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和船の船種名と船体構造―富山県の事例から他地域をみる―

廣瀬直樹(氷見市立博物館)

はじめに

 かつての氷見では、海での漁撈にドブネ、テント、カンコ、テンマ、サンパなど、十二町潟周辺の湿田地帯での農作業にタズルあるいはズッタと呼ばれる木造船が使用されていた。だが、現代の氷見において、どれだけの人がここに挙げた船の種類を示す名称から船のかたちを想像できるだろうか。
 本来こうした船種名は、例えば漁船であれば、同じ地域の漁師同士の間での共通言語であり、その地域で造船を手掛ける船大工と漁師、また船大工同士の間での共通言語だったはずである。だが、昭和50年代以降、漁業の場ではFRP(繊維強化プラスチック)製の船が全盛となり、湿田が姿を消したことで農業の場で船が使われることもなくなった。そのため現代の氷見で、かつての多様な船種名はもはや共通言語ではありえなくなってしまった。
 一方、日本の伝統的な木造船、いわゆる和船の調査研究をしていくうえで、物事を複雑にしているのもまたこの船種名である。
 日本海沿岸であるとか、太平洋沿岸であるとか、さらにはそれらを包含したより広い範囲であるとか、地域をまたいで共通して用いられる船種名がある一方で、ごく狭い範囲でしか用いられない船種名もある。しかも、同じ船種名であっても、地域が違えば同じ船形、同じ構造の船であるとは限らない。同じ名前が指し示す船が他所では違う構造であることもあるし、逆に共通する構造の船が他所では違う名前で呼ばれることもある。
 つまるところ「地域における共通言語」としての船種名が指し示す船のかたちや構造は地域によって異なり、極端には、隣り合う地域ですら通用しないこともあり得る。そのため、船種名そのものは、フィールドを異にする研究者の間での共通言語とはなりにくいのである。
 ただし、地域ごとに船種名とその船体構造、使用方法などを細かく集成し、そうしたデータを基に他地域との比較研究の俎上に載せることで、何らかの傾向を見出すことは可能であろう。
 そこで本稿では、まずは足元を固める意味で、あらためて富山県内の事例を集成して、和船の船種名や船体構造、それにまつわる情報を提示し、そのうえで他地域との比較検討を行いたい。なお、川舟については実物資料が残っておらず、実態が不明な船種名が多いため、海船を中心に考察することとしたい。

1.船種名の研究史

 (1)船種名の集成
 日本の船の船種名を集成したものとして、最初に挙げられるのが、明和3年(1766)刊行の『和漢船用集』全12巻であろう。『和漢船用集』は、大坂で代々船匠を営んだ金澤兼光が著した、近世における船の百科事典である。このうち3巻から7巻では、和漢の船の名称について海船、川船、猟船、軍船に大別し、金澤兼光の衒学的な著述によって古今の船が簡単な挿図とともに網羅されている。ただし、オモキ造りという地域特有の造船技術が発展していた日本海沿岸地域の船については、近世前半期に日本海海運に活躍した北国船や羽賀瀬船、間瀬船といった廻船のほかは、若狭湾のトモブトや現鳥取県湖山池のカンコ、神通川船橋が取り上げられているのみである(1)
 民俗学的な調査成果として船種名の集成が試みられたのが桜田勝徳による「船名集」である。
 昭和28年に創刊された日本民俗学会機関誌『日本民俗学』の第一号から第三号において、桜田による「船名集」が連載された。その序文で桜田は「(前略)しかも伝統的な造船技術は日を追うて影を消して行つている今日であり、もう古い船大工の技術伝承の調査は手おくれかと思つてからでも十年余も経過している」と述べる(桜田1953a-p118)。また、「船名集」に先立って発表された「船の名を集めてみて」(桜田1952)には、「戦時中、漁船の形が船材の規格統一に依って統制をうけることになった時、今のうちに漁船の形を調べねばならぬと思ったこともあった」とある(桜田1980-p244)。そうした伝統的な漁船およびその造船技術の廃絶に対する危機感の中にあって、漁村語彙集の船名編として船の名前を集成しようというのが執筆の動機であったようだ。
 昭和38年には、日本海事史学会機関誌『海事史研究』が創刊され、その創刊号から第七号までの6回にわたって桜田による増補改訂が加えられた「改訂「船名集」(一)~(六)」が連載された。この改訂版では、船名の掲載が五十音順に改められたほか、わずかにあった挿図が削除され、そのかわりに写真が数枚追加されている。その後「改訂船名集」は『桜田勝徳著作集』第3巻(桜田1980)に所収されるが、その際にもわずかだが増補改訂が加えられ、その一方で写真は削除されている。
 改訂の度に書き換えられている序文のうち、『桜田勝徳著作集』に掲載された最終版となる「はしがき」によれば、「改訂船名集」に収められた船名は、文献上の船名などは『和漢船用集』などに譲り、「昭和初期ごろのわが国の海岸や川辺生活の中で活用されていた船の名、もしくはそこで曾て活用されていたことが当時記憶されていたものに、殆ど限っている」という(桜田1980-p147)。
 昭和20年代から30年代に船種名を集成した桜田は、その時点ですでに手遅れであると考えていたようだが、その一方、各地域での和船調査は、すでに木造船そのものが終焉期を迎えつつあった昭和40年代後半以降に盛んになったように見受けられる。
 その頃、各地で博物館や資料館の建設が盛んとなり、資料の蓄積が進んだ。和船についても、単独あるいは漁撈用具等の中の構成要素として、重要有形民俗文化財や都道府県、市町村の指定文化財となるものがあり、地域で使用されてきた和船の把握が進んだ。加えて博物館や資料館等を中心に、和船を対象とする詳細な調査が実施された地域もあった。
 各地域の博物館や資料館や、研究者等によって実施された和船調査の成果は、青森県では『青森県の漁撈用和船』(青森県立郷土館1985)や昆政明「青森県船名集」(昆2014)、秋田県では『秋田県の木造船―秋田県指定有形民俗文化財「県内木造船資料」―』(秋田県教育委員会1995)、新潟県では『船と船大工-湊町新潟を支えた木造和船-』(新潟市歴史博物館2007)などとしてまとめられている。
 富山県においては、平成16年以降、氷見市立博物館および和船建造技術を後世に伝える会が中心となって和船調査と資料収集を実施し、その成果は『氷見の和船』(和船建造技術を後世に伝える会2008)、『とやまの和船』(和船建造技術を後世に伝える会2011)、特別展図録『とやまの船と船大工』(氷見市立博物館2015)など刊行物のほか、登録有形民俗文化財「氷見及び周辺地域の漁撈用具」として結実した。
 また、桜田の「船名集」のような全国レベルの船種名の集成については、和船研究会の宇田川東樹によって、各地の郷土誌、自治体史、上記した各地の調査成果等の各種文献を反映させて網羅する試みが進められている。

(2)桜田勝徳「船の名を集めてみて」における船種名分類
 桜田勝徳は、「船名集」前年発表の「船の名を集めてみて」において、収集した和船の船種名の分類を試みている(桜田1952)。分類方法のひとつは船名の地域的な広がりの広狭であり、もうひとつは船名の名前の付け方である。11種に分類された名前の付け方ををまとめると以下のようになる(桜田1980-p245)。

(1) 主な積み荷の名をつけたもの 石炭船、薪木船など
(2) 漁獲物をその名としているもの イワシ船、カツオ船、サバ船など
(3) 操業する漁業をその名としているもの 釣船、網船、縄船など
(4) 地名をつけたもの 伊勢船、明石船、薩摩型、土佐造りなど
(5) 船の構造・形・造船の仕方から名づけられたもの マルキブネ、ハギブネ、イタツケなど
(6) 船の艤装の仕方から名づけられたもの コモブネ、ヒガキなど
(7) 船の主として活躍する季節を示すもの サツキブネ、アキブネなど
(8) 船の用途を示すもの 山行き舟、磯見舟、トウカイセンなど
(9) 動力船を示すもの チャカ、ポッポセンなど
(10) 無動力船を示すもの 一丁漕ぎ、手漕ぎなど
(11) 乗船する者の属性を示すもの 男舟、女舟、夫婦船、親船、亭主船など

 そしてこれ以外に意味の不明な船名も多いとし、テントウ、チョロ、ベカ、ボウチョウ、サッパ、ズンド、カッコ、カンコ、ソリコ、キンパチ、ニタリ、ヤンノウ、ヨイタを例示する。このうちテントウ、チョロ、カンコは富山県を含む多くの地域に分布する船種名である。またキンパチは、桜田が実地調査した昭和17年頃の富山県朝日町宮崎から新潟県西頚城郡市振で見られた船種名であった。
 和船の船種名を考えていくうえで、やはり大きな問題となるのが、これら「意味不明な船種名」である。だが、現在意味不明ではあったとしても、かつては意味のある名称として機能していた可能性がある。また、たとえ意味がなくとも、その船種名そのものが意味を持ち、いわばその船種を表す固有名詞的に用いられる言葉だったとも考えられる。そこで本稿では、この意味不明の一群を「(12)固有の船種名」として扱う。
 船種名とその船種名が表す船体構造について検討することを主眼とする本稿では、この「(12)固有の船種名」を中心に論を進めることになる(2)

2.富山県における海船の船種名

 富山県内でかつて使用された和船の船種名については、拙稿「富山の和船 ~富山湾沿岸地域とその周辺の海船・川舟~」でその概要を示した(廣瀬2011)。
 近世史料において、漁撈用の船の多くが「猟船」と記述される。だがこれは、今でいえば「漁船」とひとくくりにしているようなもので、船形や構造、地域差、漁法ごとの船の違いなどについての情報は抜け落ちてしまっている。また荷船として、「渡海船」や「航海船」と記述される船がある。これも「猟船」と同じく「(8)船の用途を示すもの」に分類されるが、本来の船種としては、近世後期の海運を担った弁才船に類するものだったと想像される。
 一方、漁師や船大工の間では、各々の船形や構造によって異なる「固有の船種名」が用いられた。富山県内で採集できる漁船の「固有の船種名」は、ドブネ、テント、カンコ、テンマ、サンパ、キンパチの6種とそのバリエーションである。ただし、県内全域でそうした船種名が確認できる訳ではなく、当然時代による違いもある。例えば、富山湾西端の氷見では先に挙げた6種全てが確認できる。だが、漁船としてのテンマは近世にさかのぼらず、サンパは昭和26年頃に導入、キンパチに類するケンパチという船種名は『氷見漁業史』(氷見高校歴史クラブ1959)などでのみ確認される。ドブネ、テント、カンコの3種については近世にさかのぼるもので、おおむね18世紀代以降の史料にはその名が記載される(氷見市立博物館2015)。構造の面から推測すると、日本海側沿岸特有のオモキ造りの構造を持つドブネが古く、瀬戸内海方面から伝播した可能性が高い棚板造りの構造を持つテントとカンコはそれに後続するものと推測される。ただし、厳密にはそれぞれいつ頃までさかのぼり得るか不明であり、さらに現在実物や写真で確認できる船形や構造と史料上のそれが同一のものであるか否かも判断はできない。
 富山県の海船は、横断面の構造のみに着目すると、船底部の左右に刳材オモキを組み込んだオモキ造りと板を曲げ付けて建造する棚板造りに大きく二分される。棚板造りはさらに一枚棚構造(平底)と二枚棚構造(三枚底)に分けられる。また、富山湾周辺の特徴的な構造として、二枚棚構造にオモキを組み込んだものが存在し、本稿では「オモキ造りの二枚棚構造」として扱う(廣瀬2013)。そのほか、氷見の大型船サンパは、下棚が水平に近く、一般的な二枚棚構造とはやや印象が異なる。それらをまとめたのが第1図である。基本的には、富山湾の固有の船種名を持つ6種の船は、これら5通りの横断面のうちいずれかに分類されることになる。以下、6種の船種名について、それぞれの概要をまとめておきたい。

第1図 富山県の漁船横断面分類図


(1)ドブネ
 オモキ造りの構造を持つドブネは、ドウブネともいい、胴船、筒舟、道舩、洞舟、堂船、どう船、ドフ船などと表記する(3)。オモキ造りとは、船底板の左右両端、つまり舷側板の下部に刳材オモキを組み込んだ構造をいい、日本海沿岸地域特有の造船技術とされる。近世から昭和40年代頃までの富山湾で使用されていた多彩な船の中にあって、ドブネはこの地を代表する存在といえるだろう。
 富山湾沿岸では、氷見だけでなく新湊、岩瀬、滑川、魚津など、湾内多くの地域でドブネが記録に残り、それぞれ定置網漁や地曳網漁に用いられた。だが、いずれも実物は現存せず、比較的豊富に資料が残る氷見の定置網用ドブネ以外、船形や構造などは明らかではない。氷見のドブネについては、最末期の昭和30年代のもので全長14~15m、オモキ造りの漁船としては、能登内浦のドブネと並んで最大規模の存在である(写真1)(4)。また、写真でのみ確認できる魚津のドブネは氷見型のドブネとは大きさや船形がやや異なる。
 富山湾でのドブネの初出となるのが、享保16年(1731)の「射水郡浦方猟場猟船浦々格式書上」である(氷見市史編さん委員会2003-p592)。現在の氷見市から射水市にかけて、台網漁の網取りに「筒舟」と「小舟」が用いられたとされ、この「筒舟」がドブネである。また、天明5年(1785)の「越中魚津猟業図絵」には、魚津浦の鰤台網の網取りに「道舩」2艘を要したことが記されている(氷見市立博物館2015⁻p9・50)。
 このほか、文化3年(1806)の放生津町(現、射水市)には、漁船として「筒船」と「半筒船」があったという(新湊の歴史編さん委員会1997-p103)。さらに、文化5年(1808)の「浦方持舟員数書」によれば、現在の富山市周辺域のうち、西岩瀬、四方、練合村、打出村の四村所有の漁船として、40石積の「筒船」、30石積の「小筒船」、25石積の「天道船」の船種名が記載される(富山県1974-p1263)。なお、これら「半筒船」と「小筒船」については、おそらくドブネの小型のものをそう呼んだと推測されるが、こうした呼び分けは民俗語彙としては採集できない(5)
 ドブネないしドウブネという船種名は、富山湾と能登内浦のほかにも加賀以東の日本海沿岸に広く分布する。加賀から能登外浦にかけての地域には地曳網用で別名ベカと呼ばれるドウブネが存在し、新潟県の上越および中越にも地曳網用のドブネがあった。上中越のドブネは、中頸城郡犀浜地域のサイハマドブネと、直江津以西、西頚城郡(西浜)のニシハマドブネに大別され、大型をマカセ、小型をベンケイと称したともいう(文化財保護委員会1962)。これらドブネはいずれもオモキ造りである点が共通し、基本的な船形は似通っているが、船材の木取りや組み方は微妙に異なる。また、一般に地曳網用のドブネは定置網用のものより一回り以上小型で、材も薄い。
 なお、秋田県男鹿半島近辺にはハタハタ漁用のドブネが点在するが、長さ9尋(約13.5m)とやや大型である。この秋田県のドブネは、ドブネ、ドウブネ、ドギャ、ドゲェ、ハコ船、ドンブネ、ドンコ、ガメ船など、地域によって呼び名は様々だったという(秋田県教育委員会1995-p16・17)
 桜田「船の名を集めてみて」では、ドブネは「(1)分布域の最も狭いもの」に分類され、日本海岸のドブネとして新潟県西頚城郡と富山氷見が挙げられている(桜田1980-p247)。実際には上記のように日本海沿岸の加賀から秋田という比較的広い範囲に分布する船種名である。

写真1 ドブネ(氷見)


(2)テント
 テントあるいはテントウという船種名は、全国的には二枚棚構造の海船として一般的な名称である(写真2)。富山県内では氷見や新湊のほか、前項で触れたように富山市の西岩瀬から四方方面でも見られる。漢字では天道、天戸、天登などと表記されるが、氷見をはじめとする近世の文献資料では平仮名や片仮名に次いで天道という表記が多い。富山湾でのテントの初出となるのが、明和7年(1770)の「引網旧記附録」で、定置網漁の運搬船として用いられた「てんと」の名が確認できる(氷見市立博物館1995⁻p41)。
 二枚棚構造の船としては比較的大型のものを指す船種名であるが、第1図に「オモキ造りの二枚棚構造」として示したように、能登半島内浦から富山湾の入善町にかけての地域に分布する同種の船は、底板の左右に刳材オモキを組み込むこの地域特有の構造を持つ。ただしこの地域の中でも、新湊のテントだけはオモキがないのが一般的である(廣瀬2011・2013)。
 水橋から入善にかけての富山湾岸東部の地域では、テント型の船に固有の船種名は確認できず、もっぱら猟船(水橋)、オアミセン(滑川)、アンブネ(網船、入善)、エンバブネ(エビ場船、入善)など、漁具や漁場などの名を関する船種名が用いられていた。同じくテント型の船と考えられるものにカワサキ(川崎船)があり、魚津と黒部でその名が見られる。カワサキは、両地域で主に北海道方面への出漁に用いられた(廣瀬2011)。
 桜田「船名集」および「改訂船名集」では、「テントウ」の項で「近世から近代にかけて最もひろく沿岸に普及した和船名の一である」として各地の事例が報告されている(桜田1980-p196)。『和漢船用集』では、巻第五「江湖川船之部」に「傳道舟」の項がある。「傳通」とも書くというが、金澤兼光は「天道」は誤りであるとする。

写真2 テント(氷見)


(3)カンコ
 カンコも全国的に広く分布する船種名である。富山県内では主に平底の船を指し、氷見や伏木、新湊のほか、滑川、魚津、朝日町で確認できる。実物資料が確認されるのは氷見と朝日町だが、同じカンコという船種名の平底の船であっても船形や構造はかなり異なる(写真3・4)。
 氷見のカンコは、『近世越中灘浦臺網漁業史』にはドブネに次いで古い船と書かれる(山口1939-p161)(6)。富山湾でのカンコの初出となるのが、享保14年(1729)の「引網旧記附録」で、「可んこ舟」の名が確認できる(氷見市立博物館1995⁻p20)(7)
 近世末頃の氷見では、カンコは主に沖の漁船と陸との間を行き来するハシケ、つまりは物資の運搬船として用いられた。その後、おそらく明治中頃以降には、沿岸の地曳網漁や刺網漁、釣漁、磯見漁等に幅広く用いられるようになったと考えられる。特に地曳網漁では、平底のカンコは浜に曳き上げやすく重宝された。氷見のカンコには、チョロガンコや単にチョロと呼ばれる全長4.5mほどの小型のものから、春先の鰯網の網取り船として定置網漁に使われた全長8~9mの大型のカンコまで各種あった。
 氷見市地蔵町では、俗に「蔵町カンコ」と呼ばれる大型でエンジンを積んだカンコ型動力船で回漕業が営まれた。この「蔵町カンコ」は、氷見と能登、あるいは氷見と伏木港間を行き来する荷船や、定置網の網錘に用いる砂利の運搬船として活躍した(氷見市立博物館2015・氷見百年史編集委員会1972・和船建造技術を後世に伝える会2016)。
 また、万延年間(1860~1861)頃の『折橋家文書』「諸役散小物成の由来など書上帳」には、猟船、沖網通テント、磯領通、領通カンコなど、氷見をはじめとする射水郡各地の船種が記載される。そのうち磯領通船について、「船形テント之仕立方之小キ分也 伏木ニ而カンコト云」とある(氷見市史編さん委員会1998-p799)。この書き方からすると、他地域の領通カンコと異なり、伏木のカンコだけはテントの小型のものを指すものだった可能性がある。一方、伏木の国分浜で近年まで刺網漁やタコツボ漁に使用された船は氷見のカンコと同型で、国分浜の漁師は単にフネと呼んだ(和船建造技術を後世に伝える会2016-p57)。
 朝日町でも、ワカメ採りやオイボ釣り、イカ釣り、タラの延縄漁に使用される平底の船がカンコブネと呼ばれた。ただし、地区によって呼び名が変わり、境ではコロブネ、ゴロタブネ、宮崎ではカンコブネ、コンコロブネなどの船種名が用いられた(富山県1973-p295)。この朝日町のカンコブネは、棚板の船首側に立板が別材で挿入され、水押の先端がに四角い突起が付くなど、他の棚板造りの船とは一線を画した構造が特徴である。
 さて、桜田「船の名を集めてみて」では、「(4)太平洋・日本海の両岸に亘るもの」に分類され、佐渡、富山滑川(8)、同氷見、兵庫但馬、島根八束、同簛川、隠岐、壱岐、筑後川岸、大分日田、熊本日奈久が挙げられている。また『和漢船用集』から鳥取湖山池のカンコを紹介しつつ、鳥取県沿岸にもあるのではないかと予想を立てている(9)。さらに船のイケマの名として、愛知、三重、和歌山の例を紹介している(桜田1980-p249)。
 桜田が調査した地域以外にも、徳島県鳴門市の堂浦にカンコ船があり、これも平底(一枚棚構造)の海船である(瀬戸内海歴史民俗資料館2021)。一方、佐渡島にもカンコと呼ばれる海船があるが、こちらは三枚底(二枚棚構造)の船である(両津市郷土博物館1997⁻p110・111)。
 なお、文献資料のうえでカンコは平仮名か片仮名で表記し、漢字はない。『和漢船用集』でも金澤兼光は「カンコ 字未考」とし「カンコと云は古語、小舟のことを云者なるへし。今も四國の方にては、小漁船を呼てカンコ舟と云」と記す。
 カンコによく似た船種名としてカッコがある。桜田「船の名前を集めてみて」ではドブネなど「(1)分布域の最も狭いもの」と比して「(2)(1)よりもやや分布が広いもの」に分類され、岩手下閉伊、同気仙、宮城十五浜、阿武隈川口を挙げる(桜田1980-p247)。「船名集」と「改訂船名集」ではカッコブネとして立項され、三陸沿岸に広く分布していた「刳舟ようのもの」や、刳舟からカッコの名を受け継いだ平底や準構造船形式の船が紹介されている(桜田1980-p165)
 また、津軽海峡周辺には刳材と板材を接ぎ合わせて建造するムダマハギ構造の船が分布する(10)。このムダマハギにもカッコの名を持つものがあり、青森県八戸周辺と六ケ所村泊にそれぞれ構造の異なるムダマハギのカッコが分布する(青森県立郷土館1985)。
 このように、カンコが日本海沿岸および太平洋沿岸南西部に分布するのに対し、カッコは下北半島東岸以南、三陸海岸一帯に分布する船種名である。カンコは平底を中心とする一方で、カッコは刳舟形式のものなど様々であり、前述のようにムダマハギ構造の船も含まれる。

写真3 カンコ(氷見)


写真4 カンコブネ(朝日町)


(4)テンマ
 テンマは三枚底(二枚棚構造)の小型船で、弁才船にハシケ)として載せられた伝馬船から派生し、後に漁船として用いられるようになったものと推測される。全国各地にテンマと呼ばれる船があるが、船形は微妙に異なる。
 小型船の代名詞ともいえるテンマだが、『和漢船用集』、「船名集」、「改訂船名集」いずれにも立項されていない。一方で、『和漢船用集』巻第十「船處名之部」の「開口」の項に、テンマに関する記述がある。それによれば、弁才船など荷船の「表の開の口」のことを「傳間込」といい、「傳間」すなわち伝馬船を引き込むところだという。この記述からみても、金澤兼光の時代、弁才船に搭載されるハシケのことをテンマと称したのは間違いないのだろう。あわせて兼光は「昔は傳間、又は小船をカンコと云しと見へたり」と記し、ここでもカンコ小舟の古語説を唱えている。
 富山県では、氷見や岩瀬でテンマの名を聞くことができる。ただ、近世から明治時代の文献資料には、漁船としてのテンマは出てこない。元来ハシケや荷船だったテンマが漁船として使われるようになるのは、かなり新しい時代のことだったと推測される。なお、テンマは漢字で伝馬と書くのが一般的だが、氷見の船大工は板図に「天マ」と略して書くこともある。
 氷見のテンマは全長6m以下、胴が張り、下棚が寝た平底気味の船形が特徴であ(写真5)。主に定置網漁の網まわりの作業船として用いられたが、後にはカンコに代わり小商売の漁師にも用いられるようになった。また氷見のテンマの船形で、6m以上の大型船になるとテンマとは呼ばず、サンパと呼ばれた。
 昭和20年代から30年代には、船首が高く波切りの良い船形を持つ能登外浦型のテンマが氷見に持ち込まれ、磯漁や刺網漁に用いられるようになった。こちらはテントを小型化し、オモキを省いたような船形が特徴で、能登テンマや軽量テンマと呼ばれ(写真6)。平底のフネしかなかった伏木国分浜でも、昭和40年代頃に石川県志賀町出身の漁師が出身地から能登外浦型のテンマを持ち込んで使用し、従来のフネに対しテンマセンと呼ばれた(廣瀬2011)。

写真5 氷見型テンマ(氷見)


写真6 能登型テンマ(石川県志賀町)


(5)サンパ
 サンパは、富山湾では氷見、新湊、岩瀬で確認できる船種名である。氷見のサンパは二枚棚構造の大型船で、氷見型のテンマを大型化した船形を持つ。同じく二枚棚構造の大型船であるテントに比べて胴が張り、水平気味に接ぎ付けられた下棚が特徴である。船尾側の船底板左右にキリモモと呼ばれる刳材が組み込まれるが、オモキはない。
 氷見でサンパが導入されたのは、昭和26年(1951)のことである。この年、氷見四漁業協同組合定置部が新たに定置網漁に参入するのにあたって、能登灘浦で多く使われていたサンパが導入されたという(11)。そのサンパは全長15mの大きなもので、定置網漁の網取り用に4艘が建造された。その他の漁法でもサンパが使用される例もあり、『阿尾伝承誌』によると、3人ないし4人乗りのサンパが延縄漁やイカ釣り漁に使用されたほか、定置網漁でも春の鰯網ではイワシ買いや運搬、賃積みに5尋ないし6尋(約7.5~9m)の小型のサンパが使用されたという(阿尾地区高令者生きがい活動推進協議会1983-p51)。また、氷見市地蔵町の運搬船「蔵町カンコ」の末期には、大型のサンパにエンジンを積んだものが使用されたという(廣瀬2020)。こうした状況からみて、サンパは氷見ではごく新しい船種であると推測され、当然近世の文献資料などでもその名を確認することはできない。
 さて、サンパは、富山県のほか、新潟県や福井県をはじめ日本海沿岸各地に分布する。だが、富山湾のテントに近い船形の船をサンパと呼ぶ地域もあるなど、サンパという名称が共通するのみでその船形や構造は地域によって様々である。例えば新潟県佐渡にも三枚底(二枚棚構造)の大型船サンパがあるが、佐渡ではテントの船形で大型の船をサンパと称し、テントとサンパの呼び分けは大きさの違いにすぎない(両津市郷土博物館1997⁻p110・112)。そのため、船形や構造が記録に残っていない新湊と岩瀬のサンパについても、氷見のサンパと同じなのか違うのかは不明といわざるを得ないのである。
 なお、太平洋側の三陸沿岸には漁船にサッパの名称があり、利根川流域では川舟をサッパと呼ぶ。さらに中国の沿岸で使用される小型のジャンク船はサンパンと称する。サンパ、サッパ、サンパンと同系統の船名が広く分布するものの、少なくとも近現代においてはそれらが指し示す船に共通点は見出せない。
 桜田「船の名を集めてみて」では、サンパは「(4)太平洋・日本海の両岸に亘るもの」に分類され、新潟粟島、同出雲崎、同寺泊、福井敦賀、島根八束、同簛川、隠岐、富士川、馬入川が挙げられている(桜田1980-p249)。これに加えて、富山県にもあるのは前述した通りである。一方、サッパは「(3)更に広いもの」として太平洋岸に広く分布するものとされている(桜田1980-p248)。

写真7 サンパ(氷見)


(6)キンパチ
 先述したように、キンパチは桜田が実地調査した昭和17年頃には富山県朝日町の宮崎浦から新潟県西頚城郡市振村で見られた船であった。「船名集」と「改訂船名集」では「キンパチブネ」として立項され、市振で使用されたキンパチも宮崎浦の船大工が建造したもので、長さ3間3尺(約6.3m)の五枚板船であると記される(12)。また、市振から遠くない糸魚川周辺にはキンパという船があるといい、「改訂船名集」ではキンパチが糸魚川周辺まで普及していたのではないかと推測している(桜田1980⁻p170)。なお「船の名前を集めてみて」では、キンパとキンパチを合わせて「(1)分布域の最も狭いもの」に分類している(桜田1980-p247)。
 現存する朝日町宮崎のキンパチは、キンパツともいい、二枚棚構造の細身かつ小型の船である。宮崎ではイカ釣りや延縄漁、ワカメ採りなどに用いられたほか、北海道や太平洋沿岸での出稼ぎ漁にも使用された。また、宮崎のキンパチには標準的な船型のものと、より速度が出るように船首部が改良されたカイゾウセン(改造船)の2種類があった(写真8)。現在はカイゾウセンだけが現存し、標準的なキンパチは図面のみでしか確認できない(廣瀬2011)。
 文献資料のうえでは主に「金八」と表記される漁船が、水橋や滑川、黒部で使用されたことが知られる(13)。水橋において、「金八」は大型の「猟船」に対して小型の船を指すと推察される。安政5年(1858)には、水橋川の仮舟橋とするために滑川浦から「金八」が徴用されている。この「金八」は5尋(約7.5m)余りと、漁船としてはやや大型の船だった。近代以降の滑川では、この大きさの船はオモキ造りの二枚棚構造の船となることから、文献上の「金八」と朝日町宮崎のキンパチは違う構造の船を指す可能性がある(廣瀬2011)。
 氷見でもキンパチに類する船種名が記録されているが、その実態は不明であるといわざるを得ない。『阿尾伝承誌』にはサンパを「キンパツ」ともいったとの記述がある(阿尾地区高令者生きがい活動推進協議会1983-p50)。ところが『氷見漁業史』にはテント型の小型船として「ケンパチ」の名が挙がる(氷見高校歴史クラブ1959-p127・128)。また、氷見の船大工から聞き取りをしても、キンパチもケンパチもほとんど聞いたことがないといい、能登外浦型のテンマに似た船ではないかとか、朝日町に出稼ぎに出ていた漁師が持ち帰った船であるとか、複数の異なる証言が得られる。氷見の船大工にとってあまりなじみがない名前だったことは間違いなかろう(廣瀬2011)。あるいは、船大工側ではなく、使用者である漁師の側でのみ、そうした船種名が使われていたのかもしれない。

写真8 カイゾウセン(朝日町)

3.船種名についての問題点

 前章では、富山県における海船の船種名について紹介した。先述したように富山湾で使用された海船は、おおむね6種の船種名に分類することができる。だが、そこにはいくつかの留意すべき問題点が存在する。

(1)船種名と船形の歴史的継続性について
 ひとつには、船の歴史の中で、過去その船種名が指し示していた船形と、現代に伝承されてきた船種名と船形や構造が同一のものであるか否かである。
 この地域において、近世以前の船に関する図像資料は限られており、その検証は容易ではない。ドブネに関しては天保9年(1838)の「能登国採魚図絵」に、能登で定置網漁の網取りに用いられる「胴舟」と、補助作業に用いられる小型の「台舟」が絵で紹介されている(伊藤ほか1995)。これにより天保年間の能登で用いられていたドブネが、現存するドブネとほぼ同じ船形であり、かつては用途によって大小2種類あったことが明らかとなる(14)。また、天明5年(1785)の「越中魚津猟業図絵」には魚津浦で船曳網漁や刺網漁、釣漁に用いられた船として二枚棚構造のテント型の船と、水押材がない別系統の船の2種類が描かれている。ただし「越中魚津猟業図絵」にはドブネを指す「道舩」という船種名のほかは「猟舩」や「舟」としか書かれていない。そのため、絵図に描かれた2種の船それぞれの船種名については不明であり、唯一船種名が挙がる「道舩」については絵図に描かれていない。
 こうした状況のため、現時点では現存する船と、せいぜい明治末頃以降の写真資料や図面等とを船種名とを照らし合わせるしかない。カンコの項で紹介したように、万延年間の磯領通船はテントの小型のものであるといい、その一文だけを読むなら磯領通船はテンマに類する船を想像してしまうが、伏木ではそれをカンコと呼ぶという。つまり、文献資料でカンコと書かれていても現存資料と同じ平底の船とは限らず、また逆に、今の目で見てテンマだったとしても、それがかつてはカンコと呼ばれていた可能性を考慮しなければならないということになる。そもそも当時のテント自体が二枚棚構造ないしオモキ造りの二枚棚構造だったのかどうかについても議論が必要であろう。
 このように、文献資料に表れる船種名について、民俗例や現存船の船種名から即断することはできないのが実情である。

(2)船種名と船形の関係性について
 もうひとつは、船種名と船形、構造とが一対一の関係性にあるか否かである。前項は時代による船種名と船形や構造との関係性の変遷についての問題であったが、本項は地域による船種名と船形、構造等の違いについてである。
 富山湾という狭い地域においてさえ、隣の浦に行くと船の形や構造が異なるということがあり得る。氷見のカンコと朝日町のカンコブネは、平底という構造は共通し、船尾まわりの構造は似た雰囲気を持つが、船首の構造は全く異なる。富山湾におけるカンコという船種名を、一枚棚構造、平底の船とでくくることは可能だが、細部の差異は要素から切り落とされてしまう。前述したように伏木のカンコがテントの小型のものであるという記述もあり、氷見や朝日町以外の地域の文献資料にカンコとあったからといって、それが平底の船なのかどうか判断することとはできない。
 テンマについては、昭和20年代以降の氷見では従来の氷見型テンマと能登外浦型のテンマが併存していた。そのため、氷見でテンマといった場合、船形と構造が異なる2種双方を指すことになる。また、県東部の文献資料で確認できる「金八」について、現存するキンパチは朝日町の、それも船首が改良されたカイゾウセンだけである。現存するカイゾウセンだけを見て近世の「金八」を想像する訳にはいかない。現代の我々にはキンパチという船種名の語源も意味もわからないが、近世には何らかの意味があり、県東部で共通する船形や構造を指し示していた可能性がある。そしてその意味はすでに失われてしまっているのである。

(3)固有の船種名がない地域について
 富山湾沿岸の6種の船のいずれかに分類される船があっても、固有の船種名が全く記録されていない地域も多い。先述したように氷見と同じく平底のカンコが使用されていた伏木国分浜では、そのカンコのことを単にフネとしか呼ばない。国分浜では、昭和40年代頃に石川県志賀町から能登外浦型のテンマが導入された事例があったが、それまでは平底の船一種類しかなかったという。つまり、国分浜の漁師はそもそも船を船種名で呼び分ける必要がなく、そのためにフネという呼称だけが伝承されてきたものと考えられる。
 テント型の漁船が存在するにも関わらず、テントという船種名が記録されていない水橋から入善にかけての富山湾岸東部の地域についても同じことがいえる。漁法や漁場、対象となる漁獲物によって船の大小の差異はありつつも、同じテント型の船だけが使用されたため、アンブネ(網船)やエンバブネ(エビ場船)といった呼び分けだけで、そもそものその船の船種名については必要とされなかったのだろう。
 一方、船大工や漁師にとって、複数種の船を船種名で呼び分けることに意味があったとしても、その船について記録する側に呼び分ける意味がない、あるいは船種名に興味がないということもあり得る。近世の文献資料の多くで「猟船」としか記載されないのは、おそらく個別の船種名を記録することに意味がなかったか、記録者がそこに意味を見出していなかったためではないだろうか。

4.三陸方面和船調査について

 今回、富山湾沿岸と比較検討を行うため、東北太平洋側、三陸沿岸の和船について調査を実施した。三陸沿岸にはカッコやサッパという船種名が存在し、かねてよりカンコやサンパという船種名との関連性が指摘されていたためである。調査対象としては、宮城県南三陸町と岩手県大船渡市および同陸前高田市を選んだ。
 南三陸町では、カナオレカッコの調査を実施した。カナオレカッコは、南三陸町の旧歌津町で磯見漁に使用された船で、船底板の左右にカナオレと称する刳材を組み込む。カナオレに着目すれば、日本海沿岸のオモキ造りにも似た構造である。単にカッコと呼ぶほか、カッコブネ、カッコウブネともいい、漢字では「合木船」の字があてられる。またその地域で用いられる他の種類のカッコと区別してカナオレカッコとも呼ばれる。昭和30年代頃まで建造されていたが、小回りが利かず、建造費がかさむためにサッパ船(早波船)に取って代わられたという(歌津町教育委員会1999・出口2001)。
 大船渡市では、大船渡市立博物館に収蔵されている「大船渡のまるた」の調査を実施した。2艘現存し、ヒバ製の単材丸木舟が重要有形民俗文化財、スギ製で左右の刳材を合わせた複材丸木舟が岩手県指定有形民俗文化財に指定されている。これらはアワビやノリ、ワカメの採取に用いられた(出口2001)。大船渡市では、門之浜漁港近くに置かれたおそらくカッコの一種と考えられる平底の木造船についても略測を行った。
 陸前高田市では、陸前高田市立博物館に収蔵されているカッコ船を実見した。これは小漁(沿岸漁業)に使用された細身で平底の木造船で、前述した大船渡市門之浜漁港の木造船ともよく似た船形、構造を持つ。

写真9 大船渡市門之浜漁港の木造船


第2図 大船渡市門之浜漁港の木造船断面略測図


 興味深いのが大船渡におけるカッコという言葉の扱いである。『大船渡市史 民俗編』によれば、「磯舟を普通「かっこ」と呼ぶが、使用目的、構造、制作場所によって種々の呼び方がある」として、「大船渡のマルタ(ホリキかっこ)」「海苔取りかっこ」「チョッキかっこ」「カナオレかっこ」「平かっこ」「棚付かっこ」以上6種のカッコを示している(大船渡市史編集委員会1980⁻p160~165)。
 ホリキカッコは先述した「大船渡のまるた」の別称であり、単材ないし複材の丸木舟を指す。またカナオレカッコは南三陸町に現存するものと同じくカナオレという刳材を組み込んだ構造の船であろう(15)。一方、平カッコは一枚棚構造(平底)、棚付カッコは二枚棚構造ないし三枚棚構造(三階造り)と推測される記述がある。また、「かっこ舟」のやや大きなものとして「だんべ」があり、これは二枚棚構造として断面略測図が描かれている(大船渡市史編集委員会1980⁻p162)。なお、こうした記述から考えると、大船渡市門之浜漁港に置かれた木造船は、当地で平カッコと呼ばれる船と推測される。
 このように、大船渡ではカッコという言葉が固有の船を示す船種名ではなく、船そのものを指す総称として用いられていることがわかる。つまり個別の船を指す船種名とは階層が異なり、一般名詞としての船を表すのがカッコという言葉であると考えられる。
 『和漢船用集』は「カンコと云は古語、小舟のことを云者なるへし」とするが、大船渡におけるカッコという言葉は、この『和漢船用集』がいうカンコの扱いに近い。金澤兼光は「今も四國の方にては、小漁船を呼てカンコ舟と云」と記すが、例えば鳥取県においても、カンコという名称が木造の小舟全般を指す総称として用いられている可能性が高い(16)
 少なくとも近現代の富山湾ではカンコという言葉そのものが平底の船を指す船種名として機能しているが、大船渡ではカッコが船そのものを指し、ホリキカッコやカナオレカッコ、平カッコのように構造や船形を指す言葉を加えて初めて船種名として機能する。こうした事例の存在を考慮すると、各地で収集されている船種名について、どの階層に属するのかを十分に検討してやる必要があるのではないだろうか。

5.まとめ ~和船の標準名はあり得るか~

 ここまで、和船の船種名について富山湾の海船の事例を紹介するとともに、船種名に関する問題点を列挙した。あわせて三陸方面での実地調査の成果を踏まえて、和船の船種名の階層について指摘した。
 さて、民具研究においては、各地で用いられ、各地で様々に呼び表されてきた民具の標準名ないし共通名を設定するという試みが行われている(神奈川大学国際常民文化研究機構2014・2015)。最初に触れたように、和船研究においての共通言語とはなりにくい船種名について、標準名や共通名を設定することは可能だろうか。
 カンコを例にすると、富山湾ではおおむね平底の船を指す船種名としてカンコの名が用いられており、徳島県鳴門市堂浦など他地域でもカンコは平底の船を指す。一方で、富山からもさほど遠くない新潟県の佐渡では、三枚底の船にカンコの名称があてられており、富山湾でも幕末の伏木ではテントの小型の船としてカンコの名が挙がる。全国的な傾向から、単純にカンコを平底の船の標準名としてしまうことの問題点がそこにはある。また、朝日町のカンコブネの持つ他地域の和船にはない特異な船首構造についても、平底というだけでくくると要素として削ぎ落とされてしまう。さらにカンコに類するカッコという船種名が、三陸大船渡では船そのものと置換可能な用語として用いられていたように、各地におけるその船種名の階層を細かく見ていくことも必要となる。
 近世以降、海船や川舟として全国に広く分布する船種名であるというテントについてはどうだろうか。海船と川舟では大きく姿を違える可能性が高いが、海船では全国的にみて二枚棚構造の大型船を指す船種名である。だが、テントを二枚棚構造の大型船の標準名としてしまうと、新湊を除く富山湾沿岸のテントの特徴であるオモキの存在は切り捨てられてしまう。また、テント型の船でありながらテントという船種名が伝わっていない富山湾岸東部における同種の船を、テントと呼んでしまって良いのかどうかという問題が生じる。
 一方で、研究者あるいは博物館、文化財保護の立場として、もうすでにほとんど標準名として扱ってしまっている船種名もある。それがドブネである。本来、ドブネ、ドウブネと表記、発音には揺らぎがあり、加賀ではベカ、上中越ではマカセやベンケイ、秋田ではドギャ、ドゲェ、ハコ船、ドンブネ、ドンコ、ガメ船と、ドブネ以外にも多様に呼ばれる。そうした中で、日本海沿岸のオモキ造りの漁船の標準名としてはドブネの名が定着している感がある。これは上中越と能登のドブネが「ドブネ(どぶね)」の名で重要有形民俗文化財に指定されていることも一因であろう。
 また若狭湾には、ドブネと同じオモキ造りで、船首が細く船尾が太い船形を持つトモブトと呼ばれる船が存在する。厳密には若狭湾内でもトモブトのほかトモウチ、トノブト、マルキと地域によって呼び名は様々であるにも関わらず、トモブトという船種名がほとんど標準名として通用している。これは「艫(船尾)が太い」という船形と船種名とが結びつくからでもあるだろう。
 これらドブネやトモブトなどの例にみるように、特徴的な構造や船形を持ち、たとえ地方名のばらつきはあったとしても、その船種を代表できる船種名が広く通用していた場合には、標準名の設定ということもあり得るものだろう。ただし、これは若狭湾以東の日本海沿岸とか、若狭湾内とか、分布地域が限られる船に関することであって、カンコやテントなど全国広域に分布する船種名については、標準名として船形や構造と対応させることはやはり難しいものといわえざるを得ない。

おわりに

 以上、和船の船種名について述べてきたが、こうした議論を行うためには、日本全国各地域で同水準の船種名の集成を行い、同様に船形や船体構造について把握することが必要不可欠である。だが、昭和50年代以降、各地の和船はFRP製の船に取って代わられ、そうした中で木造の和船は姿を消し、かつては船形や構造と深く結びついていたはずの船種名もその意味が失われてしまった。
 今回の調査では三陸方面の調査を行い、現地で保存されている実物資料を観察して富山湾の船との比較検討を行うことができた。だがそれも、実物資料と、その船にまつわる船種名や用途をはじめとする情報が残っていてこそである。
 本稿においても、当初主題とした船種名と、船形や構造との比較という点ではいささか片手落ちといわざるを得ない。すでに遅きに失した感はあるが、引き続き各地に残る船種名を収集、集成し、現存船と照らし合わせていくことが重要と考えている。
 なお、本研究は令和5年度富山県美術館・博物館学芸員等研修助成を受けて行った。末尾ではあるが、資料の閲覧、調査にご配慮いただいた南三陸町教育委員会、大船渡市立博物館、陸前高田市立博物館の各担当者の皆様と、富山県博物館協会の関係者の皆様に感謝申し上げる。

(1)そもそも「ヲモキ造り」(オモキ造り)は、金澤兼光による北国船の解説中に見ることができる用語である。また、オモキ造りの漁船の中で『和漢船用集』に唯一取り上げられたのが若狭湾のトモブトだが、挿図に描かれた船の船形はトモブトというよりドブネに近いようにも見受けられる。
(2)船体構造を検討するとすれば「(5)船の構造・形・造船の仕方から名づけられたもの」を欠かすことはできないが、実際のところ富山県の海船でこの(5)に該当する例は少ない。数少ない例としては、安政5年(1858)に外国奉行の海岸巡見のため水橋川に仮舟橋が設置された際、滑川から徴発された船の中に「丸木舟」の名が挙がる(滑川市編さん委員会1985-p164)。刳る技術が用いられた船と推測されるが詳細は不明である。
(3)胴船の「胴」の代わりに舟編に「同」と書く「ドウ」も多用される。また「フネ」については「船」「舟」「舩」と、漢字のゆらぎがある。本稿では特に統一せず、引用元に準ずる。
(4)氷見のドブネは幕末期には全長12~13.5m程とされ、昭和20年代後半には新造のほか、既存船の改造などによって大型化が進み、14~15mが一般的となった(氷見市地域回想法事業実行委員会・氷見市立博物館2019-p17)。なお、能登内浦のドブネは、大正期以前は5間4尺(約10.2m)が普通で、昭和10年代以降大型化したとされる。また、文化9年(1812)の「能州宇出津鯨猟図絵」などによれば、当時のドブネには全長6尋4尺(約10.2m)で網取り用の「筒船」と全長4間(約7.2m)で台浮子に控える「台船」の大小2種類があったという(四柳1981⁻p327)。
(5)前掲(4)で紹介したように、能登内浦のドブネも大小あり、小型の方を「台船」と呼び分けている。近世の「半筒船」と「小筒船」が、能登内浦における「台船」的な存在だった可能性もあるが、詳細は不明である。
(6)桜田は、「船名集」の中で『近世越中灘浦臺網漁業史』を引き、カンコのことを「ドブネよりも古い漁船」とするが、これは明らかな間違いである(桜田1953a-p132)。これは後の「改訂船名集」でも修正されていない。
(7)ただし、これは文化14年(1817)に書き写して取りまとめられたものであり、それ以前の編纂になる『発端より天明年中までの引網旧記幷覚書』の同じ件に関する記述には「舟」としか書かれていない。そのため、この「可んこ」という船種名は書写の際に改変されたものである可能性がある(氷見市立博物館1994-p8)。
(8)滑川のカンコは、川の砂礫を運ぶヒラタ舟のことを指すという(桜田1980⁻p168)。
(9)実際、『新鳥取県史 民俗2 民具編』によれば、湖山池の湖山カンコのほか、磯見漁用の磯見ガンコ(伏野ガンコ)、中海で手繰り網漁や海草刈りに用いられたカンコが存在するという(福代2019-p142~145)。
(10)ムダマハギは、船底部に刳材ムダマを組み込む構造の船をいう。船底板の左右両端に刳材オモキを組み込むオモキ造りとはまた異なる形で刳材を船体の基本に据えた構造である。
(11)能登灘浦にあたる石川県七尾市庵町では、昭和38年に「従来の非能率的な胴舟を全て廃船とし、軽快で容積も大きい新型の舟に替えた」といい(中野1996-p344)、能登灘浦でもサンパが広く普及していくのは昭和38年以降だった可能性がある。
(12)「船名集」、「改訂船名集」には市振のキンパチはコンコロともいうとあるが、宮崎ではコンコロはカンコブネの別名のひとつである(富山県1973-p295)。
(13)『黒部市誌』では「キン鉢(小舟)」と表記される(黒部市誌編纂委員会1964⁻p562)。
(14)線図で書かれているため、詳細な木取りやオモキの様子などは不明だが、船形そのものは現存する能登型ドブネとほぼ同一である。なお、能登型ドブネと氷見型ドブネは、船形は共通するもののオモキや船首材の木取りが異なるが、「能登国採魚図絵」ではその相違点については読み取れない。
(15)カナオレカッコについて、『大船渡市史 民俗編』の書き方はあいまいで、「チョッキかっこ」の説明として「三陸町沿岸では「カナオレかっこ」と呼んでいる」とある(大船渡市史編集委員会1980-p161)。そのため、三陸町(現、大船渡市)沿岸の「カナオレかっこ」と、荒浜で使用されると別項で紹介される「カナオレかっこ」とは違う船である可能性があり、さらに宮城県南三陸町のカナオレカッコとの関係性も不明である。
(16)鳥取県には、湖沼の木造船として湖山ガンコ、伏野ガンコ(磯見ガンコ)、中海のカンコがあるが、それぞれ船形も構造も異なる(福代2019⁻p142~145)。

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和船建造技術を後世に伝える会 2008 『氷見の和船 和船建造技術を後世に伝える会調査報告書Ⅱ』
和船建造技術を後世に伝える会 2011 『とやまの和船 和船建造技術を後世に伝える会調査報告書Ⅲ』
和船建造技術を後世に伝える会 2014 『富山湾の漁撈用具 和船建造技術を後世に伝える会調査報告書Ⅳ』
和船建造技術を後世に伝える会 2016 『とやまの海と船 和船建造技術を後世に伝える会調査報告書Ⅴ』