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松倉⾦山についての調査 〜鉱⽯分析とスマートフォンを⽤いた坑道内調査
佐藤真樹(⿂津埋没林博物館)
はじめに
魚津の松倉金山は、加賀藩の財政を支えた越中七金山(ななかねやま)の一つであるが、越中七金山という言葉は、江戸時代の文書にはあまり現れない。越中(富山)の歴史や地理をまとめた『越中国誌(杉木有一編(明治年間))』には、長棟、亀谷、吉野、下田、虎谷、河原波、松倉の7つをあげ“有一日以上七鑛古来ノ方言ニ新川七ケ所金ナ山ト云”とあることから、古くは新川七ケ所金山(かなやま)と読んでいた。なお、江戸時代における“かなやま”は金属の鉱山を指す言葉である(Rodrigues João(1630))。
これまで、江戸時代における富山の鉱山の記録を集めた『越中鉱山雑誌(前田家編輯手写(明治年間))』を中心とした文書から、鉱山の歴史に関する社会科学的研究や、遺物に関する研究は行われてきたが、鉱石や岩石に対して地学的な視点からの文書の検討や現地調査は、近年行われていない。
本調査では、魚津に3つある“かなやま”のうち松倉に注目し、江戸時代の文書や先行する研究においての鉱石に関わる内容を整理し、新たに見つかった金を含む岩石・スラグ(鉱石から金属を精錬する際に発生する副産物で、鉱滓とも呼ばれる)の分析を行いその意味を検討する。あわせて、鉱山に残る坑道調査を行うことで、江戸時代の鉱山の様子を地学的に検討した。
(1)松倉の鉱石
(1−1)江戸時代の文書の中の鉱石
『越中鉱山雑誌』に掲載の、中納言と呼ばれた前田利常の鉱山について書いた「中納言様間夫(内容年代、寛永年中(1644年-))」によると、以下のように、松倉の箇所に“青金”という記載がある。
寛永年中
中納言様間夫
(中略)
越中虎谷 ノリ金元和年中
同 松倉 青金(以下省略)
青金とは現在ももちいられる金銀合金(金75%・銀25%)を指し、エレクトラム(金銀合金)を指す鉱山用語である。江戸時代も、金銀の合金を採掘していた可能性がある。
同じ『越中鉱山雑誌』に掲載される各山の税金(運上金)を列挙した「新川群金銀六カ所并長棟鉛山共運上帳(宝永6(1709)年)」の中の“松倉山金山運上”によると、税金(運上金・運上銀)は、寛永16(1639)年以降は銀で運上を払っていることがわかる。図2の換算値を求めるにあたり、金1枚は165gで品位が77.9%(沓名(2013))と仮定、銀は品位を80%と仮定、山吹金は品位90%と仮定し算出した。
銅の精錬などを仕事としてきた住友家の『年々帳一番(小葉田監修(1985))』によると、宝永4(1707)年に手代平助と小泉四郎兵衛が長棟鉛山と松倉山を調査し、以下の記録が残る。
同十七日、松倉山見分、此山先年より銀山ニ稼来候処、銀鉉切レ候て、銅鉑ニ相成候由、
彼地ニて銅鉑下財手前ニ有之、見分致候処、銅鉑ニ鉛石がね交、随分結構成鏈ニて候、
然共吹分ケ之儀無覚束相見へ候、
是上うすみかつきニて、立之方へ鏈筋割込たる山と相見へ候、
是又銅山ニ可成思入無之候
(意訳)
同じく(七月)十七日、松倉山を見て回った。この山では、以前から銀山として採掘が行われて
いたが、しかし、銀の鉱脈が途切れてしまい、銅鉱になったとのことだ。
その場所で、銅鉑(銅鉱石)が坑夫の目の前にあると、調査してみたところ、銅鉱に鉛の鉱石が
混じっており、良い鉱石だが、銅鉛鉱で製錬が難しい。
さらに、鉱脈は谷側に傾き、盤の中に分岐していくようである。
銅山にはならないだろう。
この『年々帳』での調査記録は、小葉田(1955、1975)・魚津市史編纂委員会編(1968)・広田(1991)で引用されたが、下線部は含まれていない。この下線箇所の“うすみかつき”は、猪名川町史編集専門委員会編(1991)の「奉勤要用帳」にある“薄身冠キ”と同じ意味ではないかと考えられる。
諸間歩堀口
岩構を鉉筋真直二者不相立、立𨫤ト唱候も少し横たわり相立候、依之楯冠ト申事有之
或ハ
厚身楯テ薄身楯テ
薄身冠キ厚身冠キ
但
山之内江カヅクヲ厚身冠キ
山之外江カヅクヲ薄身冠キ
と云
岩盤の(中)で、鉱脈は垂直に立っているわけではない。立𨫤と呼ばれる鉱脈であっても、少し傾いているので、楯(盤)を冠(被:かぶ)るという。(中略)山の外の方へ潜ることを“薄身冠キ(ウスミカヅキ)”という。また、“うすみ”が山の低くなる方向を指す山言葉で、“かつき”は“かずき(潜き)”を指す。さらに、東に山があり、西に谷がある松倉の場合は、手代平助らが調査した鉱脈では“鉱脈が西へ傾斜している”と解釈できるのではないかと井澤英二(九州大学名誉教授)は指摘した(私信)。
松倉での銅の産出量の記録はないが、“松尾銅山”という名が江戸時代に書かれた松倉の古絵図『松倉加祢山絵図(文政13(1830)年、魚津歴史民俗博物館所蔵)』等に見られることから(図3)、銅山もあったようだ。松倉地区内での調査では、凝灰岩転石の一部から銅が検出されたほか、銅を含む鉱物として珪孔雀石が見られた(図4)。
『加越能三州山川旧蹟志(森田(年未詳))』の中の「新川郡古城跡名所旧跡等書(宝暦14(1764)年)」では、松倉か祢山と川原波か祢山が、“銀山 同断”とされ、250年以上前にすでに、鉱山としては絶えていたと考えられる。
ここまでの資料で、松倉金山は、“かねやま”としては金山の頃は青金であるエレクトラムを採掘していたと考えられ、銀山としての鉱業期間が長いことがわかってきた。
(1−2)明治以降の研究論文等に記載された鉱石
『越中国鉱礦調理記(不明(内容年代 1872 年))』には、“休山”の中に魚津にあった3つの金山が以下の通り記載される。
一 金鉛山 河原波村領
一 金鉛山 虎谷村領
一 金山 松倉村領
近年の報告としては、「日本産ノ金石(杉村(1885年))」で、保金山(山梨県)、山ケ野(鹿児島県)、松倉金山(富山県)が“金鑛”の産地として紹介される。官報(1888)には、下新川郡松倉村坊主山字カワシヤで金が半年で四十六貫七百五十目(約175.3kg)産出したことが報告される他、松倉のほか様々なところで試掘を行った記録が1891年から1896年の官報に残る。
地学雑誌では、中島(1890年)によって、明治21年に松倉では産金の出来高がないことが記録され、鈴木(1893)は“自然金の山金 鑛金或い鉉金”の項目で以下のように魚津の鉱山で見られる地質と鉱石を記載した。
越中国下新川郡松倉金山 第三紀の凝灰岩を通ずる粘𨫤中に方鉛鉱および輝銅鉱交へ産出す
越中国下新川郡虎谷金山 安山岩質の凝灰岩を通ずる粘𨫤中に硫化鉄を雑へ産出しその量僅少なり
越中国下新川郡河原波金山 第三紀の凝灰岩質角礫岩を通ずる石英脈中に硫化鉄、亜鉛、鑛および
輝銅鉱を伴い些少の金を含有す
越中国下新川郡鉢村金山 同上
鈴木(1893)による上述の記載が地質図解説書等で引用され、富山県(1957・1970)では以下のように脈の幅が20cm程度で数脈あることや、金粒として産出したことが追記された。
松倉金山(魚津市松倉)
方鉛鉱・輝銅鉱石英脈で、巾20cm前後、数脈ありという。鉱脈中にしばしば金粒をまじえる。
品位、鉱量はわからない。
同様に、富山県(1992)では、“松倉鉱山”として、方鉛鉱と輝銅鉱石英脈が鉱石と表で示された。なお、富山県(1992)の同表には虎谷鉛山も併記されるので、ここでの“松倉鉱山”は松倉金山を指していると考えられる。一方で、角・野沢(1973)が指摘するように、虎谷付近の鉱床は、松倉鉱山と呼ばれて稼行された。この松倉鉱山(虎谷)の昭和初期の鉱量等は、資源・素材学会日本金山誌編纂委員会編(1994)に報告されている。同報告によると、虎谷の鉱脈と品位(g/t)は表1の通りである。
小山(1938)は、松倉・河原波・鉢・虎谷の広域を松倉金山とし、坑道ごとに鉱脈の走向傾斜、品位等を記載した。坑名から松倉地域の中でも松倉金山のどこの坑道を指すものかわからないが、走向 N60°W からN20°E で、東や西に傾斜もしくは断層となっていると報告された(表2)。幅は約3cmから36cm程度と細い脈で、概ね金にくらべ銀が7倍程度含まれていた。
松倉に近い、上市町の下田金山(白萩鉱山)では、“走向は N-S を中心とし、N40° E から N20°E 前後で、傾斜は直立又は W70-80°を普通とする”と記載(堀越(1952))され、小川(1938)と近い走向傾斜となっている。さらに、下田金山の金鉱脈の露頭スケッチ(藤井(1965))でも同様に南北に近い走向と、40°〜80°傾斜が記載される。
そして、角・野沢 (1973)では、旧杭・試掘跡、鉱微を「魚津図幅地域金属鉱床分布図」として図化し、松倉を含む新川地域の金属鉱床について以下のように整理した。
鉱脈:船津花崗岩類、太美山層群、岩稲累層、八尾累層最下部の折戸凝灰岩層の中に形成
鉱化作用の影響:八尾累層福平凝灰角礫岩火山円礫岩層の下部にまで表われている
鉱床の形成時期:福平凝灰角礫岩火山円礫岩層の堆積期の後半から、現在の地質構造がほぼ完成した
更新世前期頃までの間
清水(2000, 2020)は、日本海形成・拡大に伴う火山活動による熱水系による低硫化型浅熱水性金鉱床と考察。金子(2020)は、新第三紀の火山岩類の形成史と共に、グリーンタフ(本州の日本海沿岸に沿って分布する火山岩主体の地層群、日本海形成に関連した)と地域の松倉等の金山の関わりを指摘している。
砂金については、「越中国角川の砂金(SA(1894))」に、明治23年に採集特許権を得た人が“ネコ流し”で砂金を採る事業を行ったことが記録された。また、松倉金山の地質として、“第三紀凝灰岩にして三條の石英脈南北に走り東方に斜下せり目下廃山と成り居る”とした。また、「日本砂金産地(紫雨生(1896))」には、角川の金山谷と大熊村の砂金が紹介された。
以上から、昭和の中頃にかけて鉱脈に関する地質学的な記載が残るがその後は、層序による検討や鉱床としての分類が行われてきたことがわかった。
(1−3)既存の魚津の鉱石
松倉金山に関わる資料調査の中で見つかった金に関わる岩石資料は表3のとおりである。
藤井昭二(富山大学教授)らによる 1986年に行われた松倉の調査で採取された粘土質の凝灰岩があった。さらに、藤井昭二の見立てとして広田寿三郎が以下を標本ラベルに記録している。
粘土
断層等を伝って鉱液がきた
粘土等(etc)鉱染している。
金等を含むことがある。
なお、同試料を砕きパンニング(比重の違いで重鉱物を集める作業)をしても金は見つからなかったと、調査同行した寺島禎一(元高等学校教員(地学))から伺った。
一方で、大野忠弘(元高等学校教員(地学))のコレクション(魚津埋没林博物館所蔵)の中に、松倉?で採集された流紋岩があり備考に“金鉱?”とあった。さらに、地域ヒアリングで、金鉱石として伝わる石があると情報を得、確認したところ水晶が明瞭な珪質な岩石であった。
この他、魚津市を流れる角川と小早月川の砂金が、甲斐黄金村・湯之奥金山博物館で「日本砂金地図」で展示されている。また、寺島禎一が採取した角川の砂金が富山市科学博物館で展示された。2020年〜2024年に埋没林博物館で行なった砂金採集イベントでは下のような細かな砂金(粉金)が角川、小早月川など松倉地区で見つかっている(図5)。
国立科学博物館が所蔵する富山県の gold ore の標本ラベルを確認したところ、“越中国 新川郡 松倉村”と記載があり、明治の鉱石の標本セットの一部として松倉の金鉱の存在が偶然判明した。母岩が珪化していて、水酸化鉄の影響で全体に茶褐色であった。水酸化鉄と粗粒金が共生する細脈からなる鉱山であったから、魚津では砂金が取れるのではないかと佐野貴司・門馬綱一(国立科学博物館)に指摘を受けた。
なお、表3に示した上述の4点の岩石標本の中にルーペでも金(エレクトラム)が確認できるレベルの粗粒金は見られなかった。
(2)松倉で新たに採取した金を含む岩石
(2−1)エレクトラムを含む岩石
魚津の松倉地区において、地権者の許可を得て転石等の岩石のサンプリングを行った。この中で、ルーペで確認できる粗粒金を採集し、11点の資料を魚津埋没林博物館に収蔵した(標本番号 G02-0400、0402〜0409、0415、0416)。粗粒金の一部には3mmを超える明瞭な“糸金”と呼ばれるものも見られた(図7)。
これらの金を含む岩石については、中西哲也(九州大学総合博物館)の観察によると、堆積した際の縞模様が明瞭なサンプルもあり凝灰岩であること、茶色に変質している部分は鉄、黒く変質している部分は二酸化マンガンの可能性があることが指摘された。
バッテリー駆動によるハンドヘルド蛍光X線分析装置 SPECTRO xSORT(アメテック株式会社、以下HHXRF)により、粗粒金を含む箇所を久間英樹(九州大学総合研究博物館)に分析いただき、銀が検出された。なお、ごく小さい金のため、この装置では検出に困難がある(表4)。
国立科学博物館において、蛍光X線分析装置による分析および電子顕微鏡での鉱物撮影を門馬綱一・佐野貴司(国立科学博物館)に実施いただき、粗粒金は金銀の合金であるエレクトラムであることがわかった。
さらに、富山県産業技術研究開発センター企画管理部ものづくり研究開発センターにおいて、走査型電子顕微鏡 JSM-IT300LV(日本電子株式会社)を用いたエネルギー分散型X線分析 X-MaxN(オックスフォ ート・インストゥルメンツ株式会社、以下 SEM-EDX)を酒井康祐(同センター)が行った。国立科学博物館で分析した明瞭な粗粒金ではなく、水酸化鉄(褐鉄鉱)の中に点在した粗粒金を分析した結果、金・銀を検出し同様にエレクトラムであることがわかった(表4)。
また、神岡鉱業株式会社の協力により、粗粒金を含む標本、粗粒金を含む標本の粗粒金が見えない部位をパウダーにして全体の品位分析を行ったところ、粗粒金を含む標本では、Au 4g/t Ag 50g/t Cu n.d.と金や銀を多く含んでいることがわかった(表4)。一方で、粗粒金を含む標本の粗粒金が見えない部位では、金、銀、銅ともに検出されなかった。これらから、エレクトラムが偏在していることが明らかになった。
エレクトラムの電子顕微鏡写真では、一つの結晶のサイズが、数100μm程度と非常に大きいものも含まれることがわかった(図8)。
その他、珪化がすすんでいない凝灰岩には、パイライト等が多く見られた(表4)。
*邑南町教育委員会(2018)久喜銀山遺跡長さ報告書第2集より
(2−2)銀を含む岩石
魚津の松倉地区において、地権者の許可を得て表層の岩石のサンプリングを行った。石英脈や茶色に変質している部分が明瞭なサンプルを採集し、薄い硝酸に数日浸し、溶出した成分を銅線への還元実験を行い銀を含むことを確認した。この1点を魚津埋没林博物館に収蔵した(標本番号 G02-0401)。
この標本は HHXRF で銀が検出された。反射顕微鏡観察のため鏡面標本をつくり異方性から針銀鉱(Ag2S)と判断した(参照、Bernhard Pracejus(2014))。さらに、SEM-EDX で針銀鉱を分析した結果、銀、硫黄を検出した(表4)。なお、この針銀鉱も大きな結晶であることから、江戸時代においても同様に大きな針銀鉱を集めていたと仮定すると、鉛などに溶かし込んで集める灰吹ではなく、鉱石をそのまますりつぶし比重分離して、銀を集めていた可能性もある。
(3)松倉で新たに採取したスラグ
(3−1)鉱山遺物について
鉱石を掘り出す採鉱場では、槌などを用いてエレクトラムを含む鉱石を掘ったと考えられるが、松倉では槌などは見つかっていない。背景として、松倉が加賀藩の鉱山であり、『越中鉱山雑誌』に掲載の「松倉山由来書上申帳(文化8(1811)年)」によると、“右御飾御道具之分ハ、就申山師退轉之頃、御上江御取上ニ而御座候。”とあり、御飾御道具には、採鉱に使ったと考えられる槌や鉄砲等が含まれ、藩に回収された可能性がある。
鉱山で採鉱された、エレクトラムを含む石がそのまま流通させたわけではない。金を多く含む石を選び出す選鉱、溶かして不純物を取り除く精錬等を行なっていると考えられる。
魚津で見られる鉱山遺物としては、魚津歴史民俗博物館が所蔵する虎谷の金挽臼等、絵巻、古絵図、雁木がある。虎谷の金引臼については、今村(1990)により記載され、上臼と下臼は対ではないが、上臼中央の軸受け孔を鉱石の供給孔にも併用する黒川型と考えられる。絵巻については“松倉金山発掘之図”と“松倉金山製錬之図”と墨書きがあり、渡部(2010, 2022)が佐渡の絵巻の模写と指摘している。
松倉村の肝煎の子孫の方が文書や絵図、鉄桶と椀掛けを、地域の寺などが金挽臼を所蔵している。その他、鉄製の精錬に関わる道具が“金の壺”として報道(昭和28年1月10日、11日(北日本新聞))されたが行方はわからない。その他、叩き石が写真で確認(うおづ囲炉裏の会より私信,図8)されているほか、博物館の調査では擦り臼や金挽臼が見つかっている。
これらから、金を含む鉱石を叩き石や鉄桶などで砕き、擦り臼や金挽臼などで粉々にし、腕かけをしてエレクトエラムを比重分離したと考えられる。
エレクトラムを含む砂から不純物を取り除く作業として精錬がある。精錬の具体的な方法については文書等にはないが、『越中鉱山雑誌』に掲載の「松倉山由来書上申帳」や「松倉山一巻」には、以下のように道草金を灰吹して買い取ってもらったという記述や、吹いた金や銀を税として収めたという記述があった。
然處、近年坊主山水貫普請相願、御聞届之上普請相始候處、
少々道草加彌取上、灰吹金御買上ニ相成候得共、
又々鉉立惡敷相成、折々普請モ仕得候共、取上リ無御座難澁仕罷在申候。
「松倉山由来書上申帳(文化8(1811)年)」
夫ゟ打過吹目金を以八百目・九百目之運上も御座候。
其以後白加ね山も御座候而、則銀吹目貳拾七貫目ニ、三十日切之御運上も御座候。
「松倉山一卷(年代不明)」
このような灰吹をどこで行なったかは不明だが、当時の松倉村の端付近にある福田屋谷の近くには、坑口の近くに屋根がかけられた絵と共に“金山小屋”『新川郡かね山一村建ニ付定書并領絵図 新川郡布施組松倉村絵図』、“役所小屋”(金子直二氏所蔵の絵図)と書かれていた。
松倉地域の人々らが寄稿し作った地域誌「十三の里」には、鉱夫は、砂金や金塊を宇津呂を通って本丸へ運んだ(道音・酒井(1990))、松倉城の南東付近は、宝蔵野と呼ばれ松倉金山の金蔵があったらしい(波岡・肥塚(1992))と記述があり、現在の松倉城より上流域で製錬していたと考えられる。さらに、明治、大正、昭和にかけても採掘が行われた記録が同紙に残る(広田(1991))。
鉱山遺物が少ない理由として、江戸時代に入ってすぐに最盛期を迎え、江戸の中頃には本格的な採掘を終えてしまったことによると考える。なお、虎谷では臼等は複数見つかっているため鉱山遺物に関する報告は別に行うこととする。
(3−2)スラグについて
魚津の松倉地区(前出の“金山小屋”付近)において、地権者の許可を得て表層のスラグのサンプリングを行った。これまで、松倉のスラグに関する記録や標本は調べた範囲では見つからず、本調査で初めて記録できた。なお、スラグの多くは弱い磁性を示し、一部に炭化物を含んでいた。
同一の場所で採取したスラグには、黒澤正紀(筑波大学准教授)による鏡下での観察によると、ガラス光沢があり急冷した気泡を含む比較的新しいスラグと、鉄カンラン石の結晶がみられガラスが茶色になっている比較的古いスラグが混在していることがわかった。さらに、比較的古いスラグで鉄カンラン石が見られることから、鉄を捨てる作業をした後の銅スラグではないかと指摘を受けた。
HHXRF では、銀が検出された(表5)。SEM-EDX でスラグを分析した結果、鉄や鉛、リンが検出された。さらに、神岡鉱業株式会社の協力により、スラグをパウダーにして全体の品位分析を行ったところ、Au 4g/t Ag 200g/t Cu 0.45%と金や銀を多く含むスラグとわかった(表5)。スラグ中の鉛の量は、鉛を使った製錬方法である灰吹を行う銀製錬において、銅製錬より高くなる。この点から、松倉で見つかったスラグで分析したものは銀製錬時のものと考えられる。
*Nakanishi and Izawa(2014) ISIJ International, Vol. 54
**大澤・鈴木(2017)兵庫県教育委員会:勝浦鉱山.兵庫県文化財調査報告487より
これらから、現在見つかっているスラグには、精錬の精度が低く金や銀分を多く残している江戸末期から明治の初め頃の、銀を製錬するために行われた比較的古いスラグが含まれることがわかった。なお、採集した各々のスラグは、一様な時代や、同一の製錬作業にできたものではないと考えられ、詳細な検討が必要となる。
(4)スマートフォンを用いた坑道調査
(4−1)これまでの坑道調査について
松倉の採掘について書かれた、文書や絵図は残っていない。絵巻はあるが佐渡の模写で松倉のことを描いていない可能性が高い。虎谷については『越中鉱山雑誌』に掲載された「虎谷金山由来書上」に以下の記載がある。
虎谷加ね山々師根元之義ハ、松倉山々師之内仁兵衛と申者、元和元年三月之頃、
隣在鉢村領之内、三枚六兩と申所ニ而、金鉉見出し五六間堀込候所、大加ね持へ取付、(中略)、
夫ゟ南ノ方ハ瀬戸ケ谷、同外源平、東ノ方ハ立石と申所迄之内、
年々所々數百ヶ所、大加ね堀出シ、御上銀萬治年中之頃迄、過分上納仕、山師家數も出來仕。
と“5-6間(9-11m)掘ると金が出た、年々100 箇所で金を掘り出した”と書かれるが、元和元(1615)年から200年後の文化8(1811)年の記述のためどれほど正しいかわからない。
魚津市文化時保護委員であった広田ら(1978)が、松倉の坑道の断面図等を記した「松倉金山坑道調査見取図」があり、この図をもとにした展示が魚津歴史民俗博物館で見られる。その後も地元の自治会等の有志による調査によって、松倉、虎谷、河原波の坑口が記録されている(私信)。また、麻柄(2013)は松倉、虎谷、河原波の坑口の写真を記録している。
(4−2)調査手法
地権者から許可を得られた坑道に追いて、久間(2023)による、タブレット iPad pro やスマートフォンiPhone pro に搭載の LiDAR を用いての3次元レーザ測定を行った。測定時において、久間(2023)の精度検証では移動速度 0.5m/s 程度にすることや、分割して計測し組み合わせることで誤差が小さくなると報告されていることを参考とした。測定には、フリーソフト『Scaniverse – 3D Scanner(Toolbox AI 社)』を使用し、計測方法は“メッシュ”を用いた。データの組み合わせと解析には『CloudCompare』を用いた。
3次元レーザ測定方法については、久間英樹(九州大学総合研究博物館)により、多田銀銅山で指導を受けたほか、魚津でも、坑道等で実際の測定方法を実演していただいた。実演を行う際には、当館の学芸員以外に、富山県内の地学担当の学芸員が複数参加し、3次元レーザ測定技術を学んだ。
(4−3)調査結果と考察
松倉等で見られる坑道を複数スキャンした。松倉では露頭掘り(竪穴掘り)の跡が見られた。露頭掘りは、地表から鉱石がある脈を掘り進むもので、崩された壁面や、すり鉢状の窪地になっている箇所(図14)もあった。虎谷ではひ追い掘り(図15)、坑道掘り(図16)が見られた。ひ追い掘りは、地中の不規則な鉱脈の高品位の部分を追うように採掘する方法で、図13にみられるように、形状が不規則である。坑道掘りは、鉱石の排出・排水等を考え規則的に掘削する方法で、図14のように直線的な構造が明瞭である。このように採掘形態の多様さがわかってきた。
広田ら(1978)で報告された坑道をスキャンした結果が図15で、広田のスケッチ(図12)の精度が高いことがわかる。久間によると、図17のなかでも不規則な掘削形状が見られる赤点線部等が採鉱場であったと考えられ、その周りには通路や排水のための普請坑(水平坑)がみられる。採鉱場付近と水没先を別日にスキャンすると同じ方向に連続的な構造が見られ、走向N50°E、傾斜はほぼ垂直となっていた。これらは、(1−2)で列挙した走向よりやや東に振っているが、傾斜が鉛直に近いことは同様で、浅熱水鉱床の特徴を示す(倉敷市立自然史博物館WEBサイト(2025 確認))。
また、坑道内には、のみ角と呼ばれる、1ヶ月の坑道内の掘削距離を表す目印が見つかった(久間ら(2024))ことから、江戸時代に掘られたと考えられる場所がある。一方で、同じ坑道内には鑿岩機の跡が見られる箇所もあり、江戸時代以降も何度か開発された坑道と考えられる。
まとめ
本研究により、松金地域において魚津の金(エレクトラム)を含む岩石、スラグを発見することができた。水酸化鉄とともに産出する金の産状は、通常考えられる石英脈とともに見られる金銀とは異なり、この地域ならではの金生成環境があった可能性がある。また、水酸化鉄とともに産出した金が風化で砂金として流出し、古くから金山として開発が始まった可能性がある。
坑道のスマートフォンを用いた調査により、採鉱場と通路である普請坑を明確にすることができ、鉱脈の走向や傾斜が検討できた。複数の坑道の検討から熱水の構造や、鉱床の成立時期などの検討も今後進めていきたい。
謝辞
富山県博物館協会の研究補助により、富山県産業技術研究開発センター企画管理部ものづくり研究開発センターにおいて、走査型電子顕微鏡を用いたエネルギー分散型X線分析を酒井康祐氏に行っていただいた。また、久間英樹氏(九州大学総合研究博物館)氏に来県いただき鉱山での調査指導を行っていただいた。
鉱山の文書に関しての解釈について、『年々帳一番』等について井澤英二氏(九州大学名誉教授)、「松倉山由来書上申帳」について高森邦男氏(富山県公文書館)、「奉勤要用帳」について渡部浩二氏(新潟県立歴史博物館)、『年々帳一番』について渡辺誠氏(射水市立新湊博物館)に指導いただいた。資料調査のため、的場茂晃氏・麻柄一志氏(魚津歴史民俗博物館)に協力いただいた。佐渡金山の現状について宇佐美亮氏(佐渡市世界遺産推進課)に指導いただいた。また、現地調査及び調査方法の指導について、青木美香氏(猪名川町教育委員会)、井澤英二氏、打越山詩子氏(魚津市役所)、久間英樹氏、熊谷暢聡氏(日本鉱業史研究会)、清水正明氏(富山大学名誉教授)、寺島禎一氏(新川ネイチャーフレンズ)、野寺凜氏(吉田科学館)、増渕佳子氏(富山市科学博物館)に協力いただいた(五十音順)。鉱山臼についてのコメントと鉱石標本の提供について、小松美鈴(甲斐黄金村・湯之奥金山博物館)に協力いただいた。岩石、鉱物の観察について中西哲也氏(九州大学)、大石徹(日本鉱業史研究会)氏に協力いただいた。研磨片作成には、石崎泰男氏(富山大学教授)に、観察は、沢田輝氏(富山大学助教)、清水正明氏、井澤英二氏に協力いただいた。ハンドヘルド蛍光X線分析装置による分析および解析を久間英樹氏、井澤英二氏に協力いただいた。金鉱石の観察及び蛍光X線分析装置による分析および電子顕微鏡での鉱物撮影について門馬綱一氏(国立科学博物館)、佐野貴司氏(国立科学博物館)、松原聰(国立科学博物館名誉研究員)にコメントをいただいた。スラグの観察について、黒澤正紀氏(筑波大学)に協力いただいた。岩石およびスラグのパウダーによる分析について神岡鉱業株式会社および深野樹知氏(鉱山部鉱山係)に協力いただいた。このほか、うおづ囲炉裏の会、吉島昭栄会、松倉コミュニティセンターの方々をはじめ地域の方々にヒアリングをさせていただき有益な情報をいただいた。みなさまの協力に心から感謝申し上げます。
これらの調査結果は、第15回秋田県鉱山サミットで報告(佐藤(2024))した他、2024年中に講演・講座を5回行った。魚津埋没林博物館の企画展「キンキラリ魚津の金山展」を2024年7月から10月に開催した。併せて、井澤英二氏・久間英樹氏・清水正明氏・中村唯史氏(島根県立三瓶自然館)による企画展関連の講演会、寺島禎一氏・藤田秀治氏の協力で坑道ツアー、砂金ツアーを開催。また、子ども向けの解説として、埋没林広報誌「うもれ木 56号金がみつかった」を制作配布した。
引用(並び順)
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