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日本画の成立とその名称

中村賢一(セレネ美術館)

1. はじめに

 「日本画ってなんですか?」というのは大変答えにくい質問である。
もちろん具体的な作品は容易にあげることができ、また日本画は、洋画(油絵)と対になって使われる言葉であるから、画材の違いをあげることによって、その内容は一応説明できる。しかし、画材の違いのみを説明すると、どうしても違和感がある。
 こうした「日本画」にまつわる疑問を、この言葉の成立した状況を踏まえながら考察したい。

2. 「日本画」と「油画・油絵・洋画」

 言語的に「日本画」と対応するのは「西洋画」(洋画)であるが、「油絵」という言葉もよく使われる。画材で表すなら、「日本画」には「膠絵」という言葉もあるが滅多に使われない。実際はどうなのか、芸術系大学の専攻や学科をみると下記の通りとなった。

「日本画」・「油画」(ゆが) 東京芸術大学・京都市立芸術大学・愛知県立芸術大学・金沢美術工芸大学・沖縄県立芸術大学・多摩美術大学・大阪芸術大学など
「日本画」・「油絵」 武蔵野美術大学・広島市立大学など
「日本画」・「洋画」 京都造形芸術大学・京都精華大学・名古屋芸術大学・名古屋造形芸術大学・女子美術大学・宝塚造形芸術大学など(そのほか「日展」)
区分がない 日本大学・東京造形大学など

 このことから、「日本画」を「膠絵」と表記するところはないこと、また「洋画」と「油画」は、ほぼ同じ数か、「油画・油絵」の方が多いことから、洋画=油絵という図式が完全に成立しているということが言える。即ち、「洋画」が油絵の具という画材によって認識されているのに対し、「日本画」は、単純な画材による分類以外のなにかによって認識されていると考えられる。

3. 「日本画」という言葉の成立状況

 あらためて手元の辞書で「日本画」を引くと、『古代以来、中国・朝鮮からの影響を受けながら日本で発達した独自の様式を有する絵画。絹や紙に毛筆で描き、主として岩絵の具(顔料)を用いる。西洋画(洋画)に対していう』(大辞泉・小学館・1995年)とあり、「日本絵画」という意味を含むと同時に、「西洋画」の存在が前提として明示されている。
 しかし「西洋画」が入ってきてすぐに「日本画」という言葉が生まれたわけではない。
16、17世紀における南蛮美術の時代も、江戸時代後期もそうである。そして明治時代を概観すると、明治初年から明治10年前半は西洋文化受容の時期であり、明治10年後半から明治20年代が国粋主義の時期、そして明治30年代は両者の共存や融合が模索された時期となるが、明治政府の主催する展覧会や博覧会における出品区分を見ると、西洋受容期は画材で区分する傾向にあり、国粋主義の時期には洋画の出品を拒否し、国内の流派で区分している。従ってどちらの場合も伝統画を総称する「日本画」という言葉は使用されない。
 「日本画」という言葉が使われる契機となったのは、明治15年(1882年)に「龍池会」でフェノロサが行った《美術真説》という講演である。この講演でフェノロサは、「油絵」と「日本画」を明確に対比させ、「油絵」よりも「日本画」の方が優れていることを説いた。西洋文化偏重の中で、伝統画の価値が他ならぬ外国人によって称揚されたのである。
 この言葉が一般に使用され始めるのは明治20年代末からであり、その後定着していく。そして、よく知られるように、フェノロサ・天心らの活躍によって、伝統画とも違う新しい日本画が生まれていくことになる。
 つまり「日本画」は、自然と生じたのでもなく、日本人が危機意識から生み出したのでもなく、まずフェノロサという西洋人の眼によって打ち立てられたのである。

4. 明治政府とのかかわりと、新旧の「日本画」

 今日きわめて一般的な「美術」という言葉は、明治6年(1873年)のウィーン万博の出品区分として初めて使用された。今の「芸術」に近い意味である。また従来の「書画」に変わり、「絵画」という言葉も新しく使われはじめる。このように、西洋文化にあわせて新造語が作られていったことは、それを受け入れ、また肩を並べようとする明治政府の動きを示している。
 また、お雇い外国人ワグネルの建言でウィーン万博の出品の中心にすえられた陶磁器・七宝・漆器などの伝統工芸品が、諸外国の高い評価を得て輸出に結びついたことから、伝統の見直しもあった。明治12年(1879年)に結成された伝統美術保護的な団体「龍池会」も、そのメンバーは内務省や大蔵省、農商務省の官僚たちであり、古器物保護と殖産興業的な美術の振興を目的としていた。
別の一例をあげれば、洋画科をもたない東京美術学校が開校した明治22年(1889年)は、ちょうど明治政府が憲法を発布した年であり、これから新しい日本の礎を築こうとする両者の歩みは同調しているようである。
 これらのことは、この時代の美術が政府の政策と密接に結びついており、純粋な理念だけで成立したものではないことを示している。
 そうした政府の中で、フェノロサ・天心は文部省官僚として美術行政を担い、東京美術学校を開校するなどして、革新的な日本画を成立させていく。一方、殖産興業を担った省庁の実務者たちで構成される「龍池会」は、博覧会や美術展を主催し、伝統的絵画を擁護した。
 これらの日本画の美術的価値に関する問題はここでは触れないが、やがて日本画の中に、日本画革新派(新派)と、伝統保守派(旧派)の二つが生まれていき、明治40年(1907年)に第1回展が開催された文部省美術展覧会(文展)においても両者は激しく争うこととなる。このように「日本画」の中にも意味的に大きな違いがあった。

5. 「日本画」の多義性

 これまでを踏まえて、「日本画」に含まれる意味を考えると、まず、歴史的に日本で生まれたすべての絵画作品を総称する「日本画」がある。これは、「日本絵画」の略であると同時に、伝統画を総称する「日本画」という言葉が成立した後で、過去を振り返ってあてはめた言葉と考えられる。それから、西洋画の流入に際し、明確な意志をもってフェノロサや天心らによって生み出された革新的な「日本画」。さらに、旧派の絵画をも含む「日本画」もある。整理すると下記の通りとなる。
1 画材・技法の意味を含む日本画  (⇔油絵など)
2 歴史的・時間的な意味を含む日本画(⇔江戸時代以前の絵画や現代美術など)
3 地域的な意味を含む日本画    (⇔中国や西洋など)
4 民族的・国家的な意味を含む日本画 (⇔西洋文明)
5 様式的・認識的意味を含む日本画 (新派⇔旧派 2や4もここに含まれうる)
 これらが複雑にからみあっているうえ、時代によっても意味が違う。そのため「日本画」は、一言で説明することが不可能な言葉となった。

6. 日本美術史的視点

 これまで、「洋画」の流入と「日本画」の成立を、きわめて特殊な歴史的事件としてみてきたが、日本美術の歴史は、中国・朝鮮といった外国美術の受容と展開の歴史でもある。とすれば、この19世紀末の出来事もそれにあてはまらないだろうか。武田恒夫氏(日本絵画と歳時、1990年、ぺりかん社、P14~P17)によると下記のようになる。
1 上代においては、中国からもたらされたものはもちろん、中国の主題を取り上げた絵は、たとえ日本人がつくったものであってもすべて「唐絵」と呼ばれた。これに対し、日本の風物や物語を描いたものが「大和絵・倭絵」である。ここでは、主題によって「唐絵」と「大和絵・倭絵」に分けている。
2 中世になって、新たに水墨画を中心とした宋元画がもたらされると、新しいものは「漢画」と呼ばれ、それ以前の「唐絵」と「大和絵」がひとくくりにされて「和画」となった。ここでは、絵画の様式によって「漢画」と「和画」に分けている。
3 近世、中国風画系の画家が「唐画」系にまとめられたのに対し、それ以前からあった「漢画」は、「和画」に含まれるようになる。ここでは画系によって「唐画」と「和画」に分けている。
4 明治になって「西洋画」が輸入されると、「唐画」と「和画」はひとくくりに「日本画」となった。ここでは画材によって「西洋画」と「日本画」に分けている。
 これらの名称は、いずれも外国美術との関係から名づけられている。そして、新しい美術の流入によって古いものが消えることはなく、両者が役割を分担し合って並存していく。
 以前から、「日本画」「洋画」といった区分を廃止し、「絵画」や「平面」に統一しようという考えがあるが、その当否はともかく、ここに見る限り、様々な区分や様式の存在は日本美術の常態であるといえる。
 では、19世紀末の事件がありふれていたかといえば、やはりそうではない。16、17世紀にあった南蛮美術の許容と比べれば、その違いは明白である。国家の政策とも深く結びついている中で、伝統画に西洋画の利点を導入することによって、改良・統一を成し遂げようとした展開は以前には無く、そうすべき強い必然性があったはずである。

7. 結論

 「日本画」は、フェノロサの言葉からはじまり、明治国家の政策とも結びつき、天心らによって新日本画の成立へと至った。
 画材のみで説明したときに生じる違和感。それは、「日本画」という言葉に、伝統に基づいた国家的・民族的な意志が含まれているからに他ならない。そしてそれが成立したのは、当時の必然だった。
 結局「日本画」とは何なのか。
 渓斎英泉は《続浮世絵類考》(天保4年・1833年)の中で、画法筆法などは「唐絵」に帰して、「やまと絵」は日本人の共感を呼ぶ様式とは別の何か、と述べている。
 岡倉天心は、明治20年(1887年)の講演で、『第一 純粋の西洋論者。第二 純粋の日本論者。第三 東西並設論者即ち折中論者。第四 自然発達論者』の四つの道をあげ、日本絵画の進むべき道は第四の道であり、定義などなく自由に描けばよいと言っている。
 菱田春草・横山大観は、明治38年(1905年)12月の帰朝報告《絵画について》で、こう述べている。『唯吾人の筆を執りて絹素に向ふや大和民族固有の趣味期せずして自ら流露し来るもの是れ即ち所謂日本画にして材料其他より差別し来る所の技術の如何に至りては敢て東西を標識する所以に非ずと存候』
 即ち「日本画」とは、画材でも技法でも描かれる対象でもなく、それを見ようとする側の思い入れによって変わる定義できないものであり、これからも、様々な理想や幻想や矛盾を呑み込み、「日本画」と呼ばれ続ける全てのものである。

参考文献

青木茂 編 明治日本画史料 (1991年、中央公論美術出版)
北澤憲明著 境界の美術史-「美術」形成史ノート(2000年、株式会社ブリュッケ)
佐藤道信著 〈日本美術〉誕生(2000年、講談社)

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