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明治期における金工家および銅器問屋の活動についての研究

竹内唯(高岡市美術館)

はじめに

 高岡における金属工芸の歴史は、加賀藩二代藩主前田利長がこの地にもたらしたことでその歩みを始めた。武器製作に従事する彫金師を引き連れ、金屋町を拝領地として鋳物師集団を招き、さらに産業としての保護を厚くすることで高岡の金工は栄え、地場産業として全国にその名を知られるようになった。明治時代になり、日本各地の特産品や工芸品が殖産興業の名の下に集められるようになると、いよいよ金工が高岡地域の特産として発信され、国外にも活躍の場を広げるようになった。工人や銅器問屋たちもこの動きに様々に対応し、人・もの・わざのダイナミックな交流が繰り広げられた。その意味で、国家的な工芸振興の波にのり多くの金工家や銅器商が国内外で活躍した明治期は、高岡の金工を考える上でたいへん重要な時期である。
 しかし、この時期に活躍した個々の人物については、古い資料のわずかな記述が現代の資料まで受け継がれているというのが現状であり、新たな情報が追加されることが極めて少ない人物もいまだ多い。
 高岡市美術館では、明治期金工関係者のご遺族の存在を数箇所、把握している。本研究は、ご遺族の方々を訪問し、聞き取り調査および資料収集を行うというものである。かれらは年齢的にも、明治期の人物についての記憶を有し資料の管理等に意欲のあるほぼ最後の世代ともいえ、直接お話をうかがいながらの調査は急務である。充実した情報収集を目指すとともに、本研究の成果をもとにして他の人物への調査につなげていくことで、系統的な情報収集のきっかけをつかみたいと考えた。
 また、本研究の成果は、2019年度秋の企画展「明治金工の威風―高岡の名品、同時代の名工」に反映することを目指した。そして、聞き取りを行う対象は、高岡から京都に渡り内国勧業博覧会にも出品した金工家「高川清三郎(たかがわせいざぶろう)」、明治期高岡における代表的な銅器問屋のひとつである「角羽勘左衛門(かくはかんざえもん)」の2件とした。

高川清三郎

 高川清三郎については、初代から三代までその名を名乗り金工家として活動していた人物の存在が知られており、高岡市美術館には二代の作品が2点収蔵されている(図1、2)。先祖の調査に意欲的であった人物(故人)から提供を受けた情報が当館に既にあるが、今回はその甥にあたる方にお話をうかがった。京都に転居してからの活動や、既存資料にみえる以外の博覧会出品経験、一族全体の金工との関わり、四代清三郎は存在したかどうか、などについて聞き取ることを目標とした。今回聞き取った情報を含めた高川清三郎のあらましを、以下に記す。

(図1)二代高川清三郎《鶏象嵌雲盤》明治末期


(図2)二代高川清三郎《桐鳳凰文雲耳付花瓶》明治-大正


※いずれも高岡市美術館蔵


 初代清三郎(要隆、1813-1859)は高岡に住んだ。名前の読みは「ようりゅう」などが考えられそうであるが、遺族にも伝わっていない。明治後期に二代清三郎(卯三吉、1849-1913)が京都に移住した。しかし、京都での活動については不明である。第2・3回内国勧業博覧会(1881・90)の目録に清三郎(年代的に二代であろう)の出品・受賞の記録が残るが、居住地は前者では「旧旅屋門前」、後者で「越中国高岡市旧旅篭門前」となっている。二代の妻は、高岡の彫金家小馬次助(こんまじすけ)の三女こと(1862- ? )で、明治初期に入籍している。
 二代には三男三女がおり、長男の清七(1880-1925)が三代清三郎を名乗った。長女うさは、今回お話をうかがった方の祖母にあたる。三男の重二は一人で彫金業を営んでいたようで、聞き取りによれば、大きな花瓶に字を彫っている姿を記憶しているという。個人の工房をかまえ彫金仕事を請け負う職人の姿が想像される。しかしこのあとは金工を継ぐ者がおらず、四代清三郎となる者も出なかった。
 当館所蔵の二代清三郎による作品は色金を駆使した華やかで緻密な作品であり、金工家としての力量を感じる。遺族には「二代は博覧会で受賞することが生きがいだった」と伝わっている。美術館や展覧会の仕組みも未だ整わない明治期において、作品発表の主要な舞台は国内外の博覧会であったが、時流に対応しながら意欲的に制作を行っていた様子が想像される。いわば制作や発表への姿勢を垣間見ることができたわけだが、このような情報は文献からは出てきにくい側面として注目すべきである。
 この時代の工人の例にもれず、高川清三郎については未だ文献資料が少ない。今回は、高岡に伝わっている断片的な情報(初代~三代の氏名と生没年)とかねてから当館にご提供いただいていた系図等を予備情報とし、その確認およびオーラルヒストリーを聞き取ることができればと考えていた。結果としては、三代清三郎とその兄弟姉妹についての記憶が多く、語り手の世代を考えると当然といえよう。しかし、金工を生業とする親族の存在が確認できたことや、明治期以降の工芸を考える上で欠かすことのできない博覧会への意識を二代清三郎が強くもっていたことが明らかになったのは、大きな成果であった。

明治期工芸の生産プロセス

 角羽勘左衛門は江戸中期に高岡で創業した銅器問屋である。明治期には開港まもない横浜に進出して輸出銅器の製造・販売を行った。やがて国際色豊かな弁天通りに角羽商店支店を設立し、横浜の成功者のひとりに数えられるまでとなった。もちろん、国内外の博覧会にも多くの作品を出品している。
 銅器問屋を考える際には、まず明治期工芸の生産プロセスについて述べておかなければならない。現在「美術」「工芸」というと、つくり手が自身のアイデアをもとに完成まで目配りするというイメージもあるが、明治期の工芸には異なる生産システムが存在した。すなわち、プロデューサーたる銅器問屋が製品を企画し、デザインをもとに工人に製作発注して完成品を世に出すという「問屋制家内工業」である。完成したものは問屋・商店の製品として店頭に並べられ、あるいは博覧会等で展示され、人々のもとに届けられた。明治期にはこのようなプロセスが確立しスタンダードとなったといわれている。つまり、実製作者である工人にイニシアティブはなく、原料供給やデザイン検討、生産ラインの調整などを銅器問屋が統括していたのである。ただし、工人自ら工房長を兼ねて販売も行ったという伝記が残る横山彌左衛門(よこやまやざえもん)のような存在1や、工人の工場への契約形態も専属・準専属・普通……などの階層があったという証言2も知られており、上記の大きな傾向以外に一枚岩でない業態が存在したと思われるが、ともかく「親方」たる問屋の存在がなければ明治期工芸作品の多くは生まれず、人々にも届かなかった。展覧会等で問屋の存在に焦点が当たることは多くないが、この時期の工芸を考える上で欠かせない要素であることは間違いなく、企画展「明治金工の威風」においても銅器問屋を扱う章を予定していた。そして高岡においては、金森宗七(かなもりそうしち)とともに角羽勘左衛門が先駆者として著名であり、角羽家については、基本的な評伝は複数存在するが当館における資料収集および整理は十分でなく、この機会にご遺族に聞き取りを行いたいと考えた次第であった。
 今回は、既存の資料に登場する人物やその関係性、生没年などを理解し系図を作成すること、写真等に写っている人物の特定、その他オーラルヒストリーを拾うこと、などを目標とした。コンタクトをとったご遺族の方が他地方在住のご親族を紹介してくださったこともあり、それぞれの目標についてはある程度ずつ達成でき当館の記録とすることができた。今回聞き取りを行った情報を含めた角羽勘左衛門(角羽商店)のあらましを、以下に記す。年代は『高岡銅器産業を築いた商人たち』(展覧会図録、高岡市立博物館、1998)を参照した。

角羽勘左衛門

 六代勘左衛門は屋号を「羽廣屋(はびろや)」として寛政2年(1790)に銅器問屋を始めた。原料を大坂から仕入れ、高岡の工人につくらせて関西方面に仏具・燭台・花器・火鉢などを販売した。文政10年(1827)に家業を継いだ七代勘左衛門は、東海・越後や江戸にも販路をのばした。角羽勘左衛門のように近代以前から活動していた問屋は、明治期の華やかな活躍を準備する要素として、原料供給や販売先の広いネットワークを保有していた。そして輸出工芸と博覧会に彩られる明治の世になると、それまでの蓄積を活かすかたちで時流にのり活動を展開していくこととなる。
 九代勘左衛門は安政7年(1860)、前年開港したばかりの横浜に進出し、本牧(ほんもく)にて居留地貿易を始めた。明治2年(1869)には藩と共同で銅器売捌所を設置し、明治4年(1871)の廃藩まで営業を行ったという。高岡の本店は九代の次男である十代勘左衛門が経営した。
 九代の次男嘉兵衛(きへえ)は明治23年(1890)に横浜の本町4丁目に支店を開店した。和辻哲郎の妻照(てる)の実家である高瀬商店の隣であった3。嘉兵衛亡き後、三男の善次郎(ぜんじろう)が店を継ぎ、明治39年(1906)弁天通3丁目に移転。前述の通りこの一帯は国際色豊かな雰囲気に満ち、聞き取りによると、角羽商店は帝国大学出身の従業員を数人かかえ、店舗には水兵がよく土産を購入しに訪れたという。明治中期生まれでこの時期の角羽商店を知る親族の回想が伝わっており、それによると、店に誰もいないときに水兵が入ってくると怖くて店の奥に隠れた、売り物の鏧(きん)をたたいて遊んで怒られたなど、角羽商店で幼少期を過ごした時代の空気が伝わってくる。
 大正12年(1923)の関東大震災で店が倒壊するも、同じ場所に店舗兼住居を新築した。この店舗入口には象の装飾があしらわれた。専用伝票やカタログと考えられる冊子の表紙、そして商品などにしばしば象のモチーフがみられ、店のシンボルのような存在だったと思われる(図3)。

(図3)CATALOGUE OF ARTISTIC JAPANESE BRONZEWARE No.1 高岡市美術館蔵
※今回当館に寄付をいただいた資料。企画展にも出品。


 海外貿易の途を開いた九代勘左衛門は文化人でもあった。俳諧に親しみ、翠雨軒(すいうけん)、湘山(しょうざん)とも号したことは以前から知られていたが、角羽善次郎もコレクターの側面があったことが判明した。善次郎は骨董、浮世絵、版画も扱い、横浜市商工奨励館で昭和6年(1931)に開催された「横浜産業文化展覧会」に出品している4
 角羽商店は高岡発祥の銅器問屋として、そして横浜の名士として歴史に名を残した。今回ご遺族より情報提供をいただいた資料5には、銅器産地の高岡から出た「屈指の店舗」として「外人よりの注文常に忙し」く、博覧会等で多くの「賞牌を受け」たと評価されている。今回の調査では、輸出工芸華やかなりし横浜で事業展開を行った角羽商店の姿がより鮮明に浮かび上がってくる成果が得られたといえる。ただし、開業や支店開店などの年代特定については、今回ご提供いただいた情報も含めた複数の資料や情報の間で齟齬があり、今後の課題とすべきであろう。

まとめ

 以上が、工人・高川清三郎および銅器問屋・角羽勘左衛門のご遺族への聞き取りの結果である。いずれも昭和初期生まれの方を中心にお話をうかがっているが、かれらは明治期を過ごした人物の孫か曽孫といった世代であり、祖父母が語った先祖の全盛期の思い出を直接聞いている人々である。文献資料を集めるのも難しい状況のなか、資料をご紹介いただいたり、資料には出てきにくい当時の雰囲気を感じられる証言をいただいたりできたことは大変貴重であった。特に、問屋は自らの名前を出して仕事をしていたので資料を発見しやすいが、高川清三郎のような実製作者についてはどうしても探究が難しくなるので、今回の聞き取りは有意義であった。ただし、予想していたことであったが、高川清三郎については新たな文献資料は得られなかった。例えば作品の銘を考えても、実製作者の名ではなく問屋名のみしか記載されてないことが多々あるほどである。この時期の工人についての情報を集めることの困難さを改めて実感したが、引き続き情報収集を行っていくべきであろう。
 本研究の成果は、企画展「明治金工の威風」(図4)の出品作品・資料の解説に反映させたほか、同展図録の資料編に略歴や資料紹介をまとめた。断片的な情報が各種資料に散らばっていた状況から少しでもアクセスがしやすいように、そして本研究の成果を今後も活用できるように意識して編集を行ったつもりである。

(図4)「明治金工の威風―高岡の名品、同時代の名工」企画展チラシ
(2019年9月20日~10月20日、高岡市美術館)


 とはいえ、明治期の工人や問屋については分からないことがまだまだ多く、ある程度において情報入手の限界もあるとは思う。本研究では2件の個別の人物(商店)について調査を行ったが、この成果をもとに他の人物などについても順次、資料と作品の発見に努め関係性をあぶり出すことで、高岡における金工の全体的な状況を把握することが次の段階としてみえてくるであろう。

1『高岡市古書古文献シリーズ第四集「高岡知名録」復刻版』高岡文化会、高岡市立中央図書館、1996。
2 『高岡銅器史』(定塚武敏・養田実著、桂書房、1998)による延沢定雄『人生行路』からの引用。
3 和辻照『七十八の賀』、非買、1968。「お隣の角羽おまきちゃん」(p.36、「おまきちゃん」については不詳)、「隣の角羽商店」(p.60)という記述がある。今回ご遺族よりご教示いただいた。
4 「横浜産業文化展覧会出品目録」(昭和6年11月3日~9日開催)。今回ご遺族より提供を受けた資料である。
5 『横浜成功名誉鑑』、横浜商況新報社、1910、p.212。今回ご遺族よりご教示いただいた。