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白鳥城秀吉本陣伝承の生成
萩原大輔(富山市郷土博物館)
はじめに
呉羽丘陵は、富山平野の中央部を南西から北東にかけて走る丘陵で、呉羽山をもって代表されるため、その名がある。丘陵の東を呉東、西を呉西と呼び、富山県を地理的かつ文化・風俗的側面において、東西に二分する境界となっていることは、広く知られていよう。丘陵の長さは南北約八キロメートル、最大幅は東西約二・五キロメートルにおよび、標高は南部の城山(白鳥峯)が最高で一四五・三メートル、呉羽山は七一・三メートル、北端の八ヶ山が三〇メートルとなっている。丘陵の西側は緩やかな斜面で、富山市街に面した東側は直線状の断崖で眺望が開けており、富山城下一帯を眼下におさめることができる(1)。
その呉羽丘陵上の白鳥城(現富山市吉作)【写真①】に、天正十三年(一五八五)の「佐々攻め(2)」の際に関白羽柴秀吉が本陣を置き、佐々成政の降参を受け入れたという逸話が残る。いわゆる白鳥城秀吉本陣伝承として、県内では著名なものである。降参するために秀吉本陣へ赴く成政が道心山(現富山市安養坊)で剃髪したという言い伝えもあり、富山市民俗民芸村内の一角に、そのことを記念する石碑【写真②】も建立されている。
しかし、近年の研究成果と照らし合わせるに、かかる本陣伝承をそのまま歴史的事実とみなすことには躊躇を覚える。すなわち、同時代史料の分析から導き出される成政の降参場所は倶利伽羅峠であり、白鳥城ではない(3)。そこで課題として浮上するのは、いつごろから白鳥城をめぐる言説が発生して、どのようにして定着に至るのか、という伝承の生成に関する考察であろう。小稿は、右の問題関心をもとに、郷土富山における地域史認識の形成過程を探るささやかな試みである。
第一章 白鳥城秀吉本陣伝承の淵源は何か
そもそも秀吉が呉羽山に陣を構えたというのは、必ずしも創作ではない。秀吉が側近の大村由己に作成させた伝記『秀吉事記(天正記)』の「(閏八月)二日御服山御動座、富山有台覧、三日御服山前田(利家)進御茶(4)」という記述が注目される。成政を降参させて天正十三年(一五八五)閏八月一日に富山入城を果たした秀吉(5)は、翌二日には富山平野を一望できる呉羽山へ移り、三日には同所で前田利家主催となる祝勝の茶会に参加したというのである。なお、「御(呉)服(福)山」という語は、「くれはやま」ではなく「ごふくやま」と読んでいたらしい(6)。現在、五福山といえば、富山市民俗民芸村一帯の山(富山市安養坊)を指すが、当時はより広い範囲を指していた(7)。
さて翌八月四日の時点で秀吉は「外山城西フサク山」にいることが別の史料で確認できる(8)。この場所については、同じく秀吉本陣の伝承が残る太閤山(現射水市黒河)とみるべき余地がなくもない。しかし、太閤山は発掘調査を行ったところ、ほとんど遺物が出土せず、一夜程度の陣跡(9)と推定されており、地理的にみても富山城からはやや距離がありすぎる。そのため素直に、富山城の西を塞ぐ呉羽山と解釈してよかろう。つまり秀吉は、閏八月二日から大坂への帰途につく六日まで、わずか数日間だが呉羽山に在陣していたと考えられる(10)。よって、呉羽山は越中攻軍時の秀吉本陣というよりむしろ、帰途の一時的な滞在場所と理解できよう。
軍事遠征中の秀吉の在所を本陣と称するならば、白鳥城説は強ち誤りともいえないが、成政が降参するために出向いた秀吉本陣とする点は、やはり修正を要する。次に掲げたのは『秀吉事記』の該当部分である。
傍線部にみるごとく、越中一国を眼下に収めることができるという倶利伽羅峠の「八幡峯上」に、秀吉本陣は構築されている。そして波線部から、織田信雄仲介のもと、倶利伽羅峠の「殿下柳営」で、成政が降参したことが分かる。その具体的な位置を源氏ヶ嶺城(現小矢部市道林寺)【写真③】に比定する見解もあるが(12)、いずれにせよ、同書でも成政降参場所が白鳥城ではなく倶利伽羅峠となっていることに注意しておきたい。
それでは、いつだれが白鳥城としたのか、まずは江戸時代に執筆された秀吉伝記を時系列順にたどりたい。寛永二年(一六二五)成立の小瀬甫庵著『太閤記』は、周知のごとく太閤記モノの元祖で、その儒学的な史観によって独自の潤色が多く施されている。しかし、秀吉越中出陣に関していえば、一切触れるところが無く、淵源に求めることはできない。そこで、秀吉伝記の時期的に早い例、田中吉政家臣の川角三郎右衛門が元和年間(一六一五〜二四)に記した『川角太閤記』を確認しよう。同書は、本能寺の変以降の秀吉の事跡や逸話を丹念に描いたもので、「越中くりから峠に馬を立、先勢東ハたて山・うばとうけ・つるきの山のふもとまて令放火、木舟・森山・ます山以下悉破没付、内蔵助(佐々成政)令降参」と述べている。比較的信頼のおける江戸時代初期の秀吉伝記からは、倶利伽羅峠説は窺えても、白鳥城説がみられない点は注意したい。
しかし『豊鑑』には異説が示されている。同書は、竹中重門が寛永八年(一六三一)に著したもので、秀吉出生から伏見築城までを鏡物にならって述べる。「秀吉今ゆするきの山にあかり、軍兵とも越中国に陣をなす、佐々氏ハ信長のすさにて、常にあひなれし中なれは、富田左近・津田隼人媒にして、頓而平をなせり(13)」とあり、今石動山(現小矢部市)に布陣した秀吉が越中国内に兵を進軍させたことをうけ、成政はすぐに和議を結んだとしている。ここでは今石動城【写真④】が成政降参時の秀吉本陣と想定されているようである。重門は秀吉の家臣だが、天正元年(一五七三)の生まれで、その記述根拠は少なくとも自身の従軍体験ではないだろう。
一方で、明暦四年(一六五八)に江戸幕府の命令によって林羅山が撰した『豊臣秀吉譜』には「秀吉登能登石動山、分兵使攻外山、成政不克拒之、依富田左近・津田隼人而乞降、秀吉許之(14)」と述べられており、仲介者二名は一致しているものの、今石動山ではなく能登国石動山(現石川県鹿島郡中能登町)に構えたことになっている。この似て非なる相違に関しては、長谷川泰志氏の研究が参考となる。氏によれば、『豊臣秀吉譜』は、『太閤記』が持っていた史論部分と読み物的要素を削り、編年体に並びかえ、『豊鑑』や『朝鮮征伐記』の記述を補充した内容をもつという(15)。この指摘をふまえると、『豊臣秀吉譜』の当該記述はあくまで『豊鑑』を下敷きにしているが、現地に精通していない羅山の地理的認識不足ゆえに、「今ゆするきの山」を「能登石動山」と誤解してしまった、との推測が許されよう。
このほか、江戸時代の秀吉人気を決定づけた『絵本太閤記』(一七九九〜一八〇一年刊行)には、秀吉が石動山を経由して滑川へ渡船して富山城へ迫ったことが語られており(16)、石動山説は一程度の広がりをもって展開したようである。このように中央で刊行された秀吉伝記では、時代が下るにつれて倶利伽羅峠説を採らなくなり、今石動説や石動山説などが主流となっていった様相が分かる。
結句、秀吉本陣を白鳥城の位置する呉羽丘陵とする、中央における歴史書の初見は、管見の限り、延宝元年(一六七三)に成立した、山鹿素行著の『武家事紀』である。
傍線部に、秀吉本陣は「呉服山」という記述が登場する。しかも前田利家を案内人として安寧坊坂に陣取ったという。波線部によれば、成政は織田信雄の重臣である瀧川雄利・土方雄久両人を頼み、剃髪して僧体となり信雄の陣へ降参した。さらに破線部をみると、秀吉は利家と相談して赦免を決め、成政は秀吉の許へ出仕したという。利家の政治的影響力の大きさを示す内容となっていることが分かる。
阿部一彦氏の分析によれば、同書は『末森記』などを資料として考証を加え、可能なかぎり合理的解釈をする姿勢がみられる(18)という。『末森記』とは、慶長三年(一五九八)から同十二年(一六〇七)の間に成立した、利家馬廻として仕えた岡本慶雲の著になる戦国軍記であり、書写が重ねられて異本も多く、近世以降一般に流布した(19)。その成政降参場面をみてみよう。
引用が長くなってしまったが、①傍線部、秀吉本陣は「呉服山」、②波線部、瀧川雄利・土方雄久という二人の使者、③破線部、成政赦免の是非が利家次第とされた点など、『武家事紀』との類似点は多い。阿部氏の指摘通り、山鹿素行は『末森記』を参照して、呉羽山を本陣とする説を採用したと考えられる。但し、かかる呉羽山説が『末森記』自体によって創作されたものなのか、同書が参考とした先行史料がさらに存在したのか、その点を問わねばならない。
青山克弥氏の研究によれば、『末森記』前半部は、『亜相公御夜話』に直接に依拠しつつ相当巧緻に改変・補足しており、一方で後半部はあまり依拠関係がみられないという(21)。『亜相公御夜話』とは、文禄四年(一五九五)に前田家の小姓となり利家・利長の二代に仕えた村井長明の著作である。同書の成政降参のくだりには「利家様は越中御ふく山ぎはに御先手被為成候由、其時内蔵助殿(佐々成政)御詫言相済、太閤様(羽柴秀吉)へ出仕之時、大納言様(前田利家)御陣所を被罷通候刻、どつと笑候へよし御意にて、笑立候へ共(22)」とみえる。ここでは秀吉本陣は明記されず、むしろ利家が呉羽山に陣取ったとされる。一方で、成政が秀吉本陣へ向かう途中で利家の陣を通った際に嘲笑されたという下りは、前掲[史料③]二重傍線部にみるごとく、『末森記』にも採用されている。よって、岡本慶雲が『末森記』を執筆するにあたり、『亜相公御夜話』を参照したことは事実とみてよいだろう。そのなかで、秀吉本陣を呉羽山と明記するに至ったと推測される。
ともあれ当該伝承の淵源を、藩祖前田利家の創業期を称賛する性格の強い、『末森記』をはじめとする加賀藩初期の歴史書(23)に求めることは、大方の諒解が得られよう。例えば、利家三男の知好が利家に関する物語などを集めたという『国祖遺言』にも「越中五ふく山に太閤様(羽柴秀吉)御人数御陣をとらせられ候時、御本城様(織田信雄)太閤様へ御わび事にて、佐々内蔵助無事御免罷成、九月三日に富山より内蔵介御礼に被罷出候(24)」と見える。つまり、加賀藩初期にはすでに一定の広まりを見せていたのである。だが注意しておきたいのは、白鳥城という具体名そのものが、当初の段階では登場しない点である。その登場はいつか、伝承の定着過程も含めて、章をあらためて検討したい。
第二章 白鳥城秀吉本陣伝承の生成は何時か
山鹿素行著の『武家事紀』は、江戸時代における武士の教養書として広く普及してゆく。しかし前章で言及したように、今石動ないし能登石動山とする説も中央で広まっており(『豊鏡』『豊臣秀吉譜』『絵本太閤記』など)、呉羽山説は、むしろ加賀藩内で生成かつ展開していったと思われるのである。そこでまず、藩政改革を主導した名君として著名な加賀藩第五代藩主前田綱紀の時代(一六五八〜一七二三)に成立した諸記録を確認したい。
延宝三年(一六七五)に河内山与五右衛門昌実が著した『前田創業記』は、利家の生誕から天和年間(一六八一〜八三)までの出来事を漢文筆記する書物である。同書では「秀吉喜悦而、與公(前田利家)胥議軍用、已発金沢屯越中呉福山、(中略)公築砦安寧坊坂上、(中略)九月五日成政祝髪著僧衣、到呉服山拝謁秀吉(25)」とみえ、呉羽山の秀吉本陣での成政降参が明記されている。利家顕彰ではなく筆者が史実と認める内容を淡々と記述した記録といえる同書(26)に、かかる言説が受容されている事実は、藩内での浸透を物語る。
上は、寛文十二年(一六七二)頃から享保年間(一七一六〜三五)にかけて、藩主綱紀が座右に置いて折に触れて書き綴ったと伝わる記録である。傍線部にみえる通り、綱紀治世下の加賀藩では、成政が降参のために赴いた秀吉本陣は呉羽山である、という歴史認識が藩主にも共有されつつあった。
しかしその一方で、加賀藩宰領足軽の山田四郎右衛門が宝永年間(一七〇四〜一〇)に著した『三壷聞書』は少し異なる記述を持つ。
傍線部で、剃髪して僧侶姿となった成政が秀吉と対面した地は石動である、としている。加賀藩の実録物として筆頭に挙げられる同書だが、成政の降参申し入れを受けたのは安養坊山、実際の対面は石動という他に見られない独自の説を採っている。すでに十八世紀初頭には、倶利伽羅峠で成政の降参を受け入れたという史実は忘却され、かといって呉羽山説も完全な定着には至っていなかったようである。
十八世紀半ば以降の展開をみよう。初代利家誕生以来の前田家の歴史について、寛延年間(一七四八〜五〇)に加賀藩士高畠定延が編年集成した『菅君雑録』では「九月五日信雄卿ノ依仰テ成政被助命、秀吉公エ為御礼到于五福山」とみえている。また、文政六年(一八二三)に村井家八代長世が編んだ『村井家譜』にも「秀吉公、佐々成政ヲ退治トシテ御出馬、先尾山ニ御入城有テ、後軍ヲ越中ニ発セラレ、五福山ニ御陣ヲ取ラル時ニ織田信雄公ヨリ成政御免許ヲ被請ニ依テ(29)」とあり、藩士が編んだ著作や由緒書のなかでも既成事実化している。加賀藩の支藩たる富山藩でも、富山藩士野崎伝助が文化十二年(一八一五)に著した『肯搆泉達録』に「成政は降参の願ひ成りしかば、天正十三年九月五日、祝髪緇衣の姿となり、城を出て秀吉公の本陣へ参りけり、(中略)かくて呉福山の本陣に至り、膝行して秀吉公に拝謝せり」とみえ、共通認識となっていた。また、天保九年(一八三八)、十三代藩主斉泰の時に編纂された前田氏系譜の集大成『本藩歴譜』にも次のように見える。
傍線部のごとく、この時期になると、藩士層の著作のみならず、加賀藩通史にも決まって呉羽山説が採用されることとなり、完全な定着をみたといえよう。だが改めて注意すると、やはりここまで白鳥城という固有名詞が未だに登場していないことに気付かされるのである。
白鳥城説の明確な初見は、管見の限り、加賀藩士富田景周が寛政十三年(一八〇一)に完成させた『越登賀三州志』である。同書は、近世越中の代表的な地誌で、それには「天正十三年の秋太閤(秀吉)佐々成政を討たんと、此の土の白鳥峯に本営を布くの時、国祖(前田利家)此の安養坊坂の上に営を取り玉ふ」と記されている。これまで呉羽山という広域的な本陣推定範囲だったものが、同書に至り初めて白鳥峰の上という具体的な輪郭が与えられたのである。このあと、越中地誌の集大成ともいえる『越中史徴』(明治年間成立)も、この白鳥城説を採った(31)。著者の森田柿園は文政六年(一八二三)の生まれで、幕末から明治にかけて、「松雲公採集遺編類纂」や「加能越古文叢」など、加賀藩の事績に関する膨大な著述を行なった人物として知られている。つまり、白鳥城秀吉本陣伝承は、富田景周や森田柿園といった十九世紀に活躍した史家たちのお墨付きを得て、通説化していったと推定できよう。
しかしながら、ここまでの小稿の分析結果を承認すれば、そもそも白鳥城はいったい誰の陣であったのかが問題となる。あえて一案を呈すれば、織田信雄が考えられよう。前田利家が秀吉軍先遣隊一番手として安養坊坂上に陣取っており(32)、それよりも標高の高い白鳥城には利家より上位クラスの武将が入るはずである。そこで、先遣隊の総大将であった織田信雄(33)が候補として浮上する。この点に関して、成政降参の様相を伝える同時代史料を下に掲げる。
傍線部より、秀吉は八月二六日、倶利伽羅峠でこの朱印状を出していることが分かる。さらに波線部からは、同日に成政が織田信雄を頼って、居城である富山城を明け渡して、秀吉本陣へ走り入り赦免されたことが読み取れる。また、越中に在陣中の細川忠興家臣松井康之が、千宗易へ注進した戦況報告によれば、降参する成政の姿態は「墨衣之躰」であったという(35)。のちに秀吉の奉行衆は、「既陸奥守(佐々成政)可被刎首候処、かしらをそり、御先手へ走入候(36)」と述べており、成政は倶利伽羅峠に布陣した秀吉の許へ赴く前に、先に剃髪して僧侶姿で「先手」へ駆け込んだことが分かる。その駈け込み先は、[史料⑦]波線部に「信雄を相頼」とあることから、織田信雄の陣と考えられる。呉羽山に残る成政剃髪伝承と、文献史料から析出される歴史的事実を整合的に理解しようとすれば、信雄が白鳥城に陣を構えた蓋然性は高い。
本章までの検討結果をまとめたい。呉羽山は越中攻軍時の秀吉本営ではなく、大坂への帰途におけるわずか四日間の滞在場所にすぎなかった。その呉羽山を成政が降参した秀吉本陣とする伝承は、『末森記』などの加賀藩初期における歴史叙述が淵源となり、それが山鹿素行著『武家事紀』に採用されて中央に一定の流布をもたらし、また同時に以後の加賀藩関係の諸記録にも大きな影響を及ぼし、十七世紀から十八世紀にかけて次第に藩内で定着していった。その後、富田景周著『越登賀三州志』が秀吉本陣を白鳥城と断定したことが契機となり、今日に至るまでの富山の地域史認識として確立した、という生成過程が素描できよう。かくして白鳥城は、秀吉軍先遣隊総大将織田信雄の陣所から、関白羽柴秀吉自身の本営へと転回を遂げたのである。
むすびにかえて
しかしまだ課題は残されている。なぜ成政が降参した秀吉本陣は呉羽山・白鳥城となったのか、加賀藩初期の歴史書は同説を生成したのか、これである。前田家にとって秀吉越中出陣は、先遣隊一番手という軍事的栄誉をはじめ、その戦功により越中西部三郡(射水郡・婦負郡・砺波郡)を獲得する、のちの加越能三ヶ国支配への大きな布石となる合戦であった。つまり呉羽山は、そのなかで秀吉祝勝の茶会をほかならぬ藩祖前田利家が主催した、吉祥なる場だったことになる。
当該期の時代背景として重要なことは、加賀藩と秀吉との関係性である。もとより、藩都金沢には利長によって豊国社が造営され、「卯辰山王社」という名で幕末まで隠密に秀吉信仰を貫いたことが知られている(37)。初代利家・二代利長は、豊臣五大老として、豊臣秀頼を後見する立場にあった。とりわけ利長は、秀吉から認可された「羽柴肥前守」名乗りを、死ぬまで用いている(38)。また、晩年の利長によって建設された高岡城は、鎮守稲荷社の存在や内郭構造の類似性から、秀吉の聚楽第を模倣したとの見解が提出されている(39)。さらに、利長が創始した高岡御車山祭りは、秀吉十三回忌追善という豊臣祭祀としての側面も持っていたという(40)。このように、秀吉との関係を重視する利家・利長期、そのような政治的かつ思想的環境のなかで、『末森記』などの加賀藩初期の歴史書は叙述されたと想定される。そのなかで、呉羽山をあたかも一貫した秀吉本陣のように叙述する記録が登場していった、そのように結論づけておきたい。藩祖利家の陣である安養坊坂上よりも高い位置にある白鳥城には、江戸時代には小規模大名に没落した織田信雄よりも秀吉が在陣したほうが相応しかったのだろうか。
もとより小稿は、伝承と史実の間隙を整合的に理解しようと努めた、拙い試論にすぎない。ともあれ越中地域史研究の進展の一助ともなれば幸いである。
註
(1)『富山県の地名』(平凡社、一九九四年)の「呉羽山」の項。
(2)「佐々攻め」という従来の呼称は、秀吉越中出陣に秘められた多様な戦略的要素の一面を照射したものにすぎない。詳細は萩原大輔「『佐々攻め』を捉えなおす」(富山市郷土博物館特別展図録『秀吉 越中出陣』、二〇一〇年)、萩原大輔「秀吉越中出陣をめぐる政治過程」(『富山史壇』一六七号、二〇一二年)を参照されたい。
(3) 高岡徹『越中中部における戦国史の展開』(宮越印刷、一九九七年)。萩原大輔「天正年間中期の富山城」(『富山史壇』一六一号、二〇一〇年)。
(4)「四国御発向並越中御動座事」(『続群書類従合戦部』)。
(5)萩原大輔前掲「天正年間中期の富山城」七〜九頁。
(6)『加賀藩史料』天正十三年八月二九日条「利家公御代之覚書」「国祖遺言」。
(7)『富山県の地名』(平凡社、一九九四年)の「呉羽山」の項。
(8)(天正十三年)閏八月四日有馬則頼宛羽柴秀吉朱印状写〔『大日本史料』天正十三年八月二六日条「筑後将士軍談」〕。
(9)高岡徹前掲『越中中部における戦国史の展開』六四〜六九頁。
(10)萩原大輔「関白秀吉越中出陣に関する基礎的考察」(『富山史壇』一六二号、二〇一〇年)七頁では、富山城から呉羽山への動座を閏八月四日と把握しているが、現在では二日と考えている。また八〜十頁で、典拠となる『秀吉事記』における秀吉越中入国以降の記述について、慎重な利用を提言したが、呉羽山動座の該当記述は、同時代史料との整合性から信頼してよいと判断する。
(11)『続群書類従合戦部』。
(12)高岡徹前掲『越中中部における戦国史の展開』六二頁。
(13)『大日本史料』天正十三年八月二六日条「豊鑑」。
(14)『大日本史料』天正十三年八月二六日条参考「豊臣秀吉譜」。
(15)長谷川泰志「羅山と『豊臣秀吉譜』の編纂」(『文教国文学』三八・三九号、一九九八年)一八頁。
(16)『絵本太閤記』(有朋堂文庫)。
(17)『大日本史料』天正十三年八月二六日条「武家事紀」。
(18)阿部一彦「『太閤記』の実録と虚構」(同『太閤記の周辺』和泉書院、一九九七年、初出一九八八年)一四五頁。
(19)久保尚文「佐々成政の二度の東海訪問」(同『山野川湊の中世史』桂書房、二〇〇八年)四三二頁。
(20)日置謙編『前田氏戦記集』(石川県図書館協会)。
(21)青山克弥「『末森記』序説」(同『加賀の文学創造』勉誠出版、二〇〇六年。初出二〇〇〇年)五七頁、六三〜六四頁。
(22)日置謙編『御夜話集上』(石川県図書館協会)。
(23)米原寛「佐々成政の「ザラザラ越え」考」(『富山県立山博物館研究紀要』一四号、二〇〇七年)。
(24)『加賀藩史料』天正十三年八月二九日条「国祖遺言」。
(25)『大日本史料』天正十三年八月二六日条「前田創業記」。
(26)米原寛前掲「佐々成政の「ザラザラ越え」考」。
(27)『加賀藩史料』天正十三年八月二九日条。
(28)『加賀能登郷土図書叢刊』(日置謙校、石川県図書館協会)。
(29)『大日本史料』天正十三年八月二六日条「村井家譜」。
(30)『金沢市史資料編3近世一』。
(31)石川県図書館協会編纂『越中志徴復刻版』(富山新聞社)「呉服山城跡」「白鳥城址」の項。
(32)この点に関する同時代史料は、現在までのところ確認できていないが、加賀藩の諸記録を通覧しても、ほぼ一致している。ゆえに、事実とみなして大過ないのではないか。
(33)萩原大輔前掲「関白秀吉越中出陣に関する基礎的考察」一〜三頁。
(34)『大日本史料』天正十三年八月二六日条「三村文書」。
(35)(天正十三年)閏八月四日松井康之宛千宗易書状〔『大日本史料』天正十三年八月二六日条「松井文書」〕。
(36)(天正十五年)十月十四日安国寺恵瓊・小早川秀包宛増田長盛・石田三成・浅野長吉連署覚書〔『大日本古文書 小早川家文書』五一三号〕。
(37)北川央「豊臣秀吉像と豊国社」(黒田日出男編『肖像画を読む』角川書店、一九九八年)二二一頁。
(38)金龍教英「前田利家利長発給文書について」(『富山史壇』七八号、一九八二年)八頁。
(39)高尾哲史「高岡城と稲荷大明神」(『朱』四九号、二〇〇六年)。古川知明「慶長期富山城内郭の系譜」(『富山史壇』一五三号、二〇〇七年)。
(40)高尾哲史「前田利長と高岡御車山祭」(『国学院大学大学院紀要』三八号、二〇〇六年)。
本稿は二〇一二年に執筆したものである。しかし、電子紀要で公開されない期間が続いたため、拙著『中近世移行期 越中政治史研究』(岩田書院、二〇二三年)にて、論文「呉羽丘陵の白鳥城秀吉本陣伝承」として公表した。したがって、本テーマに関する私見はそちらを参照いただきたい。