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明治から昭和戦前期制作の漆芸図案ならびに下図の研究
宝田陽子(高岡市美術館)
1.はじめに
彼谷芳水(かやほうすい)(明治32~平成6 1899~1994)は、大正から平成にかけて活躍した高岡市出身の漆芸家である。三代石井勇助(明治9~昭和13 1876~1938)に師事し、明治期の万国博覧会や内国勧業博覧会において特色ある高岡漆器の名声を高めた「勇助塗」直系の技を受け継ぎ、昭和39(1964)年には富山県無形文化財保持者に認定されている。
彼谷芳水を調査する過程で、筆者は漆芸下図類が彼谷家に多く遺されていることを知った。遺族の話では、これらは作家本人によって分類されていたという。そして、すべてが彼谷の作品下図というわけではなく、さらに先代に遡る石井勇助のもの、彼谷が勤めていた富山県工業試験場の資料も含まれているという見込みがあった。
彼谷がどのような意図をもってこれらの資料を収集し、また分類をしたのか、不明な点は多い。だが、置目の跡が残る下図は、それだけで非常に膨大な数の漆芸品が過去に制作されたという証であるとともに、所在不明の完成作品に代わり明治・大正・昭和期の工芸図案を研究するための貴重な資料となりうる。その保存と活用を念頭に、筆者は平成28年度富山県美術館・博物館研究補助を申請し、まずは資料の内容を確認することを優先して、撮影、記録を作成した。この過程で分かったことに若干の考察加えて、本研究の報告としたい。
2.資料の整理と分類
平成30年3月までに調査した資料は、別表1のとおりである。
3.資料の種類
資料について、次のように用途ごとに区別した。
A.参考資料 粉本・手本・原画(写真や既製印刷物の切り抜きを含む)
B.図案
C.設計図
D.下図
E.拓本(乾拓)
Aの粉本・手本は、現時点では時代・原作者が未詳であるが、勇助塗の系譜において唐様人物図が必須の画題であったことを考えると、石井系、または勇助塗の伝統的図様の研究の資料になると思われる。原画は、出版された画集などを応用して漆芸図案を起こしたことが考えられる場合の原資料である。
Bの図案は、ラフ案で未制作の可能性のあるものも含む。器物の文様や意匠を示すもののうち、裏に置目がない点でDの下図と区別した。なお、Bを経てDを作成、さらに実制作したと考えられる例もある。
Cの設計図は、加飾前の器物の設計を記すもので、仕上がり寸法や木地の素材の書き込みがみられるものもある。漆芸家が木地師にあて発注書として作成したもの、漆芸品の発注主との確認に使用されたものなどの可能性がある。総量に対して記名・年記のある資料は少ないが、「石井勇介」の記名や印章がある図もみられ、筆跡や描き方により比定すると、多くが石井家から弟子筋の彼谷芳水に伝えられたものと考えられる。飾棚は明治期の内国博覧会に高岡からの出品も多く、「棚類」【う】に含まれる資料の多くが明治末から大正ころの制作ではないかと推測される。また、数量の多い「床卓・台」【く】も記名のある資料が少ないなか、やはり描き方からほとんどが石井系のものと推測される。これらは「床卓の天板 箔絵 錆石貝」【た】に含まれる図様の多くが唐様人物山水図であることと合わせると、勇助塗が得意としたものを例証する資料になりそうである。一方、【う】【く】に例の少ない富山県工業試験場製と考えられる設計図が「盆・膳類」【か】「挽物 椀・盛器等」【さ】のなかでは増加し、石井系の資料との対比にそれぞれが目指したものの違いが表れているようで興味深い。[写真1、2]
Dの下図は、和紙に墨または鉛筆などにより描かれた図案で、裏面に置目の跡が残るもの。これを器面にあてて軽く擦り、転写された線をもとに蒔絵などの加飾を施す。よって置目がある図案は実制作された可能性が高いと考えられる。置目には焼漆のほか、消粉蒔絵の場合は石黄(雄黄 ヒ素の硫化鉱物)や砥の粉を水に溶いたものが用いられる。また、高岡では彫刻塗には青竹を溶いた染料系、青貝塗は紅柄(弁柄 酸化鉄)を溶いた顔料系のものが使用されるという〈註1〉。今回調査した資料でも、複数の顔料を使用した置目が確認できた。
Eの拓本(乾拓)は、器面から盛り上がりのある加飾技法である錆絵、玉石象嵌や、凹凸がある彫漆、彫刻塗などの完成作品の表面に紙をあて、墨や鉛筆などで擦りとったもの。拓本からさらに墨で線を起こし、置目をして複製したとみられる資料も確認された。このことは、石井系の工房製作を考える上で示唆的である。
4.資料の考察
平成30年3月現在、記録を終えた資料のなかには、記名により製作者が判明したもの、年記により制作年代が明らかなものがある〈註2〉。製作者に注目し、点数を挙げると次のようになる〈註3〉。
ア. 石井…10点
イ. 石井勇吉…6点
ウ. 石井勇介…19点
エ. 彼谷芳水…58点
オ. 竹林鶴南…33点
カ. 北村…1点
キ. 岡田雪城…2点
ク. 田島城月…12点
ケ. 中川文吉…1点
コ. 新村弥三郎…1点
サ. 尾竹越堂…2点
シ. 高島…1点
ス. 雪堂…1点
セ. 富山県工業試験場…28点
ソ. 富山県工業会高岡部会…4点
タ. 農商務省製図掛…1点
(計180点)
(1)石井系について
ここで、あらためて石井家の系譜を整理しておく。勇助塗は藩政期末に高岡で初代勇吉(文化6~明治19 1810~1886)が創めたといわれ、その長男に勇吉(天保14~明治30 1843~1897)、次男に與三吉(嘉永4~大正14 1851~1925)がおり、ともに父の仕事を助けた。長子が代々「勇吉」を継承し、與三吉はのちに分家して「勇介」を号とした〈註4〉とされるため、伝記に混同がみられる場合もあり注意が必要であるが、1873(明治6)年のウィーン万国博覧会、1877(明治10)年の第1回内国勧業博覧会など、国内外の博覧会に積極的に出品していたのはおそらく二代勇助と考えられる〈註5〉。また、二代目までは指物師も兼業していたという〈註6〉。この長男が三代勇助で、與三吉の娘と結婚した〈註7〉。その長男が昭和3(1928)年に30歳で早逝すると、直系の勇助塗の系譜は途絶えることになった。
石井家直系の作品のうち、当館所蔵の二代勇助作《福寿文勇助塗飾棚》[写真3]は、明治政府が主導して万博出品に向け工芸品の図案調整を行った成果をまとめた『温知図録』(東京国立博物館所蔵)や、『第二回内国勧業博覧会列品図録』(富山県立図書館所蔵)に掲載されている棚の図と類似することが以前から知られていたが、1881(明治14)年の第2回内国勧業博覧会博覧会出品を前に製作者に渡された図案〈註8〉が彼谷家資料に含まれ伝世することが判明した【ゆ‐1】[写真4]。図案右上には「勧商局製品画図掛印」割印がある。政府が積極的に図案指導を行ったのはウィーン万博後の明治8年から第3回内国勧業博覧会開催前の明治18年までの間(1875~1885)とされ〈註9〉、同様に政府機関の割印がみられる図案もほぼこの時代の制作と考えられる。
《福寿文勇助塗飾棚》はこのように傍証資料が豊富ではあるが、それゆえに勇助塗の典型的な作風を示すとは言い難い。「勇吉」の記名のある資料は、先に示したように今回の調査資料のなかに確認されたものはごくわずかで、同名ゆえに二代、三代目の判断も難しいが、「勇介」銘のある資料とあわせて検討することで、それぞれの実像がより明らかになると思われる。
今回調査した資料の銘だけを頼りに図案の傾向を知ることは難しいが、16点中8点に確認できる「勇介」銅鐸印[写真5]は当館所蔵の勇介作品4点中2点とも共通している。個人の所蔵品においても、この銅鐸印のある勇介作品を比較的よく目にする。また、「大正辛酉(1921)年七十一才勇介造」という年記・記名のある資料【く‐87】[写真6]のような、粗さのある筆跡は、他の無記名の資料にも同様の手をみることができ、明治30年に55歳で没している二代勇助に比べると、弟の與三吉は晩年の大正末期まで比較的長く制作を続け、多作であったことが想像される。
仏前や神前に香炉、花瓶を供えるための用途から、床の間飾りや座敷の調度として使用されるようにもなった卓(しょく)は、資料数の多さからみても、石井系の作家たちが得意とする分野だったと思われる〈註10〉。「床卓・台」【き】と「床卓の天板 箔絵 錆石貝」【た】を一連の資料と考えると、【た】には唐様の人物山水図が多く確認され、箔絵、錆石貝という技法とあわせて、勇助塗の特徴が浮かび上がる。また、【た‐26】【た‐27】[写真7、8]のように、同じ意匠の異なる手になる下図も確認され、両図に省略や巧拙の差があることや、【た‐20】[写真9]【h24‐944】のように、同じ意匠を床卓の天板と棚の戸板という縮尺を変えて再利用する例〈註11〉がみられることなどは、工房制作の実像を知る手がかりとなりそうである。
(2)彼谷芳水について
彼谷芳水は12歳で三代勇助のもとに内弟子入門し、漆芸の道に入った。14歳のころ、師の勧めにより東京美術学校出身で富山県立工芸学校の絵画教師を勤めていた円山派の中島秋圃(明治11~昭和36 1878~1961)について絵画技術を学んだといい、ここで「芳水」の号を受けた。大正8(1919)年に年季が明けると、昭和4(1929)年まで石井家で塗の主任を務め、その後富山県工業試験場に勤務、昭和30(1955)年まで県の技術吏員として工芸指導の中心にあった。退職後も引き続き美術工芸界の要職を歴任し、美術展覧会への積極的な出品も行っている。彼谷の活動を三期に分けると、石井家との関わりが深い大正中期から昭和初期を第一期、昭和初期から中期までの工業試験場時代を第二期、日展、現代工芸美術家協会、日本新工芸家連盟などに関与した昭和30年代から晩年までを第三期、とすることができるだろう。本研究の時代的な対象は、この第一、第二期である。
彼谷の製作とみられる資料で確実に制作年代がわかり、上述の第一、第二期に該当するものは、大正時代の年記のある図案【ね‐39】[写真10]【は‐7】[写真11]【へ‐35】、完成品の写真との比較によりわかる下図【は‐5】【ひ‐14】、昭和6(1931)年第18回商工展出品作《彫漆牡丹文飾盆》下図【h24‐973】、昭和11(1936)年改組第1回帝展出品作《名石嵌漆器飾箱》下図【あ‐79】[写真12]、昭和22(1947)年第3回日展出品作《貝石象嵌彫月見草之手筥》下図【と‐5】、昭和26(1951)年第7回日展出品作《石嵌入彫漆夕顔の棚》図案及び下図【あ‐18,19,29】などの17点である〈註12〉。「喜雀庵」角印のある図案は16点、下図が10点で、いずれも絵画的、写実的な傾向がみられる。これらの制作年代について、角印の使用時期や揮毫から時間を経た押印である可能性を考慮した上で、さらに検証すべきだろう。「彼谷芳水」の記名のある資料は設計図が多く、石井系に近い高卓、平卓が1点ずつみられるが、それ以外は形状や書き方など、石井系と趣がずいぶん異なるという印象を受ける[写真13]。これらは、昭和初期の工業試験場周辺のデザイン指導と工芸界の動きを考慮すべきだろう。
大正2(1913)年に発足した富山県工業試験場は、全国で15番目に設立された公設の指導機関で、日露戦争後に国内の重工業が躍進した反面、軽工業の輸出が低迷したことを背景に、地方で生産される工芸品の改良を目的として誕生した。当初より銅器部と並んで漆器部が設けられており、彼谷が在籍した昭和初期には、「輸出貿易品の研究、輸出向金属漆器の研究など輸出向け漆器試作研究」が課題として記録されている〈註13〉。「リキュールセット」【さ‐73】や、工業試験場「漆工部」の印がみられる「漆器花瓶」【し‐48】などの設計図は、こうした取り組みのもと制作された可能性がある。工業試験場製作の設計図、図案にどの程度彼谷が関与しているか、検証が課題として残る。
ところで、大正期から昭和初期に開催された農商務省(大正14年より商工省)主催の農展(商工展へ継続)は、当時工芸家たちが唯一出品することができる官展であった。当初、県内からの出品は低調で、工業試験場が中心となり積極的な参加を促した。こうした中央展への参加は、地方に中央の工芸の動向を伝える重要な役割を果たし、若い工芸家を大いに刺激したと思われる。彼谷は昭和5(1930)年の第17回商工展に出品し、褒状を授与されている。また、昭和初期には、東京美術学校助教授で「无型」など先進的な工芸運動の中心にあった富山市出身の漆芸家・山崎覚太郎(明治32~昭和59 1899~1984)、高岡市出身で商工省工芸指導所の初代所長に就任した国井喜太郎(明治16~昭和42 1883~1967)など、地元出身で影響力のある指導者たちが揃い、工業試験場では一層先取的な気風が高まっていたのではないかと推測される。おりしも、「構成派」が流行〈註14〉し、それ以前の保守的な工芸の潮流を一蹴しようとした時代に重なる。その影響は、彼谷をはじめ、工芸試験場系の図案にも現れているのではなかろうか。実制作された作品の多くが所在不明のなか、彩色の様子がわかるこれらの資料は、昭和戦前期のデザインの傾向と漆芸品制作の状況を知るうえで、貴重な情報源となるだろう〈註15〉。
(3)城端の漆芸家と竹林鶴南について
竹林鶴南(明治23~昭和24 1890~1949)〈註16〉、岡田雪城(明治26~昭和13 1893~1938)、田島城月(明治28~昭和13 1895~1938)、中川文吉(生没年未詳)は旧城端町(現・南砺市)の漆芸家である。ほとんどが「純蒔絵 城端風図案」【て】に含まれ、この分類にある資料は355点と今回調査したなかで最も多い。城端は治五右衛門(じごえもん)による一子相伝の城端蒔絵が有名だが、塗り方には門下生をとり、その流れをくむ系譜がある。城端の漆器製造は明治中期から昭和初期にかけて最盛期を迎えたという〈註17〉。
岡田、田島は十二代治五右衛門白晁(慶応3~大正7 1867~1918)門下で、田島は早くから俳句の才を発揮、はじめ天柱庵城月、のちに城月子を名乗った〈註18〉。大正7(1918)年には漆芸の道を離れたとあり、12点すべてが蒔絵のための図案であるならば、制作年代の幅もおのずと狭まってくる。いずれの画も、俳句を嗜んだ経歴をしのばせる文学的要素がある。
一方、岡田は確実にわかる資料が2点と限られているが、筆跡を比較検討することでもう少し関連資料が増えると思われる。治五右衛門塗は白晁没後、十三代が京都へ移住したことで一時途絶えるが、この間城端蒔絵の命脈を保ったのが岡田だったという。大正12(1923)年の東宮殿下御成婚にかかる献上品製作のために選ばれた工芸家のなかに、岡田は県内で唯一抜擢されるという名誉を得ている〈註19〉。大正10(1921)年の第9回農展で《城ヶ(ママ)端鶏の図漆器香合》、翌年の第10回農展で《菊花小禽の漆蒔絵小棚》(前川佐一案)、大正13(1924)年の第11回農展で《石楠花書棚》にそれぞれ褒状を授与されているほか、第13回、16回商工展への出品が確認されるが、興味深いのは大正14(1925)年の第12回商工展の目録において「生駒弘案 岡田雪城作出」の並記が認められる点である〈註20〉。図案制作者と漆芸技術者が異なることは工芸品の製作において珍しくはないが、ここでは生駒弘(明治25~平成3 1892~1991)の名に注目しておきたい。秋田県出身の生駒は東京美術学校漆工科を卒業後、大正7(1918)年から昭和2(1927)年まで高岡に赴任し、富山県工業試験場、高岡市立商工補習学校〈註21〉において制作指導を行った。生駒は漆器制作におけるデザインと生産性の向上に先進的に取り組んだことが知られており、とくに後任地である沖縄での活動に関する研究が進んでいる〈註22〉が、富山県内に及ぼした影響についても、あらためて検証する余地がある。大正から昭和初期にかけての、富山県工業試験場を拠点とした指導者たちの高岡以外の県内在住工芸家たちへの影響を知る上で、先のような協働を示す例にも留意しておきたい。
城端系の作家のうち、最も資料が多かったのが竹林鶴南である。「鶴南」印のある下図には年記から大正初期の制作とわかるものがあるが【あ‐93】[写真14]、瀟洒な蒔絵の完成品が予想できる写実的な画風である。それ以外の資料には、「竹林様」など、竹林が図案の受け取り手であることが推測される書き込みがある。その一例である【あ‐22】[写真15]は、より造形的な思考に基づいて図案調整がなされているようにみえる。
竹林は第11回農展に《鳳凰唐草手筥》、大正15(1926)年第13回商工展に《小筥(寒梅模様)》を先述の生駒の図案による制作で出品しており、やはり工業試験場との関わりがあったと推測される。《鳳凰唐草手筥》の下図類は彼谷芳水旧蔵資料のなかに確認できないが、作品図版をみるかぎり、大正期の農展における技巧重視と唐草文様の流行を面影に残しているように思われる。
この後、竹林の商工展への出品は確認できないが、このころ、中央展をめぐる工芸家たちの動きにも変化があった。昭和2(1927)年の帝展工芸部門の新設に伴い、純粋美術を志向する工芸家は帝展への出品を目指す一方、商工展ではより「現代的」な出品が奨励されるようになり、展覧会の様相に変化がみられたという〈註23〉。昭和初期を席巻した構成派の登場である。東京における「无型」の活動とともにその作風は流行の相を呈するが、同人の一人・山崎覚太郎の存在が大きかった富山では、地方にありながらその影響を強く受けた。「丸形蓋付菓子器」【h24‐1020】[写真16]はこうした時代の作例のひとつだろう。
また、竹林は昭和16(1941)年に《夕顔朝顔図風炉先屏風》が第4回文展初入選する。宮内省に買上げられたこの作品は城端白蒔絵だったというが、図案【h24‐110,111】[写真17]が残っており、その色彩をしのぶことができる。このころから、文展への出品は戦時体制のなかで作家活動を継続させるための必須条件となり、県内在住の工芸家の入選は増加した。竹林は戦後間もなく没しており、彼谷家資料はその活動全期を時代的にはカバーしている。竹林については、実制作された作品との比較により作家像を鮮明にすることを今後の課題としたい。
5.まとめと課題
以上が、現在確認できる資料からの考察である。平成28年度の調査に際しては、指示書・発注書を含む設計図が思いのほか多く、当初想定していた、文様・意匠から漆芸品のデザインの変遷を辿るまでの十分なサンプルを採取することができなかった。引き続き、検証のための比較材料を集めていきたいと思うが、明治・大正・昭和初期の間にデザインがどのように変化したかを探るのは容易ではなく、複数の潮流が同時にあることも考慮しておかねばならないだろう。時間軸に沿った考察ばかりでなく、中央と地方という問題、公的指導機関の先進気質と地元業界の保守的気風の葛藤も考慮する必要があり、当然、この問題は下図の解読だけで事足りるものではない。
今回調査した資料のなかには重要な情報も少なからずあり、画像化と記録化によりのちの追跡調査のための検索をしやすくなったことが一番の成果だといえる。今回の調査と記録が、地域の工芸史の構築に少しでも役立てば幸いに思う。資料をご提供いただいた彼谷家のご遺族の皆様をはじめ、調査と保存のための研究助成をいただいた富山県博物館協会関係各位の皆様に感謝を申し上げたい。
※写真はすべて転載を禁止します。
註
1 『高岡漆器の技術・技法・歴史 調査報告書』伝統工芸高岡漆器協同組合、2014年 参照。
2 【あ】~【よ】、平成24年度調査分含む。
3 一部には図案製作者名と図案提供を受けた製品製作者名が併記された資料があるが、ここでは、製品製作者名を優先して点数を数え、重複を回避した。
4 與三吉の分家は明治10(1877)年ころか。農商務省編『府県漆器沿革漆工伝統誌』1886年、77頁参照。長男與八(明治20~昭和19 1887~1944)は「勇介」号を継承したようで、初代没後の第17回、第20回商工展(昭和5、8年)に「石井勇介」名の出品がある。
5 石井勇吉のウィーン万博出品について、現在確認できる文献の最も古いものは『高岡史料』(高岡市役所、1909年)で、ここでは二代目の事績としている。『明治期万国博覧会美術品出品目録』(東京国立文化財研究所、1997年)のウィーン万博の項にある「1960 三二五 料紙箱 朱地沈金青貝入桐鳳凰模様・箔絵 一 七尾縣出品」が該当すると考えられる。『高岡史料』は二代目没後12年の記事だが、父名を勇助とし、二代目が「勇介(ママ)塗」を始めたとする。実際には、二代、三代目が制作したと考えられる漆芸品の銘は「勇吉製」と記すものが多く、号としての「勇助」がいつごろから使用されたかを文献資料から明らかにすることは難しい。本研究では、彼谷芳水収集の資料を扱うことから、彼谷が関与した文献に残る「勇助」という号を便宜上直系の継承者にあてて使用する。
6 『高岡史料 下』653頁
7 彼谷芳水直筆の石井家系図による。
8 横溝廣子「明治政府による工芸図案の指導について」(『東京国立博物館紀要第34号』1999年所収)章末資料にある表「『製図送付記』記載事項一覧」によると、宮下という画工が作画した図案と考えられる。
9 前掲論文参照。
10 床卓などの唐風の曲足は高岡木地師の特技とするところだったという。『富山県漆工総覧』富山県工業試験場編、1971年、36頁参照。
11 【h24‐944】は「箔絵 山水唐草」にある資料だが、近年個人所蔵の棚の下図であることが確認され、箔絵、錆絵で加飾されていることがわかった。なお、戸板の裏面には「勇介」銅鐸印が確認でき、石井勇介の制作である。
12 彼谷芳水関連資料については、基本的には作者自身が本調査対象の資料群と分けて保管していたと思われ、平成24年度の調査時にその存在を確認しているが、本研究では触れない。
13 『富山県工業技術センター100年史』富山県工業技術センター、2013年、50頁参照。昭和3、5、7~9、12、14~15年の取り組みとある。
14 昭和初期の「構成派」流行については、比嘉明子「大正・昭和戦前期における工芸産業の振興に関する研究」(千葉大学学位申請論文、1996年)が詳しい。
15 ただし、工業試験場では戦後昭和30年代頃まで引き続き輸出振興のための指導が盛んに行われており、彼谷家資料のうち、「富山県工業試験場」の関与を示す図案にも相当数、戦後の製品が含まれている可能性がある。
16 竹林の生没年については、南砺市立福光美術館渡邊一美氏より情報提供をいただいた。
17 城端漆器の状況については、『富山県漆工総覧』によった。
18 『城端町史』1959年、613頁
19 前掲書1075頁
20 『商工省第12回工芸展覧会図録』(フジミ書房により1999年復刻)参照。
21 高岡市立商工補習学校は、明治35(1902)年市立高岡商業学校内に付設された夜間2年制の学校に始まる。就業者を対象としたが、当初は生徒応募の不振が続いたため、しばしば規則改正を行っている。大正4(1915)年に工業科を新設、同8(1919)年に分離独立し、このころ大改革により充実した教育を行ったが、昭和10年ころに軍事教練に重点がおかれると、実業学校としての特長は後退したという。『高岡市史 下巻』1969年、939頁参照。
22 比嘉前掲論文、「紅房‐昭和を駆け抜けた沖縄の漆器とそのデザイン」展(浦添市美術館、2005年)など。
23 比嘉前掲論文第三章参照。