このことは既に20数年前からキリスト教研究者の間では知られていたらしく(青山1977)、実測図付きで注意を喚起している。製作地は名古屋ではなく、愛知県海部郡美和町であり、制作者も判明している。その当時約300個が鋳造されたという。大きさ、形態、文様、材質のすべてがこの「ニセモノ」と一致としており、魚津歴史民俗博物館所蔵品をはじめとする県内「発見」の5点もニセモノと断定してよい。

(写真3)愛知県で造られた「ニセ」十字架
(写真3)愛知県で造られた「ニセ」十字架

4. 西光寺の十字架

 さて、ここで問題となるのは、婦中町西光寺所蔵の「キク」の遺品と伝えられている十字架である(写真4)。キクの薄幸とその遺品は今まで数多くの書物に紹介されている。厳しい弾圧によって極寒の地富山で命を落とした悲運は、真宗王国では邪宗とはいえ憐憫の情をかきたてたのであろうか、キク母子の埋葬地には地蔵菩薩とマリア像といういっしが安置されており、キク塚と称されている。
 『富山の寺社』には、婦中町西光寺が所蔵する浦上信徒重次郎妻きくの遺品としてこの仏像付き十字架と他二点が紹介されている(土井1978)。この十字架は魚津歴史民俗博物館蔵の十字架とほとんど同じであるが、前述のように仏像を囲む円環が存在しない点とクロスの交点から四方へ延びる植物状の小突起が存在しない点が異なっている。しかしよく観察すると円環と小突起の部分が故意に切り取られていることがわかる。西光寺蔵の十字架も魚津歴史民俗博物館蔵の仏像付き十字架と同笵(同じ鋳型で製作された金属製品)である。他の二点は古銭を十字架状に紐で繋いだものとやはり仏像を浮き彫りに描いた短剣形の鋳物である。古銭の十字架はきくが「人目を忍んでつくったものであろう」とされており、二点の仏像付きの鋳物が「世人をあざむくため、十字架に仏像が鋳込まれてある」と説明されている。別の意味で多くの人が欺かれたことは事実である。古銭の十字架は形態としては十字架というより剣形であり、もう1点の仏像が鋳出されている短剣形の鉄製品を含めて、キリシタン遺品か否かの再検討が必要であろう。
 西光寺所蔵の仏像付き十字架はこのほかにも紹介されている。古くは、富山市史に浦上切支丹宗徒の遺品として928頁に上記の3点が紹介されており(富山市史編修委員会1960)、旧版の婦中町史にも「婦中町と浦上キリシタン」の項の中で、西光寺の遺品として280・281頁に3点ともに紹介されている(婦中町史編纂委員会1967)。さらに新版の『婦中町史』にも二点の鋳物が「浦上キリシタン遺品-十字架とマリア像」として紹介されている(前田1996)。
 前述のように、キクの遺品と伝えられる仏像付き十字架も愛知県で製作された「ニセモノ」と同じ鋳型でつくられた可能性が高い。外人相手の土産物の一部に手を加えて、再加工が施されている点(偽造)は、ある意味では悪質といえよう。

(写真4)西光寺蔵「キク」の遺品と伝えられる十字架
(写真4)西光寺蔵「キク」の遺品と伝えられる十字架

おわりに

 20数年に亘って隠れキリシタン遺物として博物館に展示されていた資料が、実は「ニセモノ」の可能性が高いことが分かった。このことはキリスト教関係者やキリシタン史の研究者の間では周知の事実であったが、郷土史関係者は誰も気付かなかったということである。ここにお詫びして訂正したい。問題の十字架は現在展示室から撤去している。将来、「ニセモノ」や「歴史捏造」をテーマとする展示をおこなう時まで、この十字架には収蔵庫の奥で眠ってもらうことにする。
 最近も、キリシタン大名として知られる高山右近を紹介した書籍に右近が一時居城した明石市船岡城の城下の寺院に伝わる鉄製の仏像付き十字架が「キリスト教禁教令後の隠れキリシタンが礼拝に使ったとされる」と解説付きで紹介されている(北國新聞社2003)。写真でみる限り、魚津の仏像付き十字架や愛知の「ニセモノ」と同じものである。愛知県美和町でこの仏像付き十字架が造られてから50数年の年月を経ている。僅か50数年の間にも由来・伝説が創られる。西光寺の十字架にいたっては富山市史に紹介されるまで長くみても10数年でもっともらしい伝承が創られ、伝えられたことになる。資料としてのモノの研究における型式学的検討の重要性、さらに郷土研究において伝承に頼ることの危うさを痛感した調査であった。
 小稿は、平野武氏の熱心な追求によるところが大きい。なお、文献については平野氏を初め、斎藤隆、紙谷信雄氏にお世話になっている。

引用文献

青山 玄1977「キリシタン遺物でない十字架」『名古屋キリシタン文化研究会会報(14)』p.120
魚津市史編纂委員会1968『魚津市史 上巻』
浦川和三郎1943『浦上切支丹史』全国書房
江口正一1978『踏絵とロザリオ 日本の美術第144号』至文堂
チースリク・フーベルト(Hubert Cieslik)1995『キリシタン史考 キリシタン史の問題に答える』聖母の騎士社
土井了宗1978「キリシタン哀史 長沢山西光寺」『富山の寺社 富山文庫9』巧玄出版pp.155~157
東京国立博物館1972『東京国立博物館図録目録・キリシタン関係遺品篇』
富山市史編修委員会1960『富山市史第一巻』
飛見丈繁1963『越中のキリシタン』
平野 武2002「クルスからのメッセージ」『富山写真語 万華鏡125号(富山の博物館「祈りの形象」)』pp.6,7
婦中町史編纂委員会1967『婦中町史 上巻』
北國新聞社2003『加賀百万石異聞 高山右近』
前田英雄1996「三 浦上キリシタンと婦中」『婦中町史 通史編』婦中町史編纂委員会pp.552~583
三俣俊二2000『金沢・大聖寺・富山に流された浦上キリシタン』聖母の騎士社

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