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縄文土器の制作技法~朝日下層式土器を題材として~
大野究(氷見市立博物館)
はじめに
氷見市立博物館は昭和57年8月1日に開館し、常設展示室では氷見地域の歴史・民俗について、「あゆみ」「とる」「つくる」の三つのテーマに沿って展示を行っている。
開館から25年以上が経過し、その間地域の歴史について新たな知見が増え、資料もより一層充実してきているが、スペースや財政上の問題もあり、大規模な展示替えを行えないでいるのが現状である。
それでも少しでも新たな成果を活かすべく、小コーナーごとの切り替え、資料の入れ替え・追加などの作業を継続し、魅力の持続する常設展示を志しているところである。
「あゆみ」コーナーの一角には縄文時代の展示があり、ここでは市内の遺跡から出土した縄文時代の遺物を展示している。今回の研究は、この縄文時代コーナーの展示替えを行うにあたり、基礎的な準備として計画したものである。
展示資料としての縄文土器
各地に建設されている歴史系博物館の常設展示では、通史的な展示を設けて地域の遺跡から出土した資料を時代順に並べている例が多い。
通史的に展示を行うことは、その地域の歴史を大まかにたどることができる長所があるが、特に一般の観覧者の場合、どの博物館に行っても同じような展示に見えてしまい、結果的に印象に乏しいものとなるという短所がある。
当館の展示も、市内の遺跡から出土した資料を時代順に並べたものであり、見学する立場や解説する立場どちらをとっても、ただ流すだけになってしまいがちである。とくに当館の縄文時代の遺物は、完形品が少なく、その傾向が強い。
そこで、当館の縄文時代コーナーの展示替えにあたっては、氷見の縄文時代という地域を代表する要素を取り出し、それを強調した展示にすることで独自性を出し、観覧者の興味を引くものにしたいと考えた。
そしてその要素として注目したのが、朝日下層式土器のうち、細かい粘土紐を貼り付けたタイプの土器である。
朝日下層式土器について
朝日下層式土器は北陸地域を中心に分布する縄文時代前期末の土器型式である。氷見市に所在する国指定史跡朝日貝塚の下層出土資料を指標として設定されたものである。
大正7年(1918)に発見された朝日貝塚が初めて本格的に調査されたのは同10年(1921)であり、内務省の柴田常恵らが発掘調査を行った。
この時の調査ですでに、下層から出土する縄文土器が「珍ラシキ「モザイク」式ノ土器」として注目され、上層の縄文土器との差に注意が払われている。すなわち細かい粘土紐を貼り付けた特徴的な文様が目を引いたのである。
縄文土器の文様は平面的なものだけでなく、立体的に粘土を盛り上げたり、貼り付けたりする例も多いが、ソーメンのような細かい粘土紐を貼り付ける方法は、前期末にみられる特徴的なものである。
氷見の遺跡の資料が標識となっているという学史上の点、細かい作業によって施された独自性のある文様である点、こうしたことから細かい粘土紐を施した土器が、一般の観覧者に縄文時代の氷見を印象付ける格好の資料に成りうると考えた。
朝日貝塚の朝日下層式土器
当館が所蔵する朝日下層式土器は、昭和初期に東京帝国大学から地元に返還され、氷見高校歴史クラブが保管していたものであり、当館開館に際して移管されたものである。これに加えて、平成15年度末には故湊晨氏所蔵の資料が当館に引き継がれた。
これらの朝日下層式土器の中から、展示資料候補となる細かい粘土紐を貼り付けた資料を取り出し(写真(1)~(4))、整理作業を行った。
作業の結果、旧氷見高校所蔵のものと、旧湊氏所蔵の資料とで接合できる資料があり、底部が欠損するものの、1点の土器がほぼ完形に復原できた(写真(1))。これを含めて、粘土紐貼り付けによる文様の構成や施文の方法などについて観察を行った。
朝日下層式土器の分布
朝日下層式土器の例は永らく朝日貝塚以外には資料が乏しく、不明な点が多かったが、昭和50年代に行われた真脇遺跡(石川県能登町)の調査で良好な資料が多数出土し、さらに朝日下層式のうち古い要素をもつ一群が、真脇式土器として区分された。
その後、富山・石川県のみならず、新潟・山形・秋田といった日本海沿岸地域でも類似の資料が確認されている。
今回は以下の遺跡の資料を比較資料として取り上げた。
(I):上野A遺跡(富山県高岡市福岡町上野)
小矢部川左岸の台地上、標高約30mの地点に立地する。平成13年度、福岡町教育委員会が道路建設に先立つ発掘調査を実施し、縄文時代前期の資料が出土している。
(II):極楽寺遺跡(富山県上市町極楽寺)
上市川左岸の河岸段丘上、河川が丘陵部から平野部へ流れ出る地点に立地し、標高は約110mである。平成15年度、上市町教育委員会が急傾斜地崩壊防止工事に先立つ発掘調査を実施し、縄文時代前期末から中期初頭の資料が出土している。
(III):真脇遺跡(石川県能登町字真脇)
能登内浦に面した小規模な沖積低地に立地し、標高は約10mである。昭和56~60年度に真脇遺跡発掘調査団が農村基盤整備に先立つ発掘調査を実施し、縄文時代前期から晩期の資料が出土した。現在は国指定史跡である。
(IV):重稲場遺跡(新潟県新潟市巻町大字下木島)
角田山東側、西川左岸の台地縁辺に立地し、標高約15mである。平成3年度に巻町教育委員会が土砂採取に先立つ発掘調査を実施したほか、研究者によってたびたび遺物が採集されている。
(V):吹浦遺跡(山形県飽海郡遊佐町大字吹浦)
鳥海山の裾、日本海に面した緩斜面上に立地し、標高は6~16mである。鉄道や道路建設に先立つ発掘調査がたびたび行われ、縄文時代前期末を主体とする遺物が出土している。現在は県指定史跡である。
(VI):坂の上E遺跡(秋田県秋田市四ツ小屋小阿地)
雄物川支流石見川右岸の御所野台地に立地し、標高は約40mである。昭和58年度にニュータウン建設に先立つ発掘調査が秋田市教育委員会によって実施され、縄文時代前期末から晩期の資料が出土した。
モデルによる比較
上記の遺跡から細かい粘土紐を持つ資料を選び出し、紙粘土によるモデルを制作した(写真(7))。
これらの資料は完形品となるものは少なく、ほとんどが破片資料である。そのため類似した文様を比較しやすく、モデルも作りやすいという利点がある。
今回特に注目したのは、二本の横位の粘土紐間に「×」形または「人」形に粘土紐で文様を連続させる部分である。各資料とも左から右へ向けた順番で、粘土紐を貼り付けており、文様の構成のみならず、施文の順番にも共通したものがあると考えられよう。
まとめ
土器の破片をモデル化することによって、朝日下層式土器の一部について文様の施文方法や順序を確認し、他の遺跡例と比較検討することができた。
モデルを使用する利点は次のとおりである。
(1)土器面と粘土紐を色分けすることにより、文様の貼り付け方、構成が分かり易くなり、各資料ごとの比較が容易になる。
(2)完形品のみならず、小さな破片でも展示資料として利用できる。
朝日下層式土器は日本海側北部に広く分布しており、粘土紐の貼り付けにあたっても共通する部分が見受けられた。これによって縄文時代前期末に能登半島から秋田まで何らかの形で人々の交流があったことが裏付けられると考えられる。
今後はこの研究を踏まえて、復元した土器、破片資料、破片モデルを組み合わせて展示替えを行い、成果を観覧者に還元していきたい。
参考文献
秋田市教育委員会 1984 『秋田臨空港新都市開発関係埋蔵文化財発掘調査報告書』
今村啓爾 2006 「縄文前期末における北陸集団の北上と土器系統の動き(上)(下)」『考古学雑誌』第90巻第3・4号
大村正之 1921 「石器時代及古墳時代遺跡」『富山県史跡名勝天然紀念物調査会報告』第2号
上市町教育委員会 2004 『富山県上市町極楽寺遺跡発掘調査概報』
小島俊彰 1985 「朝日貝塚の朝日下層式土器再見」『大境』第9号
小島俊彰・久世建二・原田実 1989 「縄文土器制作技法の一・二」『金沢美術工芸大学紀要』第33号
能都町教育委員会 1986 『石川県能都町 真脇遺跡』
氷見市 2002 『氷見市史』7資料編五 考古
福岡町教育委員会 2003 『富山県福岡町上野A遺跡発掘調査報告II』
巻町 1994 『巻町史』資料編1(考古)
山形県教育委員会 1988 『吹浦遺跡』第3・4次緊急発掘調査報告書
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