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日本海沿岸地域における船板材の接合技術 ―オモキ造りに付随する接合技術の比較研究―
廣瀬直樹(氷見市立博物館)
はじめに
いわゆる和船とは、日本の伝統的な造船技術で建造された木造船をいう。だが、その造船技術の細部は時代によって、地域によって違いを見せる。例えば、ここ富山県を含む本州日本海沿岸の広い地域では、オモキ造りという造船技術が受け継がれてきた。オモキ造りとは、丸太から刳り出したオモキと呼ばれる材を船体の主要部材とし、船底板の左右に組み込む構造およびその造船技術をさす。狭義の和船と捉えられる棚板造りの船(1)が、瀬戸内海および関東以西の太平洋沿岸地域で発達したのに対し、オモキ造りは本州日本海沿岸地域に根付いた、この地域在来の造船技術である(図1)。近世中頃までには、日本海沿岸地域にも棚板造りの技術が導入されるが、それでもなおオモキ造りは、棚板造りと技術的な交雑をしながら併存し、木造船の末期まで存続してきた。
さまざまな造船技術のなかでも重要な位置を占めるのが、水を漏らさず材を接合する技術である。和船の建造では、専用の鋸による接合面の摺り合わせ(2)や、接合面を金槌で叩き締める木殺し(3)など、水密性を高める接合技術が工夫されてきた。一方、オモキ造りが分布する本州日本海沿岸地域には、太平洋側や瀬戸内海とは異なる特徴的な接合技術が存在することが知られている。それが木製カスガイのチキリ、木栓タタラ、接着剤として用いられるウルシである。これらは、この地域の造船には欠かせないものであり、オモキ造りの発達とも密接に関わってきたと考えられる。
本研究では、本州日本海沿岸地域における船板材の接合技術について、その歴史や構造について検討を加える。あわせて、各種接合技術を模式的に再現した船板材接合模型を製作し、それによって現在廃絶の危機にある和船の建造技術を、接合技術の面から記録に留めたい。なお、接合模型の製作は、オモキ造りの造船技術を現代に受け継ぐ氷見の船大工、番匠光昭氏に依頼した。番匠氏からは、接合技術に関し、さまざまなご教示もいただいた。
1.船材の接合技術
接合技術は、船体を形作る基本的な技術であり、仕上がった船の水密性を保つ防水加工にも関わる、家大工や宮大工にはない船大工を特徴付ける技術である。おそらく、棚板造りの伝播に伴って各地に広まった和船共通の接合技術といえるのが、接合面の摺り合わせや木殺しである。一般的にはそうした摺り合わせや木殺しを施したうえで鉄製の船釘を打ち込み、材と材を接合する。一方、本州日本海沿岸地域には、そうした広域的な技術の影響を受けつつも、独自の接合技術が伝承されてきた。それが接着剤としてのウルシであり、木製接合具のチキリとタタラである。
(1)ウルシ
本州日本海沿岸地域各地において、太平洋沿岸や瀬戸内海の造船技術と大きく異なるのが、接着剤としてウルシを使用する点である。富山県域では、氷見のドブネや神通川のササブネなどオモキ造りの船のほか、テンマやカンコなど棚板造りの船に至るまで、建造の際にはウルシが必需品だった。全国的な分布をみてみると、西は島根県隠岐のトモドでその使用が報告され(文化財保護委員会 1962p34~35)、東は青森県の津軽半島や下北半島のムダマハギ構造(4)の漁船に使用例がある(青森県立郷土館1985)。
造船に用いられるウルシは、高価な塗り用のウルシとは異なり、発色の劣る比較的安価なものだったという。氷見の船大工は、高岡の仏壇屋が「船漆」の商品名で市販していたものを仕入れており、富山県東部の朝日町の船大工も同様だった。ウルシは、生ウルシをそのまま用いるのではなく、小麦粉を混ぜてよく練ってやり、粘り気を出したものを使用した。これをムギウルシといい、板と板を接ぎ合わせる際や、各部材を接合する際に接着面に塗布した。なお塗るのは片面のみで、ウルシを塗布した後、もう片方の材をのせてカスガイで仮固定する。ウルシが完全に固化するまでひと月ほどかかるといい、固化を待たずに船釘やチキリを使って接合してやった。
ウルシの耐用年数だが、漁船では3年から5年使用すると材と材の接合が切れてくるという。もちろん船釘やチキリ、タタラが利いていれば材が外れることはないが、どうしても水がしみ出してしまう。そうした際は接合部にヒワダを打って水漏れを防止してやった(5)。また、ウルシを用いる地域では、和船の基本的な接合技術のひとつである木殺しを行わない例も多いが、氷見では木殺しとウルシを併用するのが通例だった。これは、ウルシが固化するまでの間に木殺しした面がウルシの水分を吸って膨らむ。その際、繊維がウルシを吸って固着することで、より強固な接着をもたらすのだという(廣瀬2018-p64・65)。
接合面に塗布され、接合部の隙間を埋めて固化するウルシは、当然ながら防水性能の向上にも効果がある。昭和40年代にはウルシに替わって合成接着剤が主流になるが、船材の接合に接着剤を用いるという概念は、現在も日本海沿岸地域の船大工に継承されている。
(2)チキリとタタラ
ウルシの使用とともに、本州日本海沿岸地域の接合技術を特徴づけるのが、木製カスガイのチキリである(図2)。その平面形は、中央がくびれ、鼓形やリボン形と形容される形状を持つ(写真1・2)。造船技術としては、山陰から東北にかけての本州日本海沿岸地域を中心に分布し、同様の技法が沖縄の木造船サバニにも使用される。チキリという名称のほか、東北方面ではリュウゴ、沖縄ではフンドゥなどと称する(廣瀬2018)。また、トカラ列島のマルキブネでも左右の刳材を合わせる際にビラと呼ばれるチキリ状の木製カスガイを使用するという(川崎1991-p49)。チキリは機織り機の部品で経糸を巻き取る「千切り(榺)」、リュウゴは「立鼓」、フンドゥは「分銅」が語源であり、それぞれその形状から生じた名称であろう。
チキリは、造船技術以外でも広く用いられる木工技術であり、石工も同様の接合技術を用いる。材の片方に末広がりのホゾを作り出し、もう片方に同様の形状のホゾ穴を彫って接合す技術を、蟻継ぎ、蟻接合というが、それと類する技術である。チキリの寸法は船の大きさによって異なり、大型船のドブネで長さ約12cm、神通川のササブネで長さ約8cm程度である。チキリの厚みは接合する板の厚みによっても異なるが、舷側板や船底板で厚さ約15cmと浮上に分厚い板材を接合しなければならないドブネの場合でも、チキリ穴の深さは約1寸(約3cm)で、そこに厚さ1寸2分程度のチキリを打ち込んだ後、余分は削り落される。
チキリと併用され、接合面に埋め込まれるダボ(太枘)状の木栓がタタラである(図2)。タタラは、接合面に埋め込まれ、材と材のズレを防ぐ役割を持つ。地域や船大工によってさまざまな流儀があったようだが、基本的にはチキリとタタラを接合部に交互に組み込んで材と材を接合する。
鉄製の船釘を用いず、チキリやタタラという木製接合具と接着剤ウルシだけで接合する造船技術は、オモキ造りの基層を成すものだと推測されるが、タタラの使用が確認できない地域もある。例えば、富山県では割合に早い段階でタタラからオトシ(オトシ釘、縫釘)に転換したと考えられ、現存する昭和期の和船や、現在も伝承される造船技術では、タタラの使用はほとんど確認できない(6)。大正5年刊行の『富山県之水産』には、氷見のドブネの建造費用とその積算内訳が掲載されているが、棚板造りのテント1艘の建造に用いられる船釘は18貫であるのに対して、ドブネ1艘の建造にかかる船釘が60貫であるという(富山県水産組合聯合会1916-p63)。それぞれ船の大きさは異なると推測されるが、この数値からみても、大正5年の段階ではすでにドブネの建造には木栓タタラに替わって多量のオトシが多用されていたことが明らかとなる。
チキリとオトシの組み合わせは、富山県ではオモキ造りだけでなく、棚板造りの海船や川舟でも広く見られる接合技術である。棚板造りの場合は、主に船底版チョウ(シキ)や、船尾板トダテを複数の材で構成する際の接ぎ合わせに使用された。ただし、板のねじれや歪みにはチキリは適さず、そのため大きく曲げ付ける棚板を接ぎ合わせる際にチキリを用いる例はほとんどない。富山湾の海船では、西部の氷見から東部の朝日町まで、各地でチキリの使用が確認できる。また、チキリは薄い板では施工がしにくいため、テンマなどの小型船ではオトシだけでチキリを用いない例も多い。
板を接ぎ合わせる際は、それぞれ表裏で互い違いになるよう、片面にチキリ、もう片面にオトシを打ち込む例が多いが、両面にチキリを打ち、その合間、合間に片面だけオトシを打つ例など、さまざまである。例えば氷見型ドブネの場合では、船底板は内面にチキリ、外面にオトシ、舷側板は内面にオトシ、外面にチキリが配置される。
チキリを打ち込む間隔は、船の大きさや板の厚さで異なり、船大工の判断や船主の注文、船価によっても異なった。また、ウルシの時代は割合細かく打ち込んでいたものが、昭和40年代に接着力が強い合成接着剤に転換したことで、密に打ち込む必要がなくなったという。組み合わせるのがタタラなのか、オトシなのかによっても差異があったと考えられ、チキリの間隔は、そうした接合技術の変遷とも関わるものだった。
(3)チキリ・タタラの樹種
氷見の海船では、基本部材には海水に強いスギ、船首部材や上回りなどには擦れに強くスギに比べて堅いアテ(7)が用いられたが、チキリにもスギより堅いアテが使用された。
石川県能登半島七尾湾の瀬嵐のマルキブネでは、チキリ、タタラともにモロスギ(ネズ・ネズミサシ)を用いた(中島町教育委員会 2000-p7・9)。同じく瀬嵐で建造された石川県羽咋市邑知潟の潟舟チヂブネもチキリ、タタラともにモロスギを使用したが、「粘りがあり、柔らかく、固い」性質だったという(出口・出口2004-p19)。新潟県荒川の川舟カワフネのチキリはリョウゴと呼ばれ、クサマキもしくはヒノキを用い、ヒバも良いとされ、上越地方の地曳網用ドブネでは、チキリはクサマキ、タタラはクサマキか栗材を用いた(同 -p20)。同じく新潟県福島潟の潟舟ハンリョウでは、板材の接ぎ合わせにチキリとオトシ釘が使用され、チキリにはヒバかクサマキが適しているという(新潟市歴史博物館2007-p84)。秋田県の県北で使用されたムダマハギの漁船ではリュウゴ、タタラともに腐食に強いヒノキ(ヒバ)が使用された(秋田県教育委員会1995-p35)。また、若狭湾では、舞鶴のトモウチ(トモブト)のチキリにムロスギ(ネズ)が用いられた(出口・出口2004-p20)。沖縄のサバニでは、チキリをフンドゥと呼び、チャーギ(イヌマキ)を使用した。また、タタラやオトシ釘の代わりにルークギと称する竹製の釘がフンドゥと併用された(廣瀬2018-p68)。
以上、チキリやタタラに用いられる樹種は多様であるが、船本体に用いられるスギ材などとは異なり、比較的固く粘りのある樹種が選ばれる傾向にある。
2.船材接合技術の歴史的経緯
(1)造船におけるウルシの歴史
日本列島での本格的な漆器の出現は縄文時代早期末から前期初頭にさかのぼり、出土遺跡の分布は日本海側に多いという(四柳2006-p72)。また、平安時代『延喜式』に見えるウルシの貢納国には、本州日本海沿岸各地の国名があがる(同-p126)(8)。日本海沿岸地域には、古くから造船にウルシを用いる素地があったのではないかと想像されるが、造船との直接的な関連を示す史資料は見出せない。
出土遺物でのウルシの使用例としては、秋田県の八郎潟で出土した大型の複材丸木舟があげられる。平安時代から鎌倉時代と推測されるこの複材丸木舟では、オモキ造り風の船体の接合に鉄カスガイが使用され、鉄カスガイの上から包むようにウルシがかけられていた。また接合面にはヒワダないしマキハダが詰められていたという(秋田県教育委員会1995-p72~74・出口2001-p241~242)。
この八郎潟のウルシの例は接着用とはいいがたいが、近世の出土資料ではウルシの接着剤としての使用が確認できる。石川県金沢城下町遺跡出土の井戸枠転用船底板は、全長 10m 程度の二枚棚構造船の底板の一部と推測されるもので、材の接合用のチキリや鉄カスガイ、船釘等が現存する。底板側面、つまり下棚との接合面にウルシとみられる暗褐色の付着物が確認できるほか、チキリの底面にウルシが塗られたような痕跡が残る。また、材と材の接合面には、マキハダやヒワダのような繊維とウルシが詰め込まれ、充填材として使用されたものと推測されている。さらに、鉄カスガイを隠す薄板についてもウルシで貼り付けられているという。井戸跡からは18世紀前半代の遺物が出土している(金沢市2018-p13・30~31)。
明治期の記録としては、富山県西部を流れる千保川上流の舟戸口用水で使用された高瀬舟があげられる。この高瀬舟は、船形等詳細は不明ながら、オモキ造りの構造を持つと推測される(廣瀬2011-p10)。明治21年に高瀬舟が新造された際の見積書の中に、ウルシに関する記述があるが、そこには縫釘や皆折釘などの船釘とクサマキ製のチキリを併用する旨が記されている。さらに接合部の処理として「合ヒ羽桧皮込ノ上漆ヲ以取堅メ」と指定されている(砺波市史編纂委員会 1993-p250~252)。「合ヒ羽」とはアイバ、板と板の接合部を指す語句で、そのアイバにヒワダを詰め込みウルシで固めるということだが、これは接着剤としてのウルシとは使用方法が異なる。
大正期には、氷見で定置網漁の網取り船として用いられたドブネと、同じく定置網漁の網取り船で二枚棚構造にオモキを組み込んだ構造を持つテントにウルシが使用されていたことが記録されている。先にも紹介した大正5年刊行『富山県之水産』によれば、ドブネでウルシ6貫目、テントでウルシ2貫目を要したとされる(富山県水産組合聯合会 1916-p61~63、氷見市立博物館 2019-p16)。おそらくこの時点、大正期の氷見では、現在伝承されているのと同様の方法でウルシが用いられていたものと推測される。
こうして史資料におけるウルシの使用方法をみてみると、摺り合わせ後の接合面にウルシを塗布して接着するという接合技術が、そこまで古くはさかのぼらない可能性が見えてくる。金沢城下町遺跡で出土した18世紀初め頃の棚板造りの船では、現代に伝承された技術に通じる各種接合技術を観察できる一方、補修時の可能性もあるもののウルシとヒワダの併用が確認できる。また明治 21 年に建造された舟戸口用水の高瀬舟では、ヒワダを詰めた後にウルシで固めるという、充.填材の補助としてウルシが使用されたことがわかる。
出口晶子氏は、ウルシの効力はスリアワセ技法の念入りな開発があってこそ発揮される技法であり、意外に新しく、本州日本海沿岸を中心とする比較的ローカルな地域で展開をみたもので、水密材としてはマキハダ(ヒワダ)が先行していたのではないか、と指摘している(出口2001-p242・243)。
先述のとおり、史資料からも、現代に伝承されるウルシの使用方法は古くに確立された技術とはいいがたい。出口氏のいうように、ウルシの使用方法は技術革新とともに変化し、次第に本州日本海沿岸に定着してきた技術だったのだろう。その一方で、現代まで継承されてきた当地域の造船技術においては部材の接合と防水を兼用する技術としてウルシが重要視され、昭和40年代に合成接着剤に転換しても、船の建造に接着剤を使用するという基本理念は変わらなかった。刳材オモキを船体の屈曲部に組み込み、木製接合具のチキリやタタラと接着剤ウルシを併用するという技術は、究極的には鉄製の船釘を全く使用しない造船も可能としたと考えられる(9)。
(2)チキリとタタラの歴史
船材接合技術におけるチキリとタタラの起源は、紀元前1850年頃のエジプトダハシュールの造船技術にさかのぼる。ダハシュールのセンウセレト3世のピラミッド近くより出土した6隻の木造船の船体は、比較的短い板材をレンガのように交互に積み上げて建造されているが、その接合に鼓形のチキリと木栓タタラが組み合わされている(Dudszus・Henriot1986-p87・ Jones1995-p78)。さらに木工技術としては、約4,000年前にはすでに蟻接合の技術があり、チキリ状の接合具が存在していたという(渡邉2009-p87・88)。
エジプトと日本の間の地域を見ると、中国では、エジプトダハシュールより古い戦国時代(紀元前5世紀から3世紀)の木槨墓などに蟻接合が見られ(渡邉2009-p87・88)、朝鮮半島では、1~3世紀初め頃の後漢の時代、楽浪郡から出土した木棺にチキリが確認されるという(成田1984-p161)。また、カンボジアのアンコール遺跡では、クメール人石工によって石製や金属製でさまざまな形状のチキリが使用されており、鼓形のものも含まれる(崔2001-p200~202)。このように中国、朝鮮半島から東南アジアでは、木工技術や石工技術としてのチキリや蟻接合は存在するが、造船技術としては確認できない。
日本では、古墳時代以降の出土船材に鼓形チキリの痕跡を確認することができる。石川県大友A遺跡では、古墳時代前期の船材転用と考えられる水場遺構の足場部材にチキリが打ち込まれていた。このチキリは鼓形の中央が長く頸部がある形式のもので、刳材に生じた2本のひび割れをひとつのチキリで留めてある(金沢市埋蔵文化財センター2016)。大阪府蔀屋北遺跡では、古墳時代中~後期の船材転用と考えられる井戸側材でチキリ穴が確認されている。また、三重県六大A遺跡では、古墳時代中~後期の遺物を主体とする大溝から、チキリ穴のある船材が出土している。両遺跡とも材の端部に彫り込まれたチキリ穴が確認できるのみだが、いずれも鼓形のチキリの存在が想定される。なお、六大A遺跡では、船材ではないがタタラで接合された板材が確認されている(大阪府立弥生文化博物館2013・三重県埋蔵文化財センター2000)。
古代から中世では、新潟県の曽根遺跡と小丸山遺跡で9~10世紀代のチキリ穴を持つ船材転用の井戸側材が出土しており、左右合わせの複材丸木舟とされる。また、曽根遺跡では鼓形のチキリも大小2点出土している。そのほか、石川県七尾市能登国分寺跡では外面にチキリ穴を持つ12世紀中頃~後半の船材転用の井戸側材が、秋田県洲崎遺跡ではチキリで割れを補修した13世紀後半代の丸木舟転用井戸側材が、新潟県山木戸遺跡でタタラ穴を持つ14世紀中頃の複材丸木舟転用井戸側材が出土している(秋田県教育委員会2000・庄内2010・鶴巻2007・新潟市教育委員会1995・新潟市歴史博物館2007)。
このように、丸木舟の補修技術としてのチキリの出土は、古墳時代には瀬戸内海や太平洋側で確認でき、本州日本海沿岸地域には限定されない。一方、古代以降では、石川県から秋田県までの本州日本海沿岸地域各地で確認される。チキリの出土例の多くは、丸木舟のひび割れの補修として用いられているが、新潟県曽根遺跡と小丸山遺跡の例は、チキリで左右の部材を接合した複材丸木舟とされている。タタラについては出土例が少ないものの、古墳時代にはすでに木工技術として存在しており、それが14世紀中頃の新潟県山木戸遺跡の複材丸木舟に至るまでの間には船の接合技術へと採用されたものであろう。
こうしてみていくと、丸木舟の補修技術から複材丸木舟の接合技術へ、さらにはオモキ造りの接合技術へと鼓形チキリの役割が変化してきた可能性が見出せる。そうした過程のなかで、別系統の技術であるタタラが併用されるようになったのではないだろうか。
実際のところ、チキリは材の両側から打ち込んだとしても材の厚み方向でのずれには弱い(図3 ア)。丸木舟の割れ補修にはチキリだけで対応できたものが、複材丸木舟やオモキ造りの接合では強度が不足してしまう。それに対し、タタラはずれには強いが、材を引きはがす力、引き抜く方向の力には弱い(図3 イ)。ある時点で互いの欠点を補うためにチキリとタタラが組み合わされるようになったものと推測される(図3 ウ)。また、先述したように、チキリは大きな曲げやねじれには不向きである。船体の曲面を、曲げではなく刳ることで作り出すオモキ造りとは、その点相性が良い。オモキ造りと深く結びつく接合技術であるチキリやタタラだが、そのオモキ造りの発達に関与しただけではなく、オモキ造りだからこそ現代まで存続し得た技術だったのではないだろうか。
3.弥生時代のチキリについて
現在のところ、船材に用いられたものとしては石川県金沢市の大友A遺跡で出土した古墳時代前期のチキリが国内最古の事例である。ただし、木工技術としてのチキリは弥生時代にさかのぼり、造船に限らなければより古い出土例がある。実際、同じく石川県金沢市、大友A遺跡の南方約1.2kmに位置する西念・南新保遺跡でも、弥生時代のチキリ状接合具が出土している。
西念・南新保遺跡では、井戸の水溜に転用された大型桶形木器にチキリが確認される。出土土器から推測される井戸の使用年代は弥生時代後期後半から終末期で、転用前の桶形木器としてはそれ以前の年代があてられる。この桶形木器はスギの丸太を刳り抜いたものだが、木目に沿って生じたひび割れを補修するために、上下に3個のチキリが打ち込まれている。ただし、一般的な鼓形のチキリではなく、鍵手形のチキリである。チキリ穴との調整に木片が挿入されている箇所があるのも確認できる(金沢市・金沢市教育委員会1983)。
石川県内では、西念・南新保遺跡以外に弥生時代にさかのぼる可能性を持つチキリの出土例が2点ある。いずれも井戸の水溜等に転用された桶形木器のひび割れ補修に用いられており、今回資料調査を実施した。
(1)石川県宝達志水町二口かみあれた遺跡出土のチキリ
旧志雄町の二口かみあれた遺跡で、井戸の水溜に転用された刳物の桶形木器でチキリが確認されている。井戸の掘りかたで弥生時代後期前半、井戸内から古墳時代前期の土器が出土している(志雄町教育委員会1999)。縦方向のひび割れを上下2個のチキリで補修したものだが(写真3左)、下方はチキリが現存し(写真3右)、上方はチキリが欠落する(写真3中)。それぞれ、上方のチキリは内面へ貫通するひび割れ1条を、下方のチキリは上方に続くひび割れと、内面に貫通しないひび割れの2条を、それぞれ補修している。同じく鍵手形の西念・南新保遺跡のチキリはほぼ直角に屈曲する鍵手形だが、二口かみあれた遺跡のチキリは鋭角に折れて軸部分が斜めになり、ちょうど「Z」字のような形状を呈する。
上方のチキリ穴を観察すると、木目に沿う縦のラインはきれいに切削されるが、木目に直交する方向の切削はやや苦慮しているように見受けられる。また、穴を深く彫り込みすぎて、内面に穴が貫通してしまっているのも確認できる。下方チキリについては、チキリ穴との間に生じた隙間を調整するため木片が挿入されている。チキリは長軸方向に木目が平行するように木取りされており、軸部に対しては木目が斜交する。
上方のチキリ穴は「Z」字形で長軸方向に7.2cm、下方のチキリは裏「Z」字形で長軸方向に7.3cm、軸部は下方のチキリの方が細く、規格性があるとはいいがたい。西念・南新保遺跡も3個のチキリの寸法が微妙に異なるが、鋸のない時代であり、1個1個削り出してチキリを作成していた故であろう。
(2)石川県羽咋市吉崎・次場遺跡出土のチキリ
羽咋市吉崎・次場遺跡では、井戸枠に転用された刳物の桶形木器でチキリが確認される。桶形木器自体はスギ製で、弥生時代後期後葉のものと推測されている。下方に生じたひび割れの補修のため、チキリが1個打ち込まれている(写真4左)。なお、ひび割れのある桶形木器下端は、内面が厚く刳り残されており(写真4右)、ひび割れ自体は内面まで達していない表面的な亀裂である。
打ち込まれたチキリは、先の例と異なり一見して鼓形チキリに近い(写真4中)。ただし、厳密にはエジプトダハシュールや日本の民俗例のようにくびれ部分が屈曲するチキリとは異なり、角を持たず、チキリ側面がゆるく湾曲しているのが特徴である。直線的な形状を持つ一般的な鼓形チキリに比べ、チキリとチキリ穴との形合わせや、彫り込みはより困難なように見受けられるが、木片等での調節はされていない。
(3)石川県に分布する「原初的チキリ」
以上、石川県では、西念・南新保遺跡および、今回実見した二口かみあれた遺跡、吉崎・次場遺跡の3遺跡で弥生時代後期までさかのぼり得るチキリが確認されている(10)。いずれも刳物の桶形木器に生じたひび割れを補修するために用いられたもので、当該期の木工技術を示す資料といえよう。注目されるのが、民俗例等で一般的な鼓形ではなく、鍵手形をしたチキリが2例確認される点である。また、吉崎・次場遺跡にしても、典型的な鼓形チキリとはやや様相が異なる。
こうしたチキリを、鼓形チキリに定形化する以前の「原初的チキリ」ともいうべき存在と仮定し、弥生時代後期から古墳時代にかけて、鍵手形チキリから鼓形チキリへ発展したという道筋を描くことも可能であろう。石川県で集中して出土する「原初的チキリ」を母体として鼓形チキリが生み出され、丸木舟の補修用具や、その後の複材丸木舟やオモキ造りの接合技術へと変化してきたとすれば、船材の接合技術としてのチキリが本州日本海沿岸特有の技術として分布することに対するひとつの回答になり得よう。
だが実際には、チキリを作り、それに合わせたチキリ穴を彫るためには鉄製工具の存在が欠かせない。蟻接合の技術について、西アジアあたりを源流として西へ向かう流れと東へ向かう流れがあったと推定した渡邉晶氏は、蟻を加工するためには金属製の道具が不可欠であり、東へ向かう流れのなかで鉄製道具と共に蟻接合の技術が日本へ伝えられたのではないか、と指摘している(渡邉2009-p88)。
石川県内に集中する「原初的チキリ」についても、大陸由来の技術として鉄製工具や木製接合具が受容されるなかで、過渡的に使用されたものだったと考えられるのではないだろうか。結果的に、より広範に分布し、起源が古い鼓形チキリに集約、淘汰され、本州日本海沿岸地域で船材接合技術として定着をみたものと推測される。
古墳時代中~後期の船材転用材でチキリ穴が確認された大阪府の蔀屋北遺跡は、出土遺物の傾向や馬の飼育を生業としていたことから、5世紀前半に朝鮮半島の百済から渡来した集団によって営まれたと推察され、さらに当地と朝鮮半島を船で往来していた可能性も指摘されている(大阪府教育委員会 2010-p149)。弥生時代後期から古墳時代に用いられた日本のチキリの成り立ちを考える上で示唆的な存在といえよう。
4.船板材接合模型の製作について
今回の研究補助を受けて、主眼としたのが各種接合技術を模式的に再現した船板材接合模型の製作である。製作は船大工の番匠光昭氏に依頼し、ウルシ、チキリ、タタラ、オトシ(船釘)といった本州日本海沿岸地域に残る船材接合技術の記録とした(写真5・6)。製作にあたっては、各接合技術の組み合わせを変えることで、将来的な経年変化等の比較観察を行えるようにした。
具体的には(A)チキリ・タタラ併用、(B)チキリ・オトシ併用、(C)オトシのみ、(D)接合具不使用の4パターンに、ウルシの使用不使用等でバリエーションを加え、下記12 パターンの船板材接合模型を製作した(図4)。また、固定せず分解可能なものについては、博物館での展示だけでなく、実際に手にしての学習や体験活動等での利活用を想定した(写真7)。
A-1:チキリ・タタラ A-2:チキリ・タタラ・ウルシ A-3:チキリ・タタラ(分解可)
B-1:チキリ・オトシ B-2:チキリ・オトシ・ウルシ B-3:チキリ・オトシ(分解可)
C-1:オトシ C-2:オトシ・ウルシ
D-1:ウルシのみ D-2:非接合(木殺しまで) D-3:非接合(アイバスリまで) D-4:非接合(無加工)
おわりに
以上、本州日本海沿岸地域における船板材接合技術について、その歴史的な経緯を含めて概観した。今回製作した船板材接合模型については、博物館活動のなかで活用しながら、その経年変化についても観察を続けていきたいと考えている。
民俗例でいえばチキリの使用がかなり際立つ富山県だが、考古資料としてのチキリの出土例はいまだない。本稿で取り上げた石川県はもとより、新潟県や秋田県でも丸木舟の補修に使われている例があることから、今後富山県内でもチキリが出土する可能性は高い。類例の増加に期待したい。
なお、石川県埋蔵文化財センターおよび宝達志水町教育委員会には資料の閲覧と掲載にご配慮いただいた。記して感謝申し上げる。
註
(1)棚板(舷側板)を曲げ付けて船を建造されるのが棚板造りである。図1に例示した二枚棚構造のテンマでは、船首のミヨシから底板、船尾板のトダテを船の背骨とし、そこに上棚、下棚の左右各2枚の棚板を曲げ付けて船体が形作られる。
(2)接合する板と板の端面を専用の鋸で摺り合わせ、より密着させる技術。氷見ではアイバスリという。
(3)摺り合わせを終えた板の端面を金槌で叩き締めて、木の繊維をつぶす工程をいう。木殺しをした板同士を接合すると、進水後に水を吸って接合面が膨らみ、板と板がより密着することになる。
(4)ムダマハギとは、船底部の刳材ムダマに棚板を接ぎ付けた構造の船をいい、津軽海峡およびその周辺地域に分布する。本州日本海沿岸地域に分布するオモキ造りとは秋田県北部の米代川近辺を境とする(青森県立郷土館1985・昆2014)。
(5)ヒワダは、ヒノキの樹皮を縄状にしたもので、マキの樹皮を縄状にしたものはマキハダという。和船の防水用充填材として一般的なヒワダやマキハダだが、ウルシ使用地域では新造時に必要不可欠ではなく、修繕作業に使用されるものだった。
(6)氷見型ドブネでは、木口同士の接合部に、建築用語でいう「雇いざね接ぎ」のように角材を通す箇所があり、この角材をタタラと呼ぶ。また、カジのハの部分の接合や艪のウデとハの接合にはタタラが使用されている。
(7)アテとは、アスナロとその変種であるヒノキアスナロ、いわゆるヒバと呼ばれる樹種のことをいう。
(8)中男作物としてウルシを貢進する国は、上総・上野・越前・能登・越中・越後・丹波・丹後・但馬・因幡・備中・備後・筑前・筑後・豊後の15国で、そのうち7国が本州日本海沿岸の地域である。また交易雑物としてウルシを貢進する国としては越前・加賀・越中・越後の4国があがる(『延喜式』巻22・巻24・四柳2006-p136)。
(9)こうした状況は新潟県のドブネにその片鱗を見ることができる。中頸城海岸犀浜十三浜で地曳網漁に使用されたサイハマドブネは船釘を使用せず、チキリとタタラ、ウルシで建造される(文化財保護委員会1962「どぶねの製作工程」-p1・2)。
(10)石川県内では、金石東遺跡出土の遺物にも、西念・南新保遺跡と同様の例ではあるが、鍵手形ではなく蟻枘に似た枘を打ち込んだものがあるとされ(金沢市・金沢市教育委員会1983-p34)、鼓形チキリを思わせるが、未見である。
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