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富山県の米騒動はどのように報じられたか~全国新聞記事における初報状況等の調査~

近藤浩二(滑川市立博物館)

はじめに

 平成30年(2018)は、大正7年(1918)に起きた米騒動から100年ということで、富山県内各地で関連の展覧会、講演会やシンポジウム等が催され、またメディアによる特集・報道もあり、耳目を集めた。
 滑川市立博物館では、7月28日から9月2日まで「米騒動100年 滑川から全国へ」と題した企画展を開催した。浦田正吉氏(元富山県立図書館副館長)、能川泰治氏(金沢大学教授)、藤野裕子氏(東京女子大学准教授)の研究協力を得て、1章「社会背景と100年前の滑川」、2章「滑川町と富山県内の米騒動」、3章「全国へ広がった米騒動」、4章「明治時代の米騒動」、5章「米騒動後から現代へ」という5章立ての展示構成とした。

「米騒動100年 滑川から全国へ」ロゴ
「100年」の「1」は当時大量に輸入された外国米(インディカ米=長粒米)、
「0」は人々が欲した内地米(ジャポニカ米=短粒米)をイメージしてデザインした。



展示会場風景
滑川市内や富山県内だけでなく、全国各地から多くの人が滑川市立博物館を訪れ、
米騒動に対する関心の高さがうかがえた。

1.調査の目的

 米騒動は戦後以降、盛んに研究が行われ、米騒動から50年の昭和43年(1968)前後からは当事者からの聞き取り調査も進展し、民衆史、労働運動史、社会史、女性史をはじめとした様々な視角から分析されてきた。そのため、富山県関係の米騒動関係の資料は出尽くした感もあったが、今回調査を行っていくなかで、新たな資料を発見することもできた。
 また、米騒動研究の基礎資料として多く用いられてきた新聞資料については、当時の富山県内主要4紙の悉皆調査を行ったことで、未曽有の好景気だった大戦景気の最中ながら全国的な社会問題となっていた「中流社会(中流層)の生活難」にも行き着いた。この「中流社会の生活難」というキーワードも視野に入れながら富山県の米騒動を概観したのは、恐らく初めてといえるだろう。
 調査を進めていくなか、滑川市民の話を聞いていると、大正7年(1918)から100年を経た現在でも「米騒動といえば滑川」と思っている、信じている方々が一定数おられることが分かってきた。これは滑川町の米騒動が、2000人という県内最大規模の騒ぎとなったことが大きな理由と考えられるが、教科書や書籍等では魚津町や水橋地域が〝発祥地〟として叙述されることが多いにもかかわらずである。しかし、同時代人が米騒動を回顧したものには、「滑川で始まった米騒動が全国へ広がった」といった趣旨の文章が散見される。
 この「米騒動といえば滑川」の意味を探るため、同時代人たちが米騒動に対してどのようなイメージを抱いていたかを知る必要があると考え、当時の報道状況を富山県内だけでなく、全国各地でどのように報じられたのかを調査することにした。

2.富山県内の米騒動報道

 まず、富山県内での報道状況を概観する。
 大正7年(1918)の米騒動は、当事者への聞き取り調査等の成果によって6月下旬~7月上旬頃に東水橋町で始まったとされる。そして7月下旬から富山市や県東部沿岸地域で起き始めた米騒動については、『高岡新報』を除く『北陸タイムス』『富山日報』『北陸政報』といった地元紙が報じ始めた。『高岡新報』は主筆の井上江花が大境洞窟の発掘調査に注力しており、このことが乗り遅れた理由なのかもしれない。
 この時期の騒ぎが県外で大々的に報じられることはなかったが、7月29日の『北國新聞』が「富山電話」として23日に魚津町で起きた汽船への積み出し阻止を報じた。8月3日の西水橋町の騒動を報じた6日の『大阪朝日新聞』(北陸版)のなかでも7月23日の魚津町の積み出し阻止について触れている。また、8月1日に高岡市で精米業者(小売商)たちが米を大量に保有していた平能五兵衛に売り渡し要求を行ったが、この出来事については『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』が3日に報じた。
 このように富山県内の不穏な動きが県外に報じられたのは限定的だったが、8月3日の西水橋町の騒動を4日付で報じた『高岡新報』は、以降、積極的・克明な報道を始め、電報や電話で全国各地に情報を送っていく。夕刊紙の『高岡新報』は夜の騒動を翌日付で掲載することができ、日刊の他紙よりいち早く報道することが可能であり、米騒動報道をリードしていく存在になる。県外への発信は確認できないが、『北陸タイムス』も積極的な報道を行う一方で、『富山日報』『北陸政報』は事件報道には消極的だった。
 4日の東水橋町、5日の滑川町と騒動が続くと、『高岡新報』は6日に滑川町へ特派員を送り込んだ。そしてこの日に県内最大の2000人規模の米騒動が起きることになる。富山県の米騒動報道は『高岡新報』の独壇場と思われがちだが、実は『大阪朝日新聞』も7日から五十嵐太十郎という記者を滑川町へ特派しており、この日の騒動を報じた9日の記事から独自の内容になっている。これによって滑川(富山県)の米騒動は、高岡新報系と大阪朝日系の情報が全国へ飛び交うことになった。
 それぞれの情報の特徴として、高岡新報系の7日の様子を報じた記事は救済内容についてである。8日は汽船(三徳丸)への積み出し阻止、滑川米肥会社が計1000円の救助金と寄付金を一部の漁民へ持ちかけた話、多数の警察官配置による厳重警戒が主題だった。一方の大阪朝日系は、7日が1升25銭の廉売要求、8日は汽船(平国丸)への積み出し阻止と警察署の包囲である。なお、記者が特派されたことによってか、8月10日の『大阪朝日新聞』(北陸版)には滑川町の米騒動に関する写真が掲載された。
 このような各紙の報道状況について富山県警察部長は下表のような評価を下している(「越中女一揆並米騒動調査報告」〔個人蔵・立山町郷土資料館寄託「宮路金山家文書」〕)。県内で積極的な報道をしてきた『高岡新報』と『北陸タイムス』を酷評する一方で、『富山日報』と『北陸政報』は〝お褒め〟の言葉を頂戴し、『大阪朝日新聞』にも高評価が与えられた。これは『富山日報』が「真に生活難か-滑川女一揆の裏面」(8月10日)、『大阪朝日新聞』が「不可解の女房連-籐下駄表等の内職があるのに」(8月10日北陸版)といった女性たちが騒ぎ立てたことに対して疑問を投げかける記事を掲載したこと、『北陸政報』は滑川町・東西水橋町の事件を報じなかったことが大きいとみられる。
 ただ、報道姿勢が「国家ノ為メ(中略)慶スヘキ義ト信スル」と大いに〝お褒め〟に与った『大阪朝日新聞』だが、「高岡電報」からの記事を掲載したことによる責任(「関西地方ノ米騒擾煽動ノ因ヲ為シタルノ責ヲ甘受スヘキナリ」)については、『大阪毎日新聞』(「同新聞ノ盛ニ頒布セラルル地方ニ此ノ記事以上ノ事件ヲ実現セシムルノ効果アリシコトノ責ヲ免ルヘカラサルヘシ」)とともに追及されている。
 なお、政府閣僚は米騒動の全国化に対して、「今回の騒擾、概ね大阪朝日新聞販売区域に係る」(国立国会図書館蔵「田健次郎日記」8月13日条)というように、『大阪朝日新聞』の報道による影響と認識していたようだ。

富山県警察部長による新聞各紙の評価


3.全国で報じられた富山県の米騒動

 次に、全国各地で富山県の米騒動がどのように報じられたかである。
 全国各地へ米騒動が飛び火した8月中旬以降、報道は都市部の暴動的な騒ぎや軍隊の出動に注目が移るため、富山県の米騒動はかすんでいく。そのため、8月上旬の各地での初報記事等に着目した。
 富山県の米騒動が県外でどのように報じられたかについては、井上清・渡部徹編『米騒動の研究』1巻(有斐閣、1959)で紹介されているが、朝日新聞・毎日新聞系を除くと、下新川郡泊町出身の細川嘉六を責任者として大正15年(1926)~昭和8年(1933)にかけて収集された米騒動関係史料-「細川史料」(法政大学大原社会問題研究所蔵)-の調査成果に拠っている。富山県史編纂班も細川史料の複写は行っているものの、これ以上の調査は行っていない。これらは10紙余の新聞記事報道を挙げるにとどまっている。
 当時、新聞社は外地も含めた全国に少なくとも130社以上存在しており、主に国立国会図書館、同館が所蔵していない紙面については新潟・石川・福井・奈良・兵庫・和歌山・鳥取・広島・福岡県内の図書館や文書館で、約100紙について調査を行った。時間等の制約から一部調査が及ばなかった紙面もあるが、紙面が現存し富山県の米騒動を事件記事等として報じていたことを確認できたのが別表の52紙である。
別表pdf
 各地の新聞を確認していくと、『高岡新報』は北海道・東北・外地を除くほとんどの地域に直接情報を送っていたとみられる。未送の地域にも東京や大阪の大手紙から情報が転送され、8月9日以降は『大阪朝日新聞』による情報も加わって全国各地で富山の米騒動が報じられた。ただ、激しい騒動が起きた宮城・兵庫・和歌山・広島県の主要地方紙は富山県内の米騒動を事件報道として一切扱っていないが、社説・論説記事を見る限り、情報自体は把握していたことがうかがえる。例えば『中国新聞』(8月11日)は「遂に暴動起る」とした論説記事のなかで、「富山の一揆を他所事に話して居た広島県にも愈飛火がした」とあり、報道するほどではない、もしくは自重といった判断をしていたのかもしれない。
 今回の調査結果を見てみると、滑川町の騒動を扱った記事が89件、西水橋町64件、東水橋町58軒、富山市21件、魚津町18件と続く。数字上では東西水橋町も多いが、実際の紙面では見出しでも「滑川」の文字が目を引き、滑川町の騒ぎについて紙面の多くを割いていた。これらのことからも分かるように、〝発祥地〟云々ではなく、この時代を生きた人々の脳裏には、「米騒動といえば滑川」といったイメージが深く刻み込まれたことは想像に難くない。
 先述した富山県の騒動を報じていない新聞の論説記事には、発端として「富山県」や「東西水橋町・滑川町」が挙げられるものもあるなか、「各地の米騒動なるものは之か端を富山県滑川の女一揆に発し、燎原の勢ひを以て漸次各地に蔓延せんとす」(『神戸又新日報』8月13日)といったように、各紙の報道によるインパクトから滑川と断じているものも見られる。
 また、富山県内においても同様な傾向が確認できる。米騒動後、滑川町ではいち早く普選運動が始まるが、これを報じた『北陸タイムス』(10月6日)は「滑川は女性の示威運動起り全国米騒擾の先駆をなして凝視されし町」と記す。同紙は大正11年(1922)に「女一揆物語 米騒動の真相」(8月12~14日)という連載を行っているが、ここでは「所謂米騒動なる者(ママ)があって今年で五ヶ年はたった、米騒動と云へば滑川の女、滑川の女と云へば米騒動、両者は茲に離るゝことの出来得ない腐り縁の業縁につながれた」と始まる。この連載は、滑川ではなく8月初めの東水橋町が発祥だったという〝新事実〟を発見したとの内容であるが、7月下旬の騒ぎから報じ、積極的な米騒動報道を繰り広げていたはずの地元紙ですら、このようなイメージを抱いていたことが分かる。
 この傾向は戦後初期の教科書にも引き継がれる。昭和28年(1953)検定の東京書籍の教科書(中学校)には、「滑川町の漁民の主婦たちが口火を切り」と記載されていた。これが「富山県の漁村の主婦」との表現に変わり、昭和50年(1975)頃から〝発祥地〟として「魚津」が現れてくる。

おわりに

 戦後以降の研究の進展により、7月下旬の魚津町、6月下旬~7月上旬の東水橋町の米騒動が注目されたことで、富山県内では〝発祥地〟が大きくクローズアップされ、人々の関心もそこに集まっていった。
 今回の調査結果を通じて、滑川を米騒動の〝発祥地〟と唱えるつもりはない。一ついえるのは、時代の大きな画期となった出来事に対し、当時の人々の記憶の中に強烈な印象を与えたのが滑川だったということである。このことが今も「米騒動といえば滑川」と市民に語り継がれ、記憶されてきた意味ではないだろうか。

※本稿は、近藤浩二「新聞報道と滑川町の米騒動」(『米騒動100年 滑川から全国へ』、滑川市立博物館、2018)をもとに執筆した。展覧会の詳細や主要参考文献等は、展示解説図録『米騒動100年 滑川から全国へ』をご参照いただきたい。