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立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅 ―加賀藩支配によって特色が生まれた江戸時代の立山信仰―

福江充(富山県[立山博物館])

キーワード

●立山信仰・●立山曼荼羅(立山曼陀羅)・●山岳信仰・●廻檀配札活動・●護符・●芦峅寺・●衆徒・●檀那場・●修験・●加賀藩・●立山地獄・●立山浄土・●立山開山縁起・●布橋潅頂会(布橋大潅頂)・●立山禅定登山、など

第1章.研究の視座

1―1.加賀藩支配による芦峅寺衆徒の山篭・山岳抖ソウ型修験から御師型修験への移行
1―2.芦峅寺衆徒の御師型修験への移行にともなう諸国の檀那場での廻檀配札活動の重視
1―3.立山信仰の伝播と受容に関する研究の重要性
第1章 註

第2章.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動

2―1.芦峅寺と宿坊衆徒
2―2.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と護符(概略)
2―3.芦峅寺衆徒が製作した護符の種類
2―4.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動をとりまく環境       
[1]岩峅寺衆徒の立山山上・山中管理と芦峅寺衆徒の廻檀配札活動        
[2]芦峅寺村をとりまく自然環境と廻檀配札活動        
[3]芦峅寺衆徒の「渡世」のための廻檀配札活動   
2―5.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と加賀藩        
[1]廻檀配札活動の収益の行方        
[2]加賀藩と廻檀配札活動   
2―6.芦峅寺衆徒が諸国で形成した檀那場の実態        
[1]廻檀に適した檀那場の規模と庄屋とのコミュニケーション        
[2]街道沿いにも形成される小規模の檀那場        
[3]尾張国における檀那場の場合        
[4]信濃国における檀那場の場合        
[5]房総半島における檀那場の場合        
[6]江戸における檀那場の場合        
[7]加賀藩領国内における檀那場の場合   
2―7.芦峅寺衆徒が行った廻檀配札活動の実態        
[1]農村部の檀那場での廻檀配札活動の実態        
[2]都市部と農村部の檀那場の廻檀経路の違い        
[3]衆徒個人の才覚に左右される廻檀配札活動   
2―8.芦峅寺宿坊家間の檀那場での廻檀配札活動をめぐる争い        
[1]各宿坊家が形成した檀那場の入り組み        
[2]姥堂別当職への諸負担と他宿坊家の檀那場への侵犯        
[3]宿坊家間の檀那場をめぐる争論とその解決法   
2―9.芦峅寺衆徒の女性を対象とした勧進活動        
[1]江戸の信徒による姥堂境内地六地蔵尊石像の寄進        
[2]芦峅寺衆徒の血盆経唱導   
2―10.廻檀配札活動に関する参考文献

第3章.立山曼荼羅の諸相

3―1.立山曼荼羅の呼称について
第三章 註
3―2.立山曼荼羅諸本の形態について
3―3.庶民教化に効果をもたらしたの立山曼荼羅   
3―4.立山衆徒の争論と立山曼荼羅        
[1]芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と岩峅寺衆徒の出開帳(立山曼荼羅の使用舞台)        
[2]霊山立山の宗教的権利をめぐる芦峅寺衆徒と岩峅寺衆徒の争論        
[3]立山衆徒の勧進活動と立山曼荼羅   
3―5.立山曼荼羅の制作について
第三章 註2
3―6.立山曼荼羅に描かれた内容    
3―6―1.立山開山縁起     
3―6―1―1.立山開山縁起のあらすじ(以下は、芦峅寺の立山開山縁起にもとづく)
3―6―1―2.立山開山について    
3―6―2.立山地獄     
3―6―2―1.立山曼荼羅に描かれた立山地獄の図像        
[1]内容的には八大地獄に該当・関連する図像及び図柄        
[2]内容的には八寒地獄に該当する図像及び図柄        
[3]六道世界のうち修羅道・畜生道・餓鬼道に関する図柄        
[4]十王信仰に関する図像及び図柄        
[5]血盆経信仰に関する図像及び図柄        
[6]盂蘭盆経信仰に関する図像及び図柄        
[7]その他     
3―6―2―2.越中立山における地獄信仰の展開        
[1]立山山中地獄の発生        
[2]立山山中地獄の展開(古代・中世)        
[3]立山衆徒に喧伝された立山山中地獄(近世・近代)     
3―6―2―3.立山地獄に関する参考文献    
3―6―3.立山浄土    
3―6―4.立山禅定登山案内     
3―6―4―1.立山禅定登山     
3―6―4―2.立山禅定登山案内の場面に含まれる伝説        
[1]藤橋にまつわる伝説        
[2]立山の女人禁制にまつわる伝説        
[3]称名滝にまつわる伝説        
[4]牛になった智明坊        
[5]善知鳥     
3―6―4―3.立山の伝説に関する参考文献
3―6―5.立山山麓芦峅寺の布橋と布橋大潅頂の祭礼
3―6―5―1.芦峅寺の布橋について
3―6―5―2.芦峅寺布橋大潅頂の祭礼内容
3―6―5―3.文政末期以降に急増した布橋大潅頂や立山大権現祭などの祭礼への参詣者
3―6―5―4.布橋大潅頂の祭礼に関する参考文献
3―7.立山曼荼羅に関する参考文献

はじめに

 筆者はこれまで、江戸時代における立山信仰の基本構造を考察するには、どのような題材が最も有効であるかを模索してきた。そうしたなかで、数年前から筆者は芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅をその最たる題材として位 置づけるようになり、最近に至るまで度々検討を試みてきている。
 そこで、以下、なぜ上記の研究が江戸時代の立山信仰史研究のなかで特別 な意味をもつのかといったことについて、まず第1章で筆者なりの視座を示し、さらにそれを踏まえて第2章では芦峅寺衆徒が行った廻檀配札活動の実態、第3章では立山曼荼羅の諸相について紹介していきたい。

第1章.研究の視座

立山連峰の景観
立山連峰の景観
立山曼荼羅 相真B本(個人所蔵)
立山曼荼羅 相真B本(個人所蔵)
1―1.加賀藩支配による芦峅寺衆徒の山篭・山岳抖ソウ型修験から御師型修験への移行

 中世から近世初頭にかけて、僧兵として越中守護職の桃井直常や越中守護代の神保長誠、あるいは越中国主の佐々成政等の武将たちと結びついていた芦峅寺一山に対し(註1)、佐々成政が没落した後、新たに加賀藩支配がはじまると、藩は壊滅政策ではなく懐柔政策をとり、芦峅寺一山が加賀藩に支配される以前から持ち続けていた僧兵的な側面 の取り除きをはかったと思われる。
 天正15年(1587)、新川郡が加賀藩前田家の所領になると、翌年(1588)、利家はすみやかに芦峅寺仲宮寺姥堂に対し100俵の寺領を安堵して藩の寺社支配の組織枠に組み込み(註2)、中央の既成宗教教団との関係を持たせず、徳川幕府の本末制度にもとづく寺院支配が届かないところに芦峅寺一山を置いた(註3)。
 さてその際、加賀藩は芦峅寺一山に対し、山中ゲリラ的な要素を取り除くため、修験道における山中修行を抑制し、その代わりにあくまでも加賀藩の国家安泰や藩主とその家族の無事息災を祈祷する山麓の祈願寺院としての役割を担わせた(加賀藩の公的祈願寺院となった)(註4)。さらに、それによって、衆徒の宗教活動の基盤は立山山中から山麓の自地に移り、立山山中における峰入りや柴燈護摩などの修行は次第に廃れ(註5)、むしろ山麓芦峅寺の境内地での年中行事が増加していった(註6)。
 このような芦峅寺衆徒の「修験」としての性格の推移を宮本袈裟雄氏が提示する修験の性格の四類型(註7)に当てはめて示すならば、1「山篭・山岳抖ソウ型修験」と3型「御師型修験」の混在型(どちらかというと1の性格が3よりも強い)からⅢ型「御師型修験」へと移行していったことになる。

1―2.芦峅寺衆徒の御師型修験への移行にともなう諸国の檀那場での廻檀配札活動の重視  

 芦峅寺村は北アルプス立山連峰の山麓、常願寺川上流右岸段丘上に位置する。すなわち、サトヤマに位 置し、同村の中核をなす芦峅中宮寺は山宮である。一方、岩峅寺村は北アルプス立山連峰の山麓、常願寺川右岸扇状地の扇頂部に位 置する。すなわちサトに位置し、同村の中核をなす立山寺は里宮である。
 加賀藩は、立山に最も近い山宮の芦峅寺には、立山の山自体にかかわる宗教的諸権利〔(1)「立山本寺別 当」の職号の使用権、(2)六十六部納経所の設置権及び納経帳の発行権、(3)山役銭の徴収権、(4)立山山中諸堂舎の管理権など〕を与えず、むしろ山から閉め出すように加賀藩領国内外での廻檀配札活動の権利を与えている。一方、里宮の岩峅寺には、前述の立山の山自体にかかわる宗教的諸権利を与えて管理を任せるのであるが、岩峅寺としては不便なことに立山山麓から山上までの禅定登山道は一本道となっており、その途上、岩峅寺集落と立山山中との間に芦峅寺集落が障害物のように挟まっているため、否応なしに芦峅寺を通 過せざるをえず、そうした状況が何かと争論を起こす引き金となった。
 なお、そうした争論の裁判は加賀藩公事場奉行で行われ、結局は藩が審判するため全て藩の意のままであった。このように、得意な者に得意な職分を与えず、互いに対抗させることでその力を削ぎ、最終的には藩の審判によって服従させるといったしたたかな方策が感じられる(註8)。
 以上、[1]・[2]の視座を整理すると、江戸時代、立山衆徒が加賀藩にがんじがらめに支配されるなかで、特に芦峅寺衆徒については、加賀藩から立山山中にかかわる宗教的権利を奪われ、その一方で以前から行っていた加賀藩領国内外での廻檀配札活動はこれまでどおり認められたので、そちらの活動を重視せざるをえない状況となった。こうした衆徒に対する支配動向が、どこまで加賀藩の作為によるものだったのかは未だに判然としない点も多いが、その状況だけを端的に言い表すならば、結果 的には加賀藩によって「山篭・山岳抖ソウ型修験」と「御師型修験」の混在型(どちらかというと前者の性格が後者よりも強い)から「御師型修験」へと移行させられたのである。それゆえ、芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と、その際に教具となった立山曼荼羅に関する研究は、江戸時代における立山信仰の実相を見ていくうえで、必要不可欠な題材だといえるのである。

1―3.立山信仰の伝播と受容に関する研究の重要性

 立山信仰を「情報」としてとらえると、立山信仰史研究の分野は(1)「情報としての立山信仰の内容」、(2)「情報の発信地(芦峅寺・岩峅寺)と発信者(芦峅寺衆徒・岩峅寺衆徒)」、(3)「情報の受信地(檀那場)と受信者(宿坊家と師檀関係を結ぶ信徒など)」などの要素から成立していることがわかる。  
 これらの諸要素のうち、従来の立山信仰史研究の分野において、(1)と(2)については早い時期から多くの先学研究者によって取り組まれ、かなりの研究成果 が見られる。ただし(2)に関する問題として、情報の発信者である芦峅寺衆徒や岩峅寺衆徒の活動実態については、自山での活動はある程度研究されているが、布教先での活動についてはほとんど研究されていない。それにも増して(3)に至っては、わずかに寺口けい子氏や筆者によるものが見られる程度で、充分に研究が行われているとは言い難い状況である。
 こうした状況に対し、筆者は、前記の(1)と(2)の部分的な研究成果だけでは、本当の意味で立山信仰を理解・解明したことにはならないと考えている。衆徒の布教活動によって日本国内各地に伝播した立山信仰は、伝播先の各地域で衆徒の思惑通 りに受容されることも多かったであろうが、時には衆徒の思惑をはずれ当地の様々な影響を受けて微妙に変化したり、あるいは、檀那場で立山講として成長・維持されていく過程で信徒側の影響を強く受け、極端に変化したりしながら受容されたこともあったものと推測される。
 筆者はこのような変容した立山信仰もまた立山信仰の重要な一面として着目すべきであると考えており、いわば「内なる立山信仰」と「外なる立山信仰」の両方を総体的に研究していくことの必要性を指摘したいのである。なお、こうした視点は、立山曼荼羅の製作発願者である衆徒とその費用負担者である檀那場の信徒、実質的な製作者である絵師の三者間の微妙な力バランスのもとに製作された多くの立山曼荼羅諸本に対する研究にも、大きな意味をもつものと考えられる(註9)。



註1)木倉豊信編『越中立山古文書』(立山開発鉄道株式会社、1962年12月)所収の芦峅寺文書のうち史料番号1・2・4~9・12~19・21~25。木倉豊信「立山古文書について」(『越中立山古文書』所収、343頁・344頁)。
註2)『越中立山古文書』所収の芦峅寺文書のうち史料番号26。「一山旧記扣 永禄・天正・文禄・寛永・延宝等」(廣瀬誠編『越中立山古記録 第1巻』所収、18頁・19頁・27頁、立山開発鉄道株式会社、1989年9月)。米原寛「芦峅寺門前地の形態―宗教村落芦峅寺の場合―」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第1号』所収、1994年3月)。
註3)米原寛前掲論文参照。「当山旧記留覚帳(文化11年)」(『越中立山古記録 第一巻』所収、10頁)。「納経一件留帳 上 文化8~12年」(『越中立山古記録 第1巻』所収、69頁)。天保11年(1840)、岩峅寺24軒の全ての宿坊家が東叡山寛永寺の末寺となることで権威付けを謀ろうと画策したが、加賀藩に阻止されている。また、青蓮院の末寺になろうとも画策したが、同じく加賀藩に阻止されている。以上はの内容は「芦峅寺・岩峅寺山格古式改帳(天保13年)」(『越中立山古記録 第1巻』所収、213~223頁)からうかがわれる。
註4)木倉豊信「立山古文書について」(『越中立山古文書』所収、342頁)。『越中立山古文書』所収の芦峅寺文書のうち史料番号26・28・30・34・46・48~58・61~64・69・70などからうかがわれる。
註5)「一山旧記扣 永禄・天正・文禄・寛永・延宝等」(『越中立山古記録 第1巻』所収、18頁)。
註6)『越中立山古文書』所収の芦峅寺文書のうち史料番号119。「当山旧記留覚帳(文化11年)」(『越中立山古記録 第1巻』所収、5頁・6頁)。「当山古法通諸事勤方旧記(文政12年)」(『越中立山古記録 第1巻』所収、29~52頁)。「諸堂勤方等年中行事外数件(天保13年)」(高瀬保編『越中立山古記録 第4巻』所収、1~64頁)。
註7)宮本袈裟雄「序論 課題と方法」(『里修験の研究』所収、吉川弘文館、1984年10月)。
註8)福江充『立山信仰と立山曼荼羅―芦峅寺衆徒の勧進活動―』(11~40頁・115~136頁、岩田書院、1998年4月)。
註9)福江充「立山曼荼羅の図像描写に対する基礎的研究―特に諸本の分類について―」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第7号』所収、2000年3月)。

第2章.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動

2―1.芦峅寺と宿坊衆徒

 芦峅寺の集落は、富山市街から約30キロメートル南東の北アルプス立山連峰の山麓に位 置し、立山連峰を源流域とする常願寺川上流の右岸段丘上に乗っかっている。同村は平安時代に起源をもち、江戸時代に入ると、立山信仰を護持し全国に布教した衆徒たちの拠点集落として発展した。当時、村内には姥堂・閻魔堂・講堂・開山堂などの諸堂社を中核施設として38軒の宿坊や約70戸の門前百姓家を擁し、加賀藩支配のもと、藩の祈願所や立山禅定登山の基地として、その役割を果 たしていた。そして、同村の衆徒たちは活発な勧進布教活動によって立山信仰を各地に広めたので、立山には修験者に限らず、一般 庶民の参詣者や禅定登山者たちも多くやって来るようになった。
 ところで、日本各地の霊山では、その山岳信仰に関わる宗教者のことを一般 的に御師と称する場合が多いが、芦峅寺衆徒たちのあいだでは学問を重んじる気風が強く、自分たちのことを御師の用語でではなく、あえて経論の学習や法会を司る学僧を意味する衆徒の用語で称している。

2―2.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と護符(概略)

 江戸時代初期、加賀藩は修験の霊場や由緒のある古寺社については再興し、以後、加賀藩の菩提所(例えば天徳院や瑞竜寺など)や祈祷所(例えば観音院や波着寺、宝幢寺など)とともに外護した。そのなかで芦峅寺も加賀藩の外護によって再興され、以後、前田氏一門の息災延命や安産、領内の異変などに対する祈祷所の役割を果 たしていくことになる。いわば加賀藩の公的寺社として、しかも修験道寺院としてではなく、前田家との特殊な関係を強調する外護所として、藩の寺社支配の体制下に完全におさまったのである。しかし、そのために芦峅寺衆徒が本来的に有した修験的な性格は弱まった。
 延宝3年(1675)に芦峅寺衆徒・神主中が加賀藩郡奉行に宛てた書付によると、立山には高貴山と金峯山の両峰があり、かつては峰入修行や柴燈護摩などの修法を行っていたが、それも途絶えてしまったとある。この記述が物語るように、芦峅寺衆徒は江戸時代の比較的早い時期に、例えば、当時大峰山や出羽三山など各地の霊山で行われていたような、山中・山上での峰入などの修験道の修行を行わなくなったようである。
 それよりもむしろ、立山は平安時代後期から既に山中に「生き地獄」のある山として知られ、以後、その立山地獄の信仰がより一層深化し広まりを見せ、江戸時代に至っては、日本人のあいだで立山といえば、その「生き地獄」が見所となっていたので、芦峅寺衆徒は、これを活用した諸国での廻檀配札布教に重点を置くようになったものと考えられる。
 芦峅寺日光坊所蔵の慶長9年(1604)の断簡文書から、規模は明らかではないが慶長期頃既に三河国や美濃国や尾張国の村々に芦峅寺衆徒による檀那場が開かれていたことがわかる。そして近世後期には、芦峅寺宿坊家の衆徒は、例えば日光坊は尾張国、善道坊は三河国、宝泉坊は江戸といったように日本国内の各地でそれぞれの宿坊ごとに檀那場を形成し、毎年、農閑期に檀那場へ赴き、立山信仰を布教しながら護符や経帷子、小間物などを頒布して廻っていた。
 芦峅寺衆徒は多種多様な護符を刷ったが、廻檀配札活動を行った際には牛玉宝印をはじめ諸願成就供養札や護摩供養札、守護札、寿命長久供養札、火防札、姥尊秘法供養札、山絵図(立山禅定登山案内図)などを、また、特に女性の信徒に対しては血盆経や月水不浄除守札、安産守札などを頒布した。さらに時には、その地域の民衆の需要に応え、養蚕祈願や大漁祈願といった種類の護符も頒布した。
 この他、護符だけに限らず、箸、針、楊枝、扇、元結などの小間物をはじめ、反魂丹や貼り薬なども頒布して利益を得ている。こうしたなかで、檀那場の周旋人や特に大金を寄進した檀家、あるいは、旅行中いろいろと便宜をはかってくれた人々には葛や金平糖、茶、椎茸などを進呈している。
 ところで、前掲の牛玉宝印とは、牛の胆嚢内にできた牛黄や胃内にできた牛玉 は病魔除去に効験があるとされ、修正会などの仏教行事で、牛玉加持と称する秘密の修法を行う際に用いられたものである。こうした霊験あらたかな牛玉が、護符の形式をとって流布したものが牛玉宝印である。芦峅寺の牛玉宝印には「立山之宝」と記されたものが見られ、加賀藩に献上されたり、諸国で布教活動を行った際に配られたりした。なお、「立山之宝」には、その形態から牛玉宝印の大判と小判の2種類が見られる。

芦峅寺宿坊家の護符「牛王宝印 立山之宝」(富山県[立山博物館]所蔵)
芦峅寺宿坊家の護符「牛王宝印 立山之宝」(富山県[立山博物館]所蔵)
芦峅寺宿坊家の護符「火防札 火の用心」(富山県[立山博物館]所蔵)
芦峅寺宿坊家の護符「火防札 火の用心」(富山県[立山博物館]所蔵)

2―3.芦峅寺衆徒が製作した護符の種類

 富山県[立山博物館]では、芦峅寺のかつての宿坊家に残されていた多数の版木や朱印を収蔵しているが、これらの資料は、立山信仰の往時に芦峅寺で様々な護符が刷られていたことを物語っている。一方、こうした芦峅寺の実態からすると、現在、雄山神社前立社壇のある岩峅寺のかつての宿坊家にも版木は残されていると考えられるが、これについては、未だに組織的・体系的な調査・研究が行われていないため、その詳細は不明である。そこで、以下、ある程度研究成果 が修められている芦峅寺の事例を中心に紹介したい。
 さて、護符とは、紙や布、木片に神号や仏名、経文、真言、呪術的な絵や文字などを直筆あるいは版木で記し、神璽や宝印を押したりしたものである。祈祷儀礼にともなって作製される場合が多く、こうしてできた護符には神仏の霊が宿るので、これを貼る所には神仏の霊験や御加護があると信じられた。なお、携帯可能な護符は守札と呼称される。
 芦峅寺衆徒はこうした護符を多種多様に刷ったが、その種類は大別して以下のとおりである。  (1)牛玉宝印として「立山之宝」の大判と小判、(2)火防札として「立山火の用心」、(3)諸願成就祈祷札として「立山大宮供諸願成就祈所」、(4)護摩供養祈祷札として「奉修不動明王護摩供家内安全諸願成就祈所」・「奉修護摩供病気平癒祈所」、(5)護摩供祈祷巻数として「立山大宮護摩供巻数」、(6)五穀成就祈祷札として「立山宮五穀成就守護所」、(7)祈祷宝札として「御祈祷宝札」・「御祈祷之札」、(8)姥尊子孫繁昌祈祷札として「立山御姥尊子孫繁昌祈所」・「立山御姥尊子孫繁昌寿命長久所」、(9)秘法供養札として「奉修開山元祖秘法供寿命長久祈所」・「奉修日待大尊秘法供家内安全祈所」、(10)守護札として「立山大権現守護所」・「御守護」、(11)勝木守護札として「除剣難勝木守札」、(12)転読大般 若経に関係して「奉転読大般若経息災延命諸願成就祈所」、(13)星祭供養札として「奉星祭家内安全除災延命擁護所」、(14)大漁祈願札として「立山雄山神社大漁満足祈所」、(15)代参祈祷札として「立山御代参宝札」、(16)神璽として「立山雄山神社御璽」、(17)布橋潅頂会に関して「血脈 立山御姥堂布橋大灌頂」・「変女転男 立山中宮寺大阿遮梨」・「血脈 奉納血盆経一千巻圓頓戒破地獄秘法」・「血盆経一千巻供養功徳書伝燈大阿闍梨(内符)」、(18)月水不浄除守札として「月水不浄除御守」・「月水之大事」・「月水蔵根元秘事」、(19)安産守札として「安産神符」・「易安産守、」、(20)流水灌頂会に関して「血脈 流水灌頂法会因縁機興即生往生極楽」、(21)大施餓鬼法要会に関して「永代大施餓鬼料稟」、(22)経帷子として「胴体」・「肩」・「袖」・「背中」・「手甲」「脚半」・「頭陀袋」・「帯」、(23)経典に関して「仏説大蔵正教血盆経」・「奉納血盆経請取」・「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」、(24)仏画として「立山和光大権現」・「姥尊」・「不動明王」・「秋葉明神」・「太上神仙鎮宅霊符尊」・「立山地獄」、(25)名号・種子・仏言・仏名に関して「南無阿弥陀仏」・「立山・白山・富士浅間の三権現」・「南無地蔵願主大菩薩」、(26)養蚕に関して「養蚕御守」・「蚕養之大神」・「蚕養倍成符」、(27)売薬に関して「薬代金表」など、(28)立山登山案内図として「越中国立山禅定名所附図別当岩峅寺」(岩峅寺版)・「越中国立山禅定並略御縁起名所附図」(芦峅寺版)。この他、(29)位 牌の雛形や(30)宿帳の雛形、(31)各種証状の雛形などが見られる。

2―4.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動をとりまく環境

[1]岩峅寺衆徒の立山山上・山中管理と芦峅寺衆徒の廻檀配札活動  
 江戸時代、立山衆徒(芦峅寺衆徒と岩峅寺衆徒)が加賀藩にがんじがらめに支配されるなかで、加賀藩はどちらかといえばサト宮の岩峅寺を優遇し、立山山上・山中にかかわる宗教的権利を同寺に与えた。その権利を奪われた芦峅寺衆徒にとって、彼らが以前から行ってきた加賀藩領国内外での廻檀配札活動だけは、いつの時期も藩が芦峅寺側の権利として安定的に認めてくれたので、彼らはこの活動を重視した。
[2]芦峅寺村をとりまく自然環境と廻檀配札活動  
 北アルプス立山の山麓、標高400メートルのあたりに位置する芦峅寺村の冬は、深い雪に閉ざされてとても厳しい。この時期、宿坊家の衆徒たちは立山山上・山中での宗教活動が全く行えず、また、それを村内境内地の諸堂や自坊で行うにしても、天候の悪いなか、その準備や執行は何かと大変であったと考えられる。日常生活も逼塞したものだったに違いない。このような環境であるが、だからといって衆徒たちが冬のあいだ同村で逼塞した生活を送っていても経済的には何のメリットもない。そこで、衆徒たちは諸国で檀那場を形成し、同地で廻檀配札活動を行った。各宿坊家の衆徒たちが檀那場を形成した地域に、比較的太平洋側の地域が多いのも、彼らが天候が良いところを活動場所として求めたからであろう。
[3]芦峅寺衆徒の「渡世」のための廻檀配札活動  
 芦峅寺衆徒の廻檀配札活動は、確かに「立山信仰」があってはじめて存在しうるものとはいえ、その実質的な意味合いは、芦峅寺宿坊家の人々が「渡世」していくための「出稼ぎ」そのものだったといえる。近世後期の芦峅寺の経済状況は凶作・地震などの天災・火災などの人災、門前百姓の造用負担拒否などで総体的に最悪である。そうしたなかで、芦峅寺衆徒の加賀藩に対するいつもの口癖は立山信仰は脇に置いて、むしろ自分たちが「渡世」できるか、できないであった。特に近世後期になると芦峅寺衆徒にとっては彼らの収入のかなりを占める廻檀配札活動が、その宗教活動において最も重要なものになっていた。それは彼らの生活を支えるための生命線であり、その権利に対して岩峅寺と争論になっても絶対に死守しなければならないものであった。

2―5.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と加賀藩

[1]廻檀配札活動の収益の行方  
 近世後期には、芦峅寺宿坊家の経済状況は凶作や天災・火災などの影響を受け、次第に悪化し、宿坊家間でかなり大きな貧富の差ができた。そして、一部の宿坊家は、加賀藩からの借用銀の返済に追われ、その日の生活にすら困り果 て、廻檀配札のための準備費用が捻出できず、檀那場へ赴くことができなかった。一方、その傍らで、檀那場の状態が良好な、例えば大都市江戸などに檀那場を保有した宝泉坊のように、毎年の廻檀配札活動で着実に蓄財している宿坊家もみられる。ただし、こうした宿坊家も、結局は加賀藩の強圧的な支配のもと、半強制的に藩寺社奉行所に祠堂金の自発的な預け入れといった形をとらされながら、確実にわずかな利息金を得ることができたとはいえ、廻檀配札活動の収益のほとんどを没収されたのである。ただし、その預金は芦峅寺が飢饉等の非常事態で困窮した際、救済基金としての機能を果 たし、芦峅寺を助けていた。それがあって、例えば宝泉坊衆徒の泰音など、藩に多額の祠堂金を納めた宿坊家は芦峅寺一山のなかでも影響力をもつようになった。
[2]加賀藩と廻檀配札活動  
 江戸での檀那場の形成状況や廻檀配札活動の実態を検討していて興味深く思えるのは、加賀藩関係者に対してほとんど勧進活動を行っていない点である。本来であれば、江戸の加賀藩邸などで、望郷の念にかられた江戸勤番の藩士たちに勧進布教を行えば、手軽さと収益の面 で一番効果的に思えるのだが、そういった素振りは全く見られない。また、加賀藩領国内においては、能登国鹿島郡・鳳至郡・珠洲郡、越中国婦負郡(富山藩領)などの地域を除いて、その他の地域では檀那場形成がきわめて希薄である。こうした状況は、次のような意味をもっていると推測される。すなわち、加賀藩とすれば、芦峅寺衆徒が江戸の加賀藩邸や自藩領内で廻檀配札活動という、いわゆる一種の経済活動を積極的に行ったとしても、自藩のなかでお金が回るだけで外貨として増えるわけではなく全くメリットがなかった。それよりもむしろ、衆徒を冬期に藩領国外に「出稼ぎ」に出し、廻檀配札活動を行わせ、少しでも外貨をかせがせようとしたのではなかろうか。結局その収益の多くは加賀藩に入ることを思えば、なおのことそのように感じられるのである。

2―6.芦峅寺衆徒が諸国で形成した檀那場の実態

[1]廻檀に適した檀那場の規模と庄屋とのコミュニケーション  
 芦峅寺宿坊家の檀那場の規模は数百人から最大1500人程度で、それほど大きいものとはいえない。芦峅寺から遠く離れた各地域の檀那場を末永く維持していくためには、毎年定期に必ず檀那場を訪れ、各村をとりしきる庄屋の檀家とのコミュニケーションを大切にしながら勧進布教活動を行うことが最も大切であった。それゆえ、ある程度の収益が獲得できれば、廻檀不可能な規模になるまで無制限に信徒を獲得し、檀那場を拡大するようなことは行わなかった。このように人との直接的なつながりで維持され、檀那場に末社が勧請されることがなかった立山信仰は、衆徒がその檀那場に配札に訪れることができなくなると、たちどころに解体していった。
[2]街道沿いにも形成される小規模の檀那場  
 これまでは、檀那場そのものの地域だけに着目されてきたが、檀那場に向かうまでの様々な街道にも、宿泊家を中心として、その沿線に浅く檀那場が出来ていくことがわかった。
[3]尾張国における檀那場の場合  
 福泉坊や日光坊が尾張国に形成していた檀那場の特徴は、檀家という1軒1軒の「点」が密集して、ほどよい規模の「面 」を形成しているところにある。そして、このような状況は、衆徒が檀那場で廻檀配札活動を行った際、衆徒自身が檀家を1軒1軒廻るにしても、あるいは実質的な配札を各村の庄屋に委託するにしても、村から村への移動や初穂の徴収などの面でひじょうに効率的なものであったと考えられる。
[4]信濃国における檀那場の場合  
 信濃国における各宿坊家の檀那場は、当然といえば当然だが、街道などの諸道が整備された比較的交通 の便のよい地域に形成されていたことがわかる。また、信濃国の一部の地域の檀那場の分布状況をみていくと、各村に数軒ずつ檀家が点在するといった檀那場の分布状況が、衆徒による檀家から檀家への移動行為によって、ようやく点である檀家と檀家を結んだ「線」や「筋」、あるいは、過大にみても「帯」程度になるにすぎない場合がみうけられる。その実態は尾張国の事例のような「面」とはほど遠い。「檀那場」は地域によっては、従来の立山信仰研究史の分野でイメージされてきたような「面 」的なものばかりとは必ずしも言えない。
[5]房総半島における檀那場の場合  
 房総半島の事例として各宗教勢力とのかかわりの面からみていくと、衆徒は檀那場では真言宗系の勢力が比較的強い地域を配札領域としている。おそらく、芦峅寺衆徒自体が、もと高野山学侶龍淵の影響もあって、真言宗的要素も多分に含んだ天台宗であり、檀那場の真言宗寺院との間に軋轢が生じるようなことは、他宗派との場合と比べると少なく、むしろ教線を拡大していくにしても、他宗派寺院よりは少なからずくみしやすかったものと考えられる。
[6]江戸における檀那場の場合  
 江戸時代中期に芦峅寺衆徒が江戸で形成した檀那場の実態をみていくと、当時既に信徒数のうえでは江戸時代後期のそれとほぼ同等の規模で檀那場が形成されている。この事実は、さらに必然として芦峅寺衆徒による檀那場形成の起源がこの時期より一層遡ることを示唆し、芦峅寺衆徒の廻檀配札活動に関する文書で最古の慶長9年の芦峅寺日光坊文書の内容とも、わずかながら接近することができるため、きわめて重要な意味をもつ。
 江戸時代中期の廻檀配札活動の形態は、江戸時代後期の形態ほど成熟していない。すなわち、江戸時代後期の廻檀配札活動における真骨頂ともいうべき強力な商業活動的性格がそれほど強く感じられない。
 師檀関係の形成については、江戸の檀那場の場合、初期の段階では比較的勧誘しやすい商人・職人・新吉原関係者などを主なターゲットとして進められたようである。当初の檀那場はこれらの人々が中核となって支えていたと考えられる。その後、江戸時代後期へと時代が進むにつれて檀那場も成熟し、信徒たちの身分に幕臣や藩士たちの武士層も増加し、極端な場合では諸大名や松平乗全(三河国西尾藩主)・本多忠民(三河国岡崎藩主)などの幕閣大名のなかにも芦峅寺宿坊家と師檀関係を結ぶものが出てきたのである。
[7]加賀藩領国内における檀那場の場合  
 幕末期頃、加賀藩領国内においては、相善坊と等覚坊が能登国の鹿島郡・鳳至郡・珠洲郡でそれぞれ檀那場を形成しており、また相真坊も越中国婦負郡(富山藩領)で檀那場を形成していた。しかし、その他の砺波郡や射水郡など地域については、各宿坊家がくじ引きで獲得した割当地を檀那場として開拓してもよいことになっていたが、実際のところ積極的に檀那場が形成された痕跡は見られない。くじ引きで決まる檀那場であるから、いわゆる一般的な檀那場のように継続的・固定的なものではなかった。そのため、いずれの宿坊家においても、むしろ加賀藩領国外で形成した檀那場での廻檀配札活動に力を入れている。なお、芦峅寺衆徒による加賀藩領国内での檀那場形成が希薄で、むしろ藩領国外でのそれが充実していたことに対し、加賀藩が、例えば「外貨獲得」などの意志のもと、何らかのかたちで作用していたか否かは、今後の検討課題である。

2―7.芦峅寺衆徒が行った廻檀配札活動の実態

[1]農村部の檀那場での廻檀配札活動の実態  
 衆徒は檀那場では主に庄屋(名主)宅を定宿とするが、その庄屋は、大概その地域において立山信仰の講組織をまとめる周旋人である場合が多い。護符などの具体的な頒布方法については、まず、衆徒が定宿の庄屋に対し、その村で必要な護符の枚数について注文をとる。それに対し庄屋は人足を雇い、村内の信徒宅を中心に、時にはそうでない家々までも巡回させ、村人が必要とする護符の枚数を把握する。衆徒はその枚数分の護符を庄屋に渡し、実質的な頒布は全て庄屋及び庄屋が雇った人足に任せてしまうのである。
 ある村での勧進活動を終えると、衆徒は次の村に向かうが、信徒に頒布するために持ち込んだ護符や経帷子・小間物・薬・土産などの沢山の荷物のなかから、その村で必要な品物を必要な数量 だけ取り出し、次に配札を予定している村までの自分の荷物の搬送を庄屋に依頼し、それを受けて庄屋が伝馬人足を雇い、衆徒の荷物を次の村の庄屋宅まで送ってやる。この方法により、衆徒は配札に必要な沢山の荷物を自分自身ではほとんど持つことなく、身軽に村から村へと移動できた。なお、頒布した護符や諸品などの代金は初穂料として1年送り、すなわち、翌年再び当地に廻檀配札に訪れた際に徴収した。
[2]都市部と農村部の檀那場の廻檀経路の違い  
 江戸御府内などの都市部を中心に檀那場を形成した宿坊家と、農・山・漁村に檀那場を形成した宿坊家とでは、廻檀経路のあり方に違いがみられる。すなわち、都市派は数軒の定宿を担う信徒宅をベース基地として、放射線状に何度も出入りを繰り返しながら廻檀配札を行っているが、農・山・漁村派は各村々の庄屋宅から次の庄屋宅へといった具合に、一筆書きのように順々に廻檀して配札を行っている。
[3]衆徒個人の才覚に左右される廻檀配札活動  
 各宿坊家衆徒の勧進方法をみていくと微妙に差異がみられ、それぞれの衆徒の才覚や個性から得意・不得意があったようである。タイプとしては、御祈祷主体型と護符頒布主体型がみられる。それぞれの衆徒の才覚によって廻檀配札活動による収益にも差が出たであろう。

2―8.芦峅寺宿坊家間の檀那場での廻檀配札活動をめぐる争い

[1]各宿坊家が形成した檀那場の入り組み  
 芦峅寺各宿坊家が保有する檀那場及び檀縁は地方と大都市といった地域差も考慮する必要があるとはいえ、総体的にはどこの地域でも、ある程度入り組んでいたと考えられる。従来の研究史で指摘されてきたように、1坊に対して1国割といった画一的でスマートな状況が一般的であったとはいいがたい。
[2]姥堂別当職への諸負担と他宿坊家の檀那場への侵犯  
 姥堂別当など、輪番制で一山内の特別な役職が回ってきた場合には、当該宿坊家には、それに関する諸経費を自家が先頭に立って調達していく必要が生じ、例年を上回る勧進収益が必要となった。それゆえ、宿坊家のなかには、芦峅寺一山の規約違反と知りながらも、ついつい自坊の檀那場以外に他の宿坊家の檀那場にまで手を出してしまい、争いになってしまう例もみられる。
[3]宿坊家間の檀那場をめぐる争論とその解決法  
 ある宿坊家がひとたび条件の良い檀那場の形成に成功すると、その宿坊家はその維持に全力を尽くし縄張りができる。もしそのあたりに新規に檀那場を開拓しようとする他の宿坊家があれば、その宿坊家は、条件の良い地域から既に先行の宿坊家におさえられているので、あとは条件の悪い地域ばかりが残っており、なかなか思うように進出していくことができない。それゆえ、ときには他の宿坊家の檀那場と知りながらついついそれを侵してしまい、争いになることもあった。
 しかし、芦峅寺宿坊家間の廻檀配札活動は全て一山の管理下にあり、万一争いが生じた際には、芦峅寺一山の衆評により的確な判断が下され、一度当事者の檀那場を一山が引き揚げ、規約に基づいて改めて正しく配分するかたちをとっている。

2―9.芦峅寺衆徒の女性を対象とした勧進活動

[1]江戸の檀那場の信徒による姥堂境内地六地蔵尊石像の寄進  
 嘉永5年(1852)から5年がかりで、江戸の檀那場の信徒たちが芦峅寺の姥堂境内地に六地蔵尊石像を寄進した。同地蔵尊像の寄進家の特徴をみていくと、その戸主は、江戸の信徒たちのなかでも、どちらかといえば立山信仰の講組織を中心となって支えていた大名の家臣や旗本、中流商人らであった。寄進目的については、いずれも自家の祖先に対する追善供養や家内安全子孫繁栄などの現世利益のための供養を目的としていた。
 ところで、江戸時代後期、芦峅寺衆徒は各地の檀那場で、特に女性の信徒に対しては、越中立山が女人往生の霊場であることを強調し、血の池地獄からの救済と極楽往生の願いをかなえる布橋灌頂会の儀式への結縁を積極的に喧伝した。それゆえ、当時の仏教界においては、救済から洩れがちな女性の信徒たちのあいだで、立山信仰は好んで受け入れられる素地があった。前述の地蔵尊像の施主に比較的女性が多くみられる傾向も、芦峅寺衆徒が当時の女性の需要に巧に応えることができていることと、彼らが女性層を大きなマーケットとみなして積極的に勧進布教活動を行っていたからだと考えられる。
[2]芦峅寺衆徒の血盆経唱導  
 芦峅寺宝泉坊の『立山血池地獄血盆経納経御方記帳(控)』の内容から、同坊衆徒泰音は江戸の檀那場で、同坊と師檀関係を結ぶ大名の妻・奥女中をはじめ、大名の家臣の妻、幕臣等の妻、商人・職人・家主たちの妻などを対象として血盆経唱導を行っていたことがわかる。また、信徒以外の人々にも新規に血盆経納経を勧誘していたことがわかる。このような実態は、幕末期、血盆経信仰が江戸の女性たちの間で身分を越えてかなり浸透していたことと、血ノ池の苦患を恐れて、多くの女性がそこからの救済を切望していたことがわかる。

2―10.廻檀配札活動に関する参考文献

●日和祐樹「立山信仰と勧進」(高瀬重雄編『山岳宗教史研究叢書10 白山・立山と北陸修験道』所収、名著出版、1977年9月)。●『立山町史 上巻』(立山町編・刊行、1977年10月)。●寺口けい子「芦峅寺善道坊諸国檀那廻りの実態」(『富山史壇 第67号』所収、越中史壇会編、1977年12月)。●福江充「江戸時代幕末期 芦峅寺宿坊家間の檀那場をめぐる争いについて」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第5号』所収、富山県[立山博物館]、1998年3月)。●福江充『立山信仰と立山曼荼羅―芦峅寺衆徒の勧進活動―(日本宗教民俗叢書4)』(岩田書院、1998年4月)。●福江充「立山信仰にみる石仏寄進の一例―江戸の信徒による姥堂境内六地蔵尊石像の寄進」(『宗教民俗研究 第8号』所収、日本宗教民俗学研究会、1998年6月)。●福江充「芦峅寺衆徒の宗教活動」(『とやま民俗文化誌(とやまライブラリー6)』所収、富山民俗文化研究グループ編、シー・エー・ピー、1998年8月)。●福江充「芦峅寺宿坊家の廻檀配札活動とその収益の行方」(『富山市日本海文化研究所報 第21号』所収、富山市日本海文化研究所、1998年9月)。●福江充「立山山麓芦峅寺宿坊の檀那帳に見る立山信仰―立山信仰の伝播者芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と檀那場」(『情報と物流の日本史―地域間交流の視点から―』所収、地方史研究協議会編、雄山閣出版、1998年10月)。●福江充「幕末期江戸の立山信仰―芦峅寺宝泉坊の江戸の檀那場と廻檀配札活動の実態―」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第6号』所収、富山県[立山博物館]、1999年3月)。●福江充「木版立山登山案内図(芦峅寺系)の施主について」(『立山登山案内図と立山カルデラ 第5回企画展解説図録』所収、立山カルデラ砂防博物館、2000年7月)。●福江充「立山信仰と刷り物」(『とやま 版 越中版画から現代の版表現まで 資料集』所収、(財)富山県文化振興財団富山県民会館美術館、2000年10月)。●福江充「江戸時代中期における江戸の立山信仰―江戸時代中期に芦峅寺衆徒が江戸で形成した檀那場について―」(『富山史壇 第133号』所収、越中史壇会編、2000年12月)。●福江充「信濃国の立山信仰」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第8号』所収、富山県[立山博物館]、2001年3月)。●福江充『近世立山信仰の展開―加賀藩芦峅寺衆徒の檀那場形成と配札―(近世史研究叢書7)』(岩田書院、2002年5月)。

第3章.立山曼荼羅の諸相

芦峅寺の布橋から望む立山 立山曼荼羅 高橋家旧蔵本(富山県[立山博物館]所蔵) 立山曼荼羅 高橋家旧蔵本(富山県[立山博物館]所蔵) 芦峅寺の布橋から望む立山 立山曼荼羅 高橋家旧蔵本(富山県[立山博物館]所蔵)

3―1.立山曼荼羅の呼称について

 越中立山の山岳宗教に関する絵画史料として立山曼荼羅と称される絵図があり、筆者は現在41点の作品を確認している。
 その画面には、立山衆徒が信徒に対して絵解き布教をする際の項目で大区分して、[1]立山開山縁起、[2]立山地獄、[3]立山浄土、[4]立山禅定登山案内(立山の女人禁制伝説を含む)、[5]芦峅寺布橋大潅頂の祭礼の5つの内容が描かれている。
 さて、今でこそ立山曼荼羅は「立山曼荼羅」の用語で人々に周知され、学術用語としても定着しているが、江戸時代は必ずしもそうでなかった。
 すなわち、同時代の立山曼荼羅を表現する用語を調べていくと、芦峅寺文書や岩峅寺文書、あるいは立山曼荼羅諸本の軸裏銘文などに、[1]「御絵伝 有頼之由来」・[2]「御絵 有頼之由来」・[3]「有頼之由来立山御絵」・[4]「開山之行状之御絵伝」・[5]「立山之絵図まん多ら」・[6]「立山絵相四幅」・[7]「御絵図曼荼羅」・[8]「立山縁起四幅」・[9]「立山開山伝来御絵図」・[10]「立山絵伝」・[11]「立山和光大権現画」・[12]「御曼陀羅」・[13]「御曼荼羅」・[14]「立山図絵二軸」・[15]「御絵図」・[16]「立山絵図」など、様々な用語が見られる(註1)。



註1)[1]~[4]については、『越中立山古記録 第1巻』(103頁~106頁・125頁・129頁・131頁・132頁・135頁・152頁、廣瀬誠編、立山開発鉄道株式会社、1989年9月20日)や『越中立山古文書』(71頁、木倉豊信編、国書刊行会、1982年6月20日)を参照。[5]は「納経一件扣 上ル扣(文化8年)」(芦峅寺雄山神社所蔵)に見られる。[6]は『開帳旧記・宝物弘通 旧記 文政七年改之 弐冊之内』(金沢市立玉川図書館所蔵、文政10年の記載条項に見られる。)に見られる。[7]は、芦峅寺宝泉坊がかつて三河国西尾藩主松平乗全から寄進された立山曼荼羅の件で、慶応3年9月に芦峅寺が加賀藩寺社奉行所に答申した書付(芦峅寺雄山神社所蔵)に見られる。[8]は立山曼荼羅『宝泉坊本』(安政5年12月に成立の軸裏に記された銘文や同曼荼羅に関する製作者の三河国西尾藩主松平乗全から芦峅寺宝泉坊に宛てた寄付状(安政5年12月15日)に見られる。[9]は立山曼荼羅『宝泉坊本』の画面を覆う覆布に記されている。[10]は立山曼荼羅『坪井家A本』(この曼荼羅の成立年次は未詳だが、軸裏の銘文から天保元年より同8年の間に補筆されたことがわかる。)や立山曼荼羅『桃原寺本』の軸裏に記された銘文に見られる。また、富山県魚津市に所在する浄土真宗大谷派大徳寺の『慈興院大徳寺由緒記』(享保16年4月成立、順覚著)の中には「立山絵伝」と記述されているという(林雅彦『増補日本の絵解き―資料と研究』226頁、三弥井書店、1984年6月)。さらに、富山県立山町大石原在住の佐伯省次氏の談話によれば、氏所蔵の立山曼荼羅『佐伯家本』は昭和51年に改装したが、それまで軸裏には「慈興上人開山御絵伝」と銘があったという(林雅彦『増補日本の絵解き―資料と研究』227頁)。[11]は立山曼荼羅『最勝寺本』(安政2年9月に成立)の軸裏に記された銘文に見られる。[12]は立山曼荼羅『志鷹家本』(天保7年10月に成立)の軸裏に記された銘文に見られる。[13]は立山曼荼羅『吉祥坊本』(慶応2年に成立)の軸裏に記された銘文に見られる。[14]は立山曼荼羅『称念寺B本』(文化10年2月に成立)の軸裏に記された銘文に見られる。[15]は芦峅寺宝泉坊の元治2年の東都廻檀日記帳や芦峅寺大仙坊の昭和3年の愛知県檀那帳(いずれも芦峅寺雄山神社所蔵)に見られる。[16]は『越中立山古文書』(213頁、木倉豊信編、国書刊行会、1982年6月20日)に見られる。

3―2.立山曼荼羅諸本の形態について

 立山曼荼羅諸本の形態には、基本的には4幅1対の掛軸式が多く見られ、これはおそらく衆徒が行った廻檀配札活動や出開帳など移動をともなう勧進布教活動に適するように、携帯性を考慮して取り入れられたものであろう。
 また、4幅を掛け合わせると立山信仰の各種物語を網羅した大画面ができあがり、檀那場の信徒に対し、衆徒の説教の声だけでなく、視角的な面 でも強く訴えかけることができたのであろう。
 現在確認されている41作品のうち、5幅1対の作品が1点(『相真坊A本』)、4幅1対の作品が22点、3幅1対の作品が3点(『稲沢家本』など)、2幅1対の作品が4点、1幅の作品が8点である。これ以外に、『伊藤家本』はその構図や図像配置から、おそらく本来は4幅1対であったと推測されるが、現在はそのうちの向かって左端幅から2幅しか残っていない。また『村上家本』も1幅しか残っていないが、本来は複数の掛幅本であったと推測される。
 一方、立山曼荼羅としては特殊な例だが、『大江寺本』は掛軸形式ではなく、収納方法が折り畳み式の1枚物で、法量 が220.0cm×260.0cm(外寸)と他の作品と比較して群を抜いて巨大である。
 この他、2幅1対の立山曼荼羅は『藤縄家本』や『称念寺A』、『称念寺B本』、『高橋家旧蔵本』など、その製作主体が芦峅寺衆徒や岩峅寺衆徒でない場合が多い。また、1幅物の作品のうち『多賀坊本』や『志鷹家本』、『市神神社本』は木版の立山禅定登山案内図を拡大模写 したものである。
 ところで、現存の作品のなかで最大のものは前掲の『大江寺本』で、法量が縦190.0cm×横220.0cm(内寸)であり本紙面積が41,800平方センチメートルとなる。掛軸形式の作品では『来迎寺本』が縦163.0cm×横240.0cm(内寸)で本紙面 積が39,120平方センチメートルとなり最大である。なお内寸が確認できた39点の作品の本紙面積の平均は22,340.6平方センチメートルである。それゆえ本紙が149.5cm四方の作品が平均サイズということになろうか。素材については、絹本が41点のうち13点で、紙本が28点である。

3―3.庶民教化に効果をもたらした立山曼荼羅

 芦峅寺の宿坊衆徒は、各々の宿坊家ごとに檀那場を形成し、毎年農閑期に全国の檀那場に赴き、立山信仰を布教してまわった。その際、立山曼荼羅を絵解きして庶民を教化した。
 衆徒は檀那場で定宿(主に庄屋宅)に泊まり、近隣の村人を集め立山曼荼羅を絵解きしたが、立山開山伝説・立山地獄・立山浄土・立山禅定登山案内・芦峅寺布橋大灌頂の祭礼の5つの内容を曼荼羅から順々に引き出し、話芸を駆使し身ぶり手振りもまじえて物語った。そして、男性に対しては夏の立山での禅定登山を勧誘し、女性に対しては秋の彼岸に芦峅寺で行われる布橋灌頂会への参加や血盆経供養を勧誘した。その際、自坊での宿泊を勧め、道案内などの便宜をはかることを約束した。立山の山容や立山信仰の内容をよく知らない人々に、それを立山曼荼羅の具体的な図柄で視覚的に紹介したので、庶民のあいだでは、難解な教理にもとづく説教よりも、こうした絵解きによる娯楽性の強い布教のほうが好まれたようである。
 なお、芦峅寺宝泉坊の元治2年(1865)の檀那帳から立山曼荼羅の絵解き料金がわかるが、他の諸供養も含めて230文から950文のあいだであった。
 一方、岩峅寺の宿坊衆徒は、安永期頃から出開帳による勧進布教活動を行うようになり、文化・文政期に入るとその回数も著しく増加した。岩峅寺の出開帳は、立山山中諸堂舎の修復費用などの捻出を名目に、加賀藩寺社奉行の許可を得て藩領国内各地の寺院を宿寺とし、あらかじめ取り決められた開催期間と収益分配にもとづいて行われた。
 この他、一部の岩峅寺衆徒が、藩の許可を得て、あるいは、無許可で藩領国外に檀那場を形成し、出開帳を機縁として廻檀配札活動を行った。これらの勧進布教活動にも立山曼荼羅が宝物として開帳されたり、檀那場での廻檀配札で信徒に対して絵解き教化が行われた。こうした立山曼荼羅の絵解きの種本として、岩峅寺延命院の玄清が嘉永6年(1853)に記した『立山手引草』が現存している。

3―4.立山衆徒の争論と立山曼荼羅

 立山曼荼羅の起源や制作者、制作方法、制作目的、使用方法などについては、いまだに未解明の部分が多いが、その構図や図柄・図像は芦峅寺衆徒・岩峅寺衆徒による勧進活動の変遷と密接に関係しているようである。
[1]芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と岩峅寺衆徒の出開帳  
 江戸時代の幕末における立山衆徒(芦峅寺衆徒・岩峅寺衆徒)の地元以外の地域での勧進活動を見ていくと、いずれも加賀藩の支配のもと、芦峅寺衆徒は加賀藩領国内の能登国や加賀藩領国外の国々で毎年定時期に廻檀配札活動を行っており、一方、岩峅寺衆徒は加賀藩領国内の寺院を会場として、不定期に出開帳による勧進活動を行っている。
ところで、こうした勧進活動の諸権利や職掌区分が厳守されるようになるのは、天保4年(1833)以後のことである。それ以前の芦峅寺衆徒・岩峅寺衆徒の勧進活動における職掌区分は、根本的には正徳元年(1711)に加賀藩より下された判決で確定したが、以後も判決内容に対する双方の不満や拡大解釈、違法行為から争論が絶えず、度々裁判沙汰となった。しかし、このような状況下、正徳元年(1711)の判決は必ずしも厳守されなかったものの、以後の裁判では判決を下す際の先例として最重要視され、また天保4年(1833)の判決は、以後この種の裁判沙汰をなくすために加賀藩の強力な行政指導を伴ったものであり、いずれもその後の芦峅寺衆徒・岩峅寺衆徒の勧進活動の形態及びその方向性などに大きな影響を与えた。
[2]霊山立山の宗教的権利をめぐる芦峅寺衆徒と岩峅寺衆徒の争論  
 正徳元年(1711)の判決で、芦峅寺衆徒は山役銭の徴収権や諸堂舎の管理権など立山そのものに関わる権利を失ったため、従来から行ってきた諸国での廻檀配札活動(初見、慶長7年)への依存度を高め、それまで以上に檀那場の維持・整備・新たな開拓につとめることとなった。一方岩峅寺は、諸国での廻檀配札活動を禁じられたわけではないが、以後も立山そのものを主体とする勧進活動に重点を置き、諸国での勧進活動の機会がこの時点でそがれてしまった。こうした中で、安永(1772~1780)頃から岩峅寺衆徒の勧進活動において出開帳の形態が見られるようになり、文化・文政期(1804~1829)に頻繁に行われた。岩峅寺の出開帳は加賀藩の許可のもとに行われ、加賀・越中・能登の加賀藩領国内の寺院を宿寺として期間を定めて行われたが、次第に無許可で、さらに領国外の国々で芦峅寺の旧来からの檀那場に入り込み配札活動といった、いわば芦峅寺衆徒の廻檀配札活動に極めて類似した活動が行われた。文化8年(1811)の「納経一件扣 上ル扣」(芦峅寺雄山神社蔵)には「一立山之絵図まん多ら与号、披露仕諸人参詣為致候処ヘ、岩峅寺衆徒年々利ふぢんニ右絵図半記取候ヘ共、彼是申候得バ争論ニ相成故、御役所様ヘ御難題ヲ懸、且拙僧共困窮之処故、御断不申上候。」といった一節があり、文頭の「立山之絵図まん多ら」は立山曼荼羅をあらわす用語の初見である。この史料によって、文化期には既に芦峅寺衆徒が立山曼荼羅を披露して勧進活動を行っていたことや、一方、その頃よりそう離れていない時期から岩峅寺衆徒が理不尽に立山曼荼羅を「半記取」っていたことがわかる。また『開帳旧記・宝物弘通 旧記』(金沢市立図書館蔵)から、文政10年(1827)の出開帳の際には霊宝として立山山中に祀る諸尊像とともに「立山絵相 四幅」も開帳している。ところで、芦峅寺側がこうした状況に危機感をもち対応し始めたのは文政8年(1825)頃からである。同年、芦峅寺側は「配札一件根本也」とした願書を寺社奉行所に提出し、その中で、正徳元(1711)年に行われた公事場裁判での判決内容を持ち出し、諸国での廻檀配札活動が芦峅寺の職掌であることを訴えている。これに対し、天保2年(1831)9月に岩峅寺側は逆に芦峅寺の火防札・山絵図・御絵伝などの発行について、正徳元年(1711)の公事場奉行での判決の趣意に違犯していると、寺社奉行所に訴えを起こした。このように芦峅寺と岩峅寺の間では、勧進活動の諸権利をめぐって泥沼状態の争論及び裁判が続いたが、結局天保4年(1833)9月に、藩公事場から岩峅寺の諸国での出開帳と配札の禁止、及び万一違犯者を発見した場合の報告の義務など、芦峅寺にとっては一応勝訴といえる判決が下され決着した。しかしこの際、芦峅寺も護符や請取書などの表記について藩から厳しい規制を受けた。また各坊の廻檀配札活動についても、新たな争論を避けるため檀那帳を調査・整備することとなった。一方岩峅寺は加賀藩領国外の国々での出開帳は厳禁され、さらに加賀藩領国内での通 常の出開帳についても、よほどの有事でない限り、以前に比べ極端に制限されることとなった。
[3]立山衆徒の勧進活動と立山曼荼羅  
 岩峅寺の勧進活動の形態を見ていくと、文化・文政期に頻繁に行われた出開帳を除いては、総体的に立山そのものを主体とする勧進活動に重点が置かれている。このような状況のなかで岩峅寺が芦峅寺に見られるような構図や図柄・図像の立山曼荼羅を必要としたかどうかは疑問である。元来、岩峅寺には文化・文政期以前、芦峅寺に見られるような勧進性に優れた図柄や図像を有する立山曼荼羅は存在しなかったのではなかろうか。仮に存在したとしても、檀那場の信徒が感化を受けて制作した、木版画の立山登拝案内図(『市神神社本(文化3年)』)を拡大模写 したような作品や、まさに山絵図そのもののような作品であっただろう。こうした中で文化期頃から、岩峅寺の勧進活動として出開帳が頻繁に行われるようになるが、その際、前掲の文化8年(1811)の「納経一件扣 上ル扣」(芦峅寺雄山神社蔵)からも窺われるように、芦峅寺の立山曼荼羅に見られるような勧進性も幾分意識した構図や図柄を有する作品が制作されるようになったのだろう。しかし、それにしても、一般 的には『開帳旧記・宝物弘通旧記』(金沢市立図書館蔵)の文政10年(1827)の記載が示すように、その立山曼荼羅(「立山絵相 四幅」)は出開帳の際に、立山山中の諸尊像などの霊宝や天狗の爪などの珍品と同じ意識レベルでもって取り扱われるものであった。すなわち芦峅寺の勧進活動において立山曼荼羅が浄土真宗蓮如上人の御絵伝のように、絵解き布教の際の教具の役割を果 たしていたのとは異なり、岩峅寺の勧進活動においては、どちらかといえば特別 公開用の霊宝・珍品のたぐいであったのである。また、出開帳は幾つかの宿坊が共同で不定期に開催したため、岩峅寺に数本あればことたり、毎年定期に廻檀配札に出かける芦峅寺の宿坊家のように各宿坊家が最低1本を所持する必要はない。それゆえ、現存本数が芦峅寺のものと比べて極端に少ないのであろう。文政期に、岩峅寺衆徒の一部が限りなく芦峅寺の廻檀配札活動に類似した出開帳を頻繁に行い、立山曼荼羅の弘通 も行っているが、その際には、芦峅寺の旧来の檀那場での活動ということで、檀那場の信徒に求められ、意識的に芦峅寺の立山曼荼羅に類似した作品も制作し絵解きしていたのかもしれない。しかし、天保4年(1833)に加賀藩の判決で他国での配札活動が禁じられ、以後の出開帳が極端に制限されると、通 常の勧進活動では立山曼荼羅は必需品ではなくなり、むしろ所持・使用するとある意味では芦峅寺や藩の無用な誤解を招きかねず、次第に姿を消していったのであろう。現在、岩峅寺の宿坊家の立山曼荼羅が厳密には数点しか確認されていない理由もそのあたりにあると考えられる。かつて、岩峅寺延命院から、同坊玄清が嘉永7年(1854)に書写 した立山曼荼羅の絵解き台本『立山手引草』が発見されたが、この史料の意義も、単に岩峅寺にも立山曼荼羅が存在して絵解き布教の事実があったとだけ考えるのではなく、こうした岩峅寺衆徒の勧進活動の変遷の中で、どのような意味をもって制作されたか、或いは実際に使用されたのかどうかを再検討する必要があろう。
 一方、芦峅寺の勧進活動の形態を見ていくと、慶長期より諸国での廻檀配札布教の伝統が続いており、前掲の文献史料から文化期には、その構図や図柄、図像は明らかでないとはいえ立山曼荼羅の存在が確認できる。もちろんそれ以前から制作されていたことは明らかである。
 さて、岩峅寺衆徒が、加賀藩領国外の国々で芦峅寺の旧来からの檀那場に入り込み、出開帳を名目としての配札活動といった、いわば芦峅寺衆徒の廻檀配札活動に類似の活動を行って芦峅寺の勧進活動に支障をきたした事件は、天保4年(1833)に加賀藩より芦峅寺に有利な判決で決着したが、芦峅寺はこの一連の事件に対し著しく動揺し、以後の勧進活動のあり方に強い危機感を感じ、従来からの廻檀配札活動をより強化するため、それまでの各坊の檀那帳や檀縁、護符の整備をはかり、一山であらたに誓約をかわしている。また一方で、芦峅寺では文政3年(1820)に、それまで破損の著しかった布橋が掛け替えられ、それを契機に布橋潅頂会の儀式がより多くの参詣者を対象として整備され、大型イベント化した。そして天保期にピークを向かえる。このように芦峅寺側の勧進活動の手段は、自村での布橋大潅頂の祭礼と諸国配札活動に重点が置かれることとなった。
 さて、こうした芦峅寺における勧進活動の動向は、立山曼荼羅の構図や図柄・図像に大きな影響を与えている。芦峅寺衆徒の意識は、聖地立山そのものや修験者や廻国聖・僧等が行う立山禅定登山そのものよりも、むしろ文化・文政期頃からの庶民の参詣者の増加で収入が見込める自分達の村落に強く向けられるようになった。そして、天保期以降に制作された多くの芦峅寺系立山曼荼羅はまさにその影響を受け、画中においては立山山中や禅定道の図柄以上に山麓の霊場(芦峅寺村落)の図柄が重視されて描かれている。すなわち芦峅寺の村落が画面 の中心より下方に大きくスペースを割いて描かれ、さらに、そこには芦峅寺に大きな利益をもたらす布橋大潅頂の祭礼の様子や、経帷子の頒布を促進するための三途ノ川の様子が中心的題材として詳細に描かれているのである。その際、以前拙稿において、芦峅寺の立山曼荼羅について、特に布橋潅頂会の場面 の構図や図柄から天保初期を境にして旧タイプのものと新タイプのものとに分類したが、旧タイプの曼荼羅では、まだ立山山上や山中の図柄に比較的強い意識が置かれ、山上には立山禅定登山者の姿も見られる。すなわち、山麓の霊場参詣と山上へ向かっての禅定登山が同程度に意識されているのである。それに対して新タイプの曼荼羅では、禅定登山に対する意識は衰退している。そして、画中、芦峅寺の村落は立山大権現祭の祭礼の場面 と開山堂や講堂側の境内地、布橋潅頂会の祭礼の場面で構図が固められており、特に布橋潅頂会の祭礼に填め込むように閻魔堂・布橋・姥堂が描かれているのである。堂舎が主体でそれに合わせて祭礼を描くのではなく、祭礼の図柄の中に堂舎を填め込んでいるのである。このような構図や図柄・図像は布橋潅頂会をまず第一に引き立たせ、諸国での廻檀配札活動の際に、地獄・極楽の信仰とともに特に女性の救済も積極的に喧伝し、より勧進活動の活性化をはかろうとする芦峅寺衆徒の意識から生み出されたものと考えたい。

3―5.立山曼荼羅の制作について

 現存する芦峅寺立山曼荼羅の制作年代や制作者・制作地・制作方法については、それを示す史料がきわめて少なく現在のところ不明な点が多い。
 制作年代については、『来迎寺本』のように17世紀の制作と推測されるものもあるが、ほとんどのものが近世後期に制作されたようである。制作者と制作地については、曼荼羅の裏書きからわかるものもあるが、それによると地元の絵師によって描かれたものは案外少なく、檀那場の信徒が施主となって、在地の絵師によって描かれたものが数本確認できる。
 立山曼荼羅の起源については、これまで中世説や近世説などの諸説が見られるが、こうしたなかで近年筆者は、現存作品の構図や図柄と芦峅寺文書などの文献史料を重ね合わせて制作年代を検討し、そのほとんどが江戸時代後期以降に制作されていることを指摘した(註1)。なお、例外として天保元年(1830)に修復された『坪井家A本』やその作品と類似の構図を有する『来迎寺本』は、江戸時代後期以前に制作されたと考えられるが、いずれにしろ、現存作品に制作時期が江戸時代中期を遡るものは見当たらない。ただし、それはあくまでも現存作品に限定してのことであって、だからといって筆者はそれ以前に立山曼荼羅が存在しなかったと考えているわけではない。
 成立起源が中世か近世かは文献史料のうえでは確認できないが、おそらく、最初の段階で描かれた立山曼荼羅は、一例をあげると、元禄13年(1700)の『立山禅定並後立山黒部谷絵図』(富山県立図書館所蔵)の構図・図柄のように、立山連峰や黒部奥山を描いた山絵図に立山信仰にかかわる集落や堂舎、史蹟、地名などが簡略に書き添えられたものだっただろう。あるいは、享保7年(1722)には既に木版立山登山案内図(富山県立図書館所蔵)の構図や図柄が定版として確立しており、さらに、時代は後になるが文化3年(1806)の『市神神社本』(市神神社所蔵)や天保7年(1836)の『志鷹家本』(個人所蔵)のように、実際に木版立山登山案内図を拡大模写 して制作された立山曼荼羅も見られるので、おそらく初期の段階の立山曼荼羅にも同じような制作過程をたどったものがあっただろう。いうなれば、初期の立山曼荼羅は総じて地図的古絵図だったと推測される。ちなみに、文政2年(1819)の『高橋家旧蔵本』は江戸時代後期の作例ではあるが、原初的な山絵図の趣を多分に残している。
 ところで、江戸時代、立山衆徒は加賀藩に支配され、まず第一に藩の祈願所としての役割を果 たすとともに、特に芦峅寺衆徒は藩の主導で山中での修験道の修行よりも加賀藩領国内外での廻檀配札活動に力を入れることとなった。これに基づき、布教圏は次第に拡大し配札活動の形態も進展していった。一方、それと呼応するように、衆徒が各地で形成した檀那場では、寛文期から嘉永期に度々刊行された版本『和字絵入往生要集』の流布で地獄に対する視覚的イメージの大衆化が進み、そうした背景のもと信徒たちの需要に応じて、それまでの地図的立山曼荼羅の構図や図柄も次第に立山開山伝説や地元の祭礼をはじめ、既存の地獄絵画などの図柄をふんだんに取り入れた説話画的なものへと変容していったと推測される。さらに、江戸時代後期、庶民のあいだで各地の霊場・霊山参詣が流行し、立山もその一所としてより多くの参詣者を迎えるが、こうした状況も立山曼荼羅の構図や図柄に大きな影響を与えている。
 それゆえ、現在我々が立山曼荼羅の典型的な構図・図柄と認識しているような、立山山中を舞台に地獄・浄土の世界が描かれ、さらに開山伝説や祭礼などの要素もふんだんに描かれた構図・図柄は、江戸時代後期に入り、説話画としての成熟期を迎えてからのものといえる。なお、その集大成ともいうべき作品は、安政5年(1858)に芦峅寺宝泉坊と師檀関係を結ぶ老中松平和泉守が同坊に寄進した立山曼荼羅『宝泉坊本』と、一方、慶応2年(1866)に芦峅寺吉祥坊と師檀関係を結ぶ老中本多美濃守が同坊に寄進した立山曼荼羅『吉祥坊本』である。
 この2作品については、きわめて希な例であるが、近年、筆者が芦峅寺雄山神社の古文書群から発見した宝泉坊と吉祥坊の江戸の檀那帳(信者住所録)や宝泉坊衆徒の檀那廻り日記、慶応3年(1867)に芦峅寺が加賀藩寺社奉行所に宛てた立山曼荼羅についての上申書、さらには両作品の裏書きなどの文献史料を相互に補完させながら検討していくことにより、その制作時期や制作者、制作地、制作過程などをある程度明らかにすることができたのである。そこで、以下、その内容についてみていきたい。
 まず、立山曼荼羅『宝泉坊本』の制作過程については、慶応3年(1867)に、芦峅寺が加賀藩寺社奉行所に宛てた立山曼荼羅についての上申書からうかがうことができる。それは、次の通 りである。松平和泉守(本名は松平乗全、三河国西尾藩主)は絵の才能が豊かで、老中職を勤めるかたわら、安政5年(1858)に、既存の立山曼荼羅を見て、プロ顔負けの技法で芸術的な立山曼荼羅を描き上げた。そして、その表装には、和泉守が以前徳川家茂(江戸幕府第14代将軍)から拝領した衣類を、事前に徳川慶喜(江戸幕府第15代将軍)の許可を得たうえで使用したという。和泉守は、こうして完成した立山曼荼羅がよほどの自信作だったようで、ある日、江戸城内で将軍をはじめ諸大名やその奥方等に披露した。その後ほどなく、師檀関係(寺僧と檀家の関係)を結ぶ宝泉坊にこの曼荼羅が寄進された。ところで、現存の立山曼荼羅『宝泉坊本』には、画中に「源乗全書」の墨書銘と落款が見られ、また裏書きにも「立山縁起四幅自模写 以寄附 越州立山寳泉坊 西尾拾遺源乗全 安政五年戊午十二月」と記載されているので、この曼荼羅こそが先程の上申書で述べられた立山曼荼羅であることが確認できる。
 次に立山曼荼羅『吉祥坊本』の制作過程について述べたい。最近筆者は吉祥坊の幕末の檀那帳を解読したが、そのなかに、同坊衆徒が師檀関係を結ぶ南伝馬町2丁目の加賀屋忠七と銀座4丁目筆屋の栄文堂庄之助に立山曼荼羅を描かせ、それが慶応2年(1866)4月に完成したとするくだりを見つけた。一方、『吉祥坊本』の画中には「慶応二丙寅四月吉辰 登光斎林龍謹画」と「林豊謹画」の墨書銘が見られる。同年同月に立山曼荼羅が別 々に何本も制作されたとは考えにくく、おそらく加賀屋・栄文堂の両者が登光斎林龍・林豊の両者と同一人物だったと考えられるのである。『吉祥坊本』は江戸の町絵師によって描かれ、慶応2年(1866)4月に完成したことがわかるのである。
 さらに、『吉祥坊本』の裏書きを検討したい。『吉祥坊本』の第4幅の裏書きには、慶応2年(1866)6月、芦峅寺教蔵坊の衆徒照界が同曼荼羅の成立(4月)に対する祝辞文を記している。また、第2幅の裏面 には、上部に「奉為昭徳院殿征夷大将軍贈正一位大政大臣源朝臣家茂公 尊儀 慶應二丙寅年八月廿二日」(徳川家茂)と「奉為午之歳御女性静寛院宮御息災延命也」(和宮〔静寛院宮〕)の2枚の識札が、寄進者代表として貼り込まれ、さらに、その下に墨書で、この曼荼羅の寄進に関わった本多美濃守(本名は本多忠民、三河国岡崎藩主)をはじめ本多氏歴代やその親族及び岡崎藩士たちの俗名・戒名・没年等が記載されている。なお、幕末の吉祥坊の檀那帳から本多美濃守は吉祥坊と師檀関係を結んでいたことが確認できる。
 ところで、裏書きの内容と前掲の立山曼荼羅に関する上申書の内容を重ねると、次のような構図が浮かんでくる。先程、松平和泉守が直筆の立山曼荼羅を江戸城で披露したことについて述べたが、その際、後に立山曼荼羅『吉祥坊本』を寄進した和宮や老中本多美濃守が同席していた可能性がある。おそらく、和宮は江戸城内で和泉守直筆の立山曼荼羅を鑑賞し、自分自身も立山曼荼羅の寄進を思い立った。それは、江戸城内で幕府滅亡に対する危機感がつのるなか、立山信仰に何らかの救いを見出したからであろう。また、『吉祥坊本』完成直後の慶応2年(1866)7月、長州征討に赴いた夫家茂が大坂城で病死しており、1ヶ月後に夫への追善供養の意味も付加された。一方、吉祥坊と師檀関係を結ぶ美濃守も、自分の前任として老中職に就いていた和泉守が、檀那寺の宝泉坊に『宝泉坊本』を寄進したことに影響され、そこに和宮からの依頼もあり、吉祥坊への立山曼荼羅の寄進を発願したのであろう。



註1)福江充「立山曼荼羅『坪井竜童氏本』について」(福江充『立山信仰と立山曼荼羅―芦峅寺衆徒の勧進活動―(日本宗教民俗学叢書4)』所収、岩田書院、1998年4月)。

3―6.立山曼荼羅に描かれた内容
3―6―1.立山開山縁起
3―6―1―1.立山開山縁起のあらすじ(以下は、芦峅寺の立山開山縁起にもとづく)

 布施の館(或いは布施城)に住む越中国司佐伯有頼は、ある日、父有若が大切にしていた白鷹を持ち出して鷹狩りに出かけたが、その最中、誤って鷹狩り用の白鷹を放逸してしまった。白鷹を追跡し、ようやく発見し、手元に呼び寄せた時、突然熊が現れ襲いかかってきたため、またもや白鷹は逃げてしまった。驚き怒った有頼は、熊に矢を射かけると、矢は熊に命中したものの手負いとなって立山山中奥深へ逃げ込んだ。有頼は熊の血痕をたどりながら山中を分け入って追跡していくと、熊は玉 殿窟に逃げ込んだ。いよいよしとめようと思い、弓をかまえると、そこには、熊ではなく胸に矢傷を受けた阿弥陀如来が顕現した。有頼はこれに驚き、霊異に感動して弓を切り捨て出家し、慈興と名乗って立山を仏教の山として開いた。
 こうした立山開山の由来を記した縁起史料には、『類聚既験抄』(鎌倉時代編纂)や『伊呂波字類抄』10巻本の「立山大菩薩顕給本縁起」(鎌倉時代増補)、『神道集』巻4の「越中立山権現事」(南北朝時代編纂)、『和漢三才図会』(江戸時代正徳期頃の編纂)などがみられ、この他、立山信仰の拠点集落であった立山山麓の芦峅寺と岩峅寺にも、宿坊衆徒や社人により江戸中期から末期にかけて製作された「立山大縁起」や「立山小縁起」、「立山略縁起」などが数点見られる。

3―6―1―2.立山開山について

 明治時代、立山連峰の剱岳と大日岳から奈良時代末期から平安時代初期の製作と推定される銅錫杖頭などの修験の遺物が発見された。それにより、その頃には立山山中にも諸国の峰々を巡り山中修行に励む験者や聖が存在していたことがわかる。こうした諸国回峰の験者や聖は不動信仰の伝播者でもあった。
 不動明王は五大明王のうちの中心的な明王であり、平安時代から同尊を本尊として祀り、疫病退散や国家・社会の平安を祈願して加持祈祷が行われてきた。そして当時の不動信仰は、例えば『平家物語』に真言僧文覚が紀伊国熊野の那智大滝で21日の荒行を行い、不動明王の加護によって助けられたといった記載や『天台南山無動寺建立和尚伝』に比叡山の千日回峰行の開創者と伝える無動寺の相応和尚(831~918)が葛川の霊瀑で不動明王を感得したといった記載に表れているように、回峰行や修験道と深く結びついていたことがわかる。
 このように不動信仰は、平安時代には修験者たちを媒介として地方に伝播されたが、立山でも不動信仰の伝播が見られ、山麓の芦峅寺閻魔堂には平安時代の成立と推測される木造不動明王頭部が1体残っている。同尊頭部は寄木造りで全長は60cmもあるが、もとはそれに見合う巨大な胴体部も存在したはずである。同尊の存在により、遅くとも平安時代末期頃までには芦峅寺か、あるいはその界隈に不動信仰が伝播していたことや、こうした尊像を安置することが可能な規模の宗教施設・組織が存在していたことなども推測される。
 ところで、立山の開山については、鎌倉時代の『類聚既験抄』に無名の狩人の開山が記載される他、江戸時代の『和漢三才図会』や『立山略縁起』などには、大宝元年(701)、慈興上人(佐伯有若或いはその嫡男有頼)の開山が記載されるが、現実的には、延喜5(905)の「佐伯院付属状」(『随心院文書』)による越中守佐伯有若の実在や、『師資相承』にみえる天台宗園城寺長吏康済(昌泰2年〔899〕72才没)の功績「越中立山建立」の解釈から、開山は9世紀半ば以降10世紀初頭までに、天台宗寺門派勢力によって行われたと考えられる。そうすると、この頃から急速に立山山麓の宗教組織や施設が整備・拡大されたであろうから、やはり前掲の木造不動明王頭部もそうした背景のなかで開山以降、平安時代末期頃までに成立したと考えるべきであろう。
 一方、立山山麓上市町に所在する大岩山日石寺の不動明王磨崖仏は矜羯羅童子・制咤迦童子とともに平安時代初期の成立と推測され、また同岩に刻まれている阿弥陀如来坐像と僧形像は阿弥陀信仰が伝播した平安時代後期の追刻と推測されるが、これらの諸尊も平安時代初期から不動明王を自身の守り尊として信仰する山岳修行者たちが立山界隈で活動していたことを表している。

3―6―2.立山地獄
3―6―2―1.立山曼荼羅に描かれた立山地獄の図像

 日本人が古くからいだいていた山中他界観と仏教の地獄の思想がまじわり、立山では平安時代後期には、地獄谷や剱岳などの景観が地獄に見立てられて信仰された。
 平安時代後期の『今昔物語集』には「日本国ノ人罪ヲ造テ多ク此ノ立山ノ地獄ニ堕ツト云ヘリ」とみえ、立山が地獄を有する山として広く人々に認知されていたことがわかる。
 江戸時代には、立山信仰は立山山麓の芦峅寺や岩峅寺の宿坊衆徒によって護持され、全国各地に布教されて広まった。その際、布教内容の中核となったのが平安時代より脈々たる伝統をもつ立山の地獄信仰であった。彼らは庶民に対して「立山曼荼羅」を絵解きして布教したが、この絵図のなかで特に目を引くのは立山地獄の場面 である。
 立山の山中、特に地獄谷周辺を舞台として等活地獄・黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄・阿鼻地獄の八大地獄や六道世界の修羅道・畜生道・餓鬼道などでの責め苦の様子が所狭しと描き込まれている。

[1]内容的には八大地獄に該当・関連する図像及び図柄
●獄卒が亡者を鉄釜の熱湯の中に投げ込み煮る(黒ト処〔阿鼻地獄〕)、●瓮熟処〔等活地獄〕、●獄卒が亡者に大釘打ち込む〔等活地獄〕、●獄卒が亡者を包丁で切り刻む(解身地獄〔黒縄地獄〕)、●鶏が亡者を襲う(鶏地獄〔八大地獄付属別 処〕)、●美女に近づくために身体を切り裂かれながら樹を登り降りする(刀葉林〔衆合地獄〕)、●獄卒が亡者を猛火の中に投げ込み焼き尽くす(雲火霧処〔叫喚地獄〕)、●獄卒が亡者の舌を引き抜く〔大叫喚地獄〕、●目連尊者と串刺しの母〔焦熱地獄〕、●獄卒が亡者を炎上する鉄車に乗せて引き廻す(阿毘至大地獄の鉄車〔阿鼻地獄〕)。

[2]内容的には八寒地獄に該当する図像及び図柄
●寒地獄、●八寒地獄に堕ちた亡者。
[3]六道世界のうち修羅道・畜生道・餓鬼道に関する図柄
●刃を交える武士と太鼓をたたく獄卒(修羅道)、●畜生道、●餓鬼道。
[4]十王信仰に関する図像及び図柄 ●閻魔王、●冥官(右)、●冥官(左)、●人頭、●業秤、●浄玻璃鏡、●浄玻璃鏡に亡者の罪を映す獄卒、●浄玻璃鏡に罪を映される亡者、●首枷をされた亡者、●賽の河原、●賽の河原の地蔵菩薩、●賽の河原で石積みする子供たち、●賽の河原で石積を壊す獄卒。
[5]血盆経信仰に関する図像及び図柄
●血の池地獄、●血の池地獄に堕ちた女性の亡者、●血の池地獄に堕ちた女性を救済する如意輪観音菩薩、●血の池地獄に隣接して建つ如意輪観音堂、●血の池地獄の前に立つ僧侶(血盆経納経会)。
[6]盂蘭盆経信仰に関する図像及び図柄
●施餓鬼法要会、●施餓鬼法要会に結縁する蓮をかぶった人物(餓鬼)。
[7]その他
●石女地獄、●両婦地獄、●片袖幽霊譚、●針の山(剱岳〔黒縄地獄に類型あり〕)、●畜生道(傲慢の報いで牛になった森尻の智明坊)。

3―6―2―2.越中立山における地獄信仰の展開

[1]立山山中地獄の発生  
 インドの仏教経典『倶舎論』や『大毘婆沙論』などによると、地獄の位置について、それは人間が住む世界の地下に重層的に奥深く続くかたちで存在すると説く。一方、外来宗教の仏教が日本に伝わり伝播する以前から、日本人は、人が死ぬ とその霊魂は山中に行き、そこで死霊から祖霊に清められ、さらに子孫のまつりを受けるとより一層清められ山の神になると考えていた。すなわち、山地・山岳を死霊・祖霊の漂い鎮まる他界と考えていたようである。
 仏教が伝播すると日本ではこれらの両方の考え方がまじわり、霊魂の集まる山中こそが外来宗教の仏教が示す地獄のある場所だと信じられるようになった。つまり、地獄の様子やどのような罪でどのような地獄に堕ちるのかといった具体的なイメージは、圧倒的で壮大な理論体系をもつ仏教にもとづいたが、その場所については、仏教が伝播する以前から日本人がいだいていた考え方にもとづいて、山中に設定したのである。
 その際、越中立山は山中に火山活動の影響で荒れ果てた景観を有し、地獄を見出すには格好の場所であった。立山山中の地獄谷及びミクリガ池・血の池などは火山活動による爆裂火口であり、なかでも地獄谷では、火山ガスを噴出するイオウの塔、熱湯の沸き返る池、至る所からの噴気が見られ、また特有の臭いも相まって、そこは不気味な谷間となっている。こうした特異で非日常的な景観が地獄の様子に見立てられ、立山地獄の信仰が生まれたのであろう。
[2]立山山中地獄の展開(古代・中世)  
 立山は9世紀半ば以降、10世紀初頭までに開山され、天台教団系の宗教者たちの一拠点となっていた。しかし、それ以前にも山中修行者のいたことが、剱岳や大日岳で発見された平安時代初期の銅錫杖頭などの遺物によってわかる。
 彼らの目には、山中の地獄谷の荒れ果てた景観こそが、まさに仏教の説く地獄の世界のように映り、彼らはそれを諸国の霊山を巡って修行していくなかで喧伝したものと思われる。それゆえ、立山地獄は貴族社会を中心に、人々のあいだで次第に知られ信仰されるようになった。
 折しも、平安時代中期以降の末法思想の流行や比叡山横川の学僧源信による『往生要集』の著述及び内容の流布、地獄絵や六道絵の発展などは、そのような立山地獄の流布にも影響を与えたと考えられる。
 平安時代末期には、芸能往来物『新猿楽記』や歌謡集『梁塵秘抄』に見られるように、立山は日本各地の霊山・霊場とともに修験の行場、あるいは、観音霊場として知られていたが、その頃の立山に対する最も強烈なイメージは山中に実在する地獄の世界であった。
 平安時代に書かれた『本朝法華験記』や『今昔物語集』などの仏教説話集には、越中立山の地獄は死者の霊魂が集まるところとしてたびたび登場し、その一節に見える「日本国ノ人罪ヲ造テ多ク此ノ立山ノ地獄ニ墜ツト云ヘリ」の文言からも、その頃既に立山が山中に地獄をもつ山として、山中修行者や都の貴族・僧侶のあいだで認識されていたことがわかる。
 以下、この『本朝法華験記』や『今昔物語集』に収められている立山地獄説話の内容を若干見ておきたい。
 『本朝法華験記』第124「越中国立山の女人」は、立山参詣中の修行者が立山地獄に堕ちた女性の幽霊の依頼を受け、その近江国蒲生郡の生家を訪ねて、遺族に法華経の書写 供養を営ませ、それによって、女性の幽霊は立山の地獄から出てトウ利天に転生したという話である。この物語の冒頭では山中の地獄谷の景観や称名滝(勝妙の滝)にも言及している。また地獄の原に帝釈岳があり、そこは天帝釈・冥官の集会して衆生の善悪を考え定めるところだとしている。さらに、女性が生前に観音を祈念し一度だけ持斎した功徳で、観音が毎月18日に自分の身代わりとなって苦しみを受けてくれることも記し、観音代受苦説話の色彩 をも帯びている。なお、『今昔物語集』巻第14には、「修行僧至越中立山会小女語第七」と題された類話が見られるが、その内容は、立山参詣の修行者を三井寺の僧としているものの、その他の点ではこれとほぼ同様である。
 『今昔物語集』巻第17「堕越中立山地獄蒙地蔵助語第二十七」は、修行僧延好が立山地獄に堕ちた女性の幽霊の依頼を受け、その京の七条の生家を訪ねて、遺族に地蔵菩薩像一体の造立や法華経三部の書写 など、亡霊救済の追善供養を営ませた話である。そのなかで、女性が生前、祇陀林寺の地蔵講に1~2度参詣した功徳で、地蔵菩薩が毎日地獄にやって来て、早朝、日中、日没の3回、自分の身代わりとなって苦しみを受けてくれることも併記している。
 ちなみに、この地蔵代受苦説話は中世には地蔵菩薩霊験記絵巻として絵画化されたが、現在、アメリカのフリア美術館に13世紀中頃成立の『地蔵菩薩霊験記絵巻』が残っており、同本には「地蔵講結縁の人にかはりて苦を受給事」と題し、立山地獄に堕ちた女性に代わって責め苦を受ける地蔵の姿が描かれている。
 『今昔物語集』にはこの他、越中国の書生の妻が地獄に堕ち、その子3人が立山に参詣し、その地獄に堕ちている母の声を聞き、その望み通 りに国司の協力を得て千部法華経書写供養を営み、母を地獄から救う話も見られる(『今昔物語集』巻14「越中国書生妻死堕立山地獄語第八」)。
 以上、具体的に『本朝法華験記』や『今昔物語集』に収められた立山地獄説話を見てきたが、こうした説話は『宝物集』や『三国伝記』にも類話が見られる。そして、いずれにしろ、立山地獄に堕ちた亡霊の救済は、修行僧による錫杖供養だとか、遺族による法華経の書写 供養や地蔵菩薩への供養などによって行われている。
 さて、鎌倉時代に入ると、鎌倉期増補『伊呂波字類抄』10巻本の「立山大菩薩顕給本縁起」に、立山山中に八大地獄の顕現したことが記されている。八大地獄とは等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻を指し、罪状に応じて責め苦に等級があった。また各地獄は16の別 所をもち、合わせて136の地獄があるとされた。
 この他、室町時代の謡曲『善知鳥』は、生前、善知鳥(鳥の名前)を捕まえた罪の報いで立山の地獄に堕ちた陸奥の猟師の話である。当時既に全国的な広まりをみせる「立山地獄説話」と12世紀の『地獄草紙』などの地獄絵にみられる「鶏地獄」(人間世界にいた時、鳥や獣などの生き物を虐待した罪で堕ちる)、さらには後世『立山曼荼羅』にも描かれる「片袖幽霊譚」(立山地獄に堕ちた亡者が立山で修行中の僧侶に着物の片袖を託して遺族による供養を依頼する物語)の3つの要素が組み合わされ、まずは謡曲として成立した。さらに、これを原作として能楽『善知鳥』が上演され、今日に至っている。
 ところで、立山の地獄信仰は前述の文学作品などからもわかるように、日本の末法思想や浄土教思想の受容・展開過程の中でとらえることができる。
 すなわち、平安時代末期の『本朝法華験記』や『今昔物語集』に見られる立山地獄説話では、立山地獄に堕ちた亡霊の救済者は地蔵菩薩や観音菩薩であり、救済されて転生する先も阿弥陀如来の極楽浄土ではなくトウ利天とされる。なお、『本朝法華験記』第124話と『今昔物語集』巻14第7話には、帝釈天が衆生を裁く場所として「大イナル峰」、すなわち帝釈岳を記載している。ここでいう帝釈岳が立山連峰のいずれの峰を示すかは不明だが、平安時代の説話に登場する地獄谷周辺の山はこの帝釈岳だけである。おそらく、こうした説話を背景として、帝釈天風の容貌の銅造男神立像(寛喜2年〔1230〕の銘文が刻まれている)が製作されたのであろう。
 これに対して、鎌倉時代の『類聚既験抄』や山麓の岩峅寺・芦峅寺の諸宿坊家に伝わる『立山開山縁起』では、開山者を導く熊が阿弥陀如来の化身として記され、さらに南北朝時代に成立した『神道集』では、立山の浄土について「立山十二所権現即ち十二光仏の止住する山」、「越中国の一の宮をば立山権現と申す。御本地は阿弥陀如来是なり」と記され、立山山中の浄土を阿弥陀如来の浄土とする思想が強く表れている。このように、立山では、はじめは観音信仰や地蔵信仰がその山岳信仰の中核であったが、それらと結びつきながら鎌倉時代頃より次第に阿弥陀信仰が中核となっていった。
[3]立山衆徒に喧伝された立山山中地獄(近世・近代)  
 江戸時代、立山信仰は加賀藩の庇護のもと立山山麓の芦峅寺と岩峅寺の衆徒によって維持され、加賀藩領域内をはじめ全国各地に布教されて伝播した。その際、布教内容の中核となっていたのが平安時代より脈々たる伝統を有する立山の地獄信仰であった。
 芦峅寺衆徒は諸国での廻檀配札による勧進布教活動で、また岩峅寺衆徒は加賀藩領国内での出開帳による勧進布教活動で立山曼荼羅を教具として用い、民衆に対して絵解き布教を行った。特に芦峅寺衆徒の場合、毎年農閑期に諸国の檀那場に赴き、定宿を担う信徒宅で立山曼荼羅を掛け、近隣から集まった信徒たちを前にして、独特の節回しで曼荼羅に描かれている立山開山伝説や立山地獄と立山浄土、女人禁制にまつわる伝説、布橋大潅頂の祭礼などを語り聞かせた。なかでも、特に立山の地獄信仰を強調し、立山に参詣すれば堕地獄の罪も許されると説き民衆の参詣を誘った。女性に対しては、立山山中の血の池地獄(女性であれば避けえない血の穢によって堕ちるとされた地獄で、中国の偽経『血盆経』に基づく思想である。)の存在とその思想を強調して説き、そこからの救済を目的として毎年7月15日に芦峅寺で行われる大施餓鬼法要会への代参や、あるいは女性の極楽往生を願って、毎年秋の彼岸の中日に芦峅寺で行われる布橋大潅頂の祭礼への参加を勧誘した。
 ところで、江戸時代に実際に立山を訪れた禅定登山者たちの紀行文(例えば、大淀三千風『日本行脚文集』〔天和3年〕・橘三喜『一宮巡詣記』〔元禄9年〕・野田成亮『日本九峰修行日記』〔文化13年〕など)を見ていくと、彼らにとっては、立山三山(雄山・浄土山・別 山)巡りはもちろんのこと、かねてから聞き知っていた立山の地獄谷巡りも登拝コースとして、欠くことのできないものであったことがわかる。ほとんどの登山者は山頂をきわめた後、地獄谷巡りをしている。ただし、江戸時代後期になると、例えば十返舎一九が『金草鞋』(文化11年刊行)で立山地獄をちゃかすように、いずれの人々も地獄谷に対してはそれほど信仰的な恐怖感をいだいておらず、案外冷静に景観を観察している。
 江戸時代の文化・文政期頃から庶民のあいだで日本各地の寺社や霊場・霊山への参詣を名目とした物見遊山的な旅が流行するが、それによって参詣といった行為は、当然ながら本来の信仰行事としての意味が薄れたものになった。立山禅定登山者が立山地獄に対し信仰的恐怖感をほとんど抱いていないのも、おそらくこうしたところに起因するのであろう。
 さて、明治初頭の廃仏毀釈や廃藩置県により、立山信仰にかかわる芦峅寺・岩峅寺の宗教施設・一山組織は壊滅的な打撃を受け、部分的に廃絶、あるいは継続しても大きな転換を余儀なくされた。しかし、明治8年(1875)に大教院が、さらに明治10年(1877)に教部省が廃止され、明治新政府の神祇偏重の宗教統制政策が修正されると、仏教各宗派の独自の宗教活動も容認される状況となった。このような宗教界の気運のなかで、かつての繁栄をなくした芦峅寺と岩峅寺では、明治13年(1880)に旧東西社人(旧芦峅寺宿坊衆徒と旧岩峅寺宿坊衆徒)らで立山講社が結成された。
 この立山講社は、明治新政府の政策の影響を受けて崩壊した旧来の立山信仰を中心とする宗教組織を、神道講社(後に神道講社と仏教講社の2派に分裂した)の結成によって立山雄山神社信仰の名のもとに再編し、江戸時代、芦峅寺衆徒が諸国で行っていた廻檀配札活動に基づく講組織や旧縁を復活させ、立山への信仰登山者を獲得しようとするものであった。講社活動において、旧宿坊衆徒は檀那場の信徒に対し立山曼荼羅を絵解きして布教したが、その内容は江戸時代と同じように地獄・極楽の信仰を中核とするものであり、信徒たちのあいだでは講社の教義に基づく内容よりもむしろそちらの方が人気を得ていた。しかし、こうした立山講社の活動も明治時代中期にピークを迎えたが、その後はそれにかかわる旧宿坊家が次第に減少したため、立山曼荼羅の絵解きもろとも大二次世界大戦後まもなく消滅した。

3―6―2―3.立山地獄に関する参考文献

●五来重「山岳信仰と地獄」(『地獄と人間』所収、朝日新聞社、1976年9月)。●『別 冊太陽 地獄百景(日本のこころ62)』(平凡社、1988年7月)。●宮次男『日本の美術12 六道絵』(至文堂、1988年12月)。●川崎市民ミュージアム編『閻魔登場―閻魔登場展解説図録』(川崎市民ミュージアム、1989年8月)。●坂本要編『地獄の世界』(渓水社、1990年12月)。●五来重『日本人の地獄と極楽』(人文書院、1991年3月)。●山折哲雄『仏教民俗学』(講談社、1993年7月)。●由谷裕哉「立山地獄説話への一試論」(『立山地獄説話への一試論(富山県立山博物館調査研究報告書)』所収、富山県[立山博物館]、1996年3月)。●由谷裕哉「『法華験記』所収 立山地獄説話について」(『山岳修験 第20号 立山特集』所収、日本山岳修験学会、1997年11月)。●『立山山上石造物・関連遺跡調査報告書2 地獄谷・賽の河原』(富山県[立山博物館]発行、1998年3月)。●福江充「越中立山の地獄信仰と立山曼荼羅に描かれた地獄の風景」(『立山信仰と立山曼荼羅―芦峅寺衆徒の勧進活動―(日本宗教民俗叢書4)』所収、岩田書院、1998年4月)。●鷹巣純・福江充『地獄遊覧―地獄草紙から立山曼荼羅まで―?富山県[立山博物館]開館10周年記念資料集)』(富山県[立山博物館]、2001年9月)。

3―6―3.立山浄土

 立山曼荼羅の画面上、雄山と浄土山の山間や雄山と大汝山の山間に仏・菩薩の来迎場面 が描かれている。浄土山の右脇には、立山の本地である阿弥陀如来が観音菩薩と勢至菩薩を従え来迎している。左脇には、二十五菩薩が様々な楽器で荘厳な音楽を奏でながら来迎している。仏たちが乗っている雲は高速を表現した早来迎の形式で描かれている。曼荼羅によっては、仏たちが浄土山の斜面 を滑り降りるように来迎するものや、山を越えて、あるいは山の間をぬうように来迎するもの、山の向こうの異次元空間から突如降下するものなど、様々な表現がとられている。

3―6―4.立山禅定登山案内
3―6―4―1.立山禅定登山

 江戸時代、立山は加賀藩の支配地として厳しく管理され、禅定登山ができる期間は7月と8月の2ヶ月間だけであった。また、女人禁制のため女性の参詣者は禅定登山ができなかった。全国各地からやってきた禅定登山者は、登山の拠点となる岩峅寺・芦峅寺の宿坊で宿泊し、翌日早朝に衆徒や中語に引率されて入山し、まずは室堂を目指した。登山者は室堂で一夜を明かし、翌暁、衆徒に引率されて峰本社に登頂した。さらに三山(雄山・浄土山・別 山)や玉殿窟、地獄谷を巡って下山した。「立山曼荼羅」の画面では、山麓の宿坊集落から山中を経て山上に至る禅定登山道が骨格的に曼荼羅の構図を形成している。その道筋に沿って様々な名所や伝説が描き込まれている。

3―6―4―2.立山禅定登山案内の場面に含まれる伝説

[1]藤橋にまつわる伝説  
 芦峅寺より1里ほど先に大河が流れていたが、橋は掛けられていなかった。佐伯有頼が手負いの熊を追いかけこの地にさしかかったとき、金色の猪が現れ、有頼を背中に乗せて河を渡った。猪は河を渡り終えると、その先の坂の途中で姿を消した。河渡りの地を「藤橋」、猪が消えた坂を「黄金坂」という。また別 の伝説では、猪ではなく猿が現れ、藤蔓で橋を作って有頼を渡したという。一方、佐伯有頼にまつわる伝説とは別 に、次のものがあげられる。曹洞宗の開祖道元禅師が立山登拝のため、この地にさしかかったとき、橋がなくて河を渡れずに困っていると、多勢の猿が現れ、藤蔓を使って橋を掛け渡してくれた。おかげで道元禅師は無事に河を渡ることができた。それゆえ、この橋は「藤橋」と称されたとするものである。
[2]立山の女人禁制にまつわる伝説  
 立山の登山口に女人堂を建立するため材木を集めたところ、その木は一夜にして石に変わったという。また別 の伝説によると、若狭小浜の尼僧止宇呂が、2人の女子を従え強引に女人禁制の立山に入山した。その時、権現堂の建て替えのために積み置かれていた材木を跨いだところ、たちまち石に変わったという。これが、材木坂の「材木石」である。さらに止宇呂の一行は禅定登山を続け、罪の深さを断じる所とされた「断罪坂」にさしかかった。ここでは、従者の童女が気後れしてなかなか登ろうとしない。止宇呂はそれを叱ったので童女は脅えて小水を洩らしたが、その行為が山神を怒らせ道に深い穴が開いた。これを「叱り尿(しかりばり)」という。それでも登り続けると、2人のお供の女子は、それぞれ、壮女が「美女杉」に、童女も「禿杉」に変わってしまった。止宇呂はさらに登り続けるが、ついには自身も「姥石」に変わり、その際、立山権現に奉納するために持参した鏡を山頂に向かって投げたが、それも天狗平付近で落下し「鏡石」に変わってしまった。
 古来、大峰山や羽黒山、白山、立山、英彦山、富士山などの修験霊山はもちろん、比叡山や高野山など、各地の霊山では、女性の参詣登山を禁じていた。それゆえ、このような女人禁制にまつわる諸伝説は、各地の霊山にみられる。霊山に入ろうとする女性は「トラ」と総称され、伝説中には、例えば白山では「融姿(とおる)」、金峰山では「都藍尼」などの名前で登場している。
[3]称名滝にまつわる伝説
 浄土宗の開祖法然上人が立山に登拝した時、滝の音が称名念仏の声のように聞こえたので、この滝を称名滝と名付けたのだという。
[4]牛になった智明坊  
 上市森尻の寺の智明坊は、生まれつき驕慢で、信者からお布施を取り立てて生計をたててる悪僧であった。ある日、先達として参詣者を従え立山に登山した際、一ノ谷の岩場であやまって谷に転落してしまった。そして、そのまま牛の姿になって、ほえながら遠ざかっていった。その後、参詣者は立山登拝の帰り道に一ノ谷にさしかかり、そこで智明坊の名前を呼んだところ、牛が姿を見せ、悲しそうな表情で畜生が原の方へ遠ざかっていった。日頃の行いの悪いものが立山に登ると、生きながら畜生になってしまうのである。一方、別 の伝説では、智明坊は、にわかに牛の吼えるような声を出し、天狗となり、自ら光蔵坊と名のって一ノ谷に住んだという。剱岳の刀尾権現は、この光蔵坊を追い出したが、退散する際に、爪を一つ落としていったという。
[5]善知鳥  
 立山禅定の僧が、地獄巡りを終え下山しようとしていたところ、猟師の亡霊に出くわした。この亡霊が僧に話しかけていわく、自分は陸奥の外が浜出身の猟師で、生前「善知鳥」を捕らえた報いで立山地獄に堕ち、責め苦を受けているのだという。そして僧に、もし陸奥に行かれることがあれば遺族を訪ね、蓑笠を供養してくれるように伝えてほしいと懇願した。これに対し、僧が、遺族を納得させるだけの証拠を求めたので、猟師は僧に形見の品として麻衣の片袖を託し消え失せていった。その後、僧は外が浜に猟師の妻子を訪ね、まず猟師の伝言を伝え、形見の片袖を渡した。妻子がこれを供養すると猟師の亡霊が現れ、生前の猟で犯した業と、地獄での責め苦の様子をまのあたりに見せ、そうこうするうちに、助けを求めながら消え失せていった。この伝説に登場する「善知鳥」とは鳥の名前で、善知鳥の親鳥が砂中に隠した雛鳥に餌を与える際に「うとう」と鳴くと、雛鳥が「やすかた」と応える習性から善知鳥と名付けられたと伝承されている。この伝説の内容は、室町時代に既に全国的な広まりをみせる「立山地獄の因果 応報譚」と12世紀の『地獄草紙』等にみられる「鶏地獄」のモチーフを組み合わせ、まずは謡曲として作られた。これを原作として『能-善知鳥』が上演され今日に至っている。

3―6―4―3.立山の伝説に関する参考文献

●廣瀬誠『立山と白山』(北國出版社、1971年3月)。●佐伯幸長「立山の文化財と伝説と大仙人雑話ならびに由縁の人々」(『立山信仰の源流と変遷』所収、立山神道本院、1973年9月)。●佐伯幸長「立山をめぐる伝承説話」(高瀬重雄編『白山・立山と北陸の修験道(山岳宗教史研究叢書10)』所収、名著出版、1977年9月)。佐伯泰正『あしくらに伝わる民話』(国立立山少年自然の家刊行、1990年11月)、●佐伯泰正編『立山のむかし』(1991年3月)。●福江充「立山の伝説」(『平成6年度全国高等学校総合体育大会 第38回全国高等学校登山大会 予報 第1号』所収、1994年)。

3―6―5.立山山麓芦峅寺の布橋と布橋大潅頂の祭礼
3―6―5―1.芦峅寺の布橋について

 布橋は、立山山麓芦峅寺地域の姥谷川に架かる木橋である。この橋は芦峅寺の人々には日常生活の中で渡られ、また立山登拝者たちもこの橋を渡って立山山中に向かった。この橋は「姥堂御宝前の橋」、「天の浮橋」などと呼ばれた。
 江戸時代、毎年秋彼岸中日に閻魔堂と姥堂、及びこの橋を利用し、女性の極楽浄土への往生を願って布橋大潅頂の祭礼が執行されたが、その際、橋に白布が敷し渡されることから「布橋」とよばれ、極楽浄土へ渡る掛け橋とされた。いわば、この橋は此岸と彼岸をつなぐ境界の橋と観念されていたのである。
 布橋大潅頂の祭礼で女性の信者は、橋に敷かれた白布の上を目隠しをして渡らせられたが、悪人はこの橋から谷川へ転落すると伝承され、立山曼荼羅にもその記載がみられる。
 橋の長さ25間は二十五菩薩、高さ13間は十三仏、桁の数48本は阿弥陀如来の四十八願、敷板の数108枚は煩悩の数、欄干の擬宝珠の数6個は六地蔵、釘数3万8千8本は法華経の文字数など、橋を構成する各部分には、仏教思想にもとづいて意味が込められている。また、敷板の裏には仏の種子が墨書されている。
 こうした布橋は、高野山奥の院の御廟川に架かる御廟橋(無明橋)や伊勢神宮の五十鈴川に架かる宇治橋とともに日本三霊橋のひとつに数えられていたという(日光の大谷川に架かる神橋がそのひとつに数えられる場合もある)。
 橋の成立については、延宝2年(1674)の「一山旧記扣」に、「天正十八年(1590)に中宮姥堂・同橋」などの修理が行われたという記載がみられることや、布橋再建の橋札銘文(文政3年(1820))に、布橋が慶長11年(1606)に造営されたとの記載がみられることから、近世初期には既に掛けられていたものと考えられる。「布橋」の語句については、前述の延宝2年(1674)の「一山旧記扣」に、慶長19(1614)年に芳春院・玉 泉院が中宮姥堂へ参詣に訪れ、その際、「御宝前之橋ニ布橋を御掛、大分之儀式被為成」とみえるのが初出であり、一方、橋そのものを「布橋」と呼称した例については、前述の文政3年(1820)の橋札銘文に「姥堂前布橋」とみえるのが初出である。明治初年に、明治新政府の神仏分離令による加賀藩の神仏分離政策で廃絶したが、昭和45年(1970)、立山風土記の丘の一環として復元された。布橋の遺物としては、慶長14年(1609)の棟札および寛永元年(1624)の擬宝珠〔加賀3代藩主前田利常が寄進〕が現存する。

3―6―5―2.芦峅寺布橋大潅頂の祭礼内容

 慶長19年(1614)、加賀初代藩主前田利家夫人芳春院(お松)と加賀2代藩主前田利長夫人玉 泉院(織田信長の4女永)が越中立山山麓の芦峅寺に参詣し、滞在中に同寺姥堂の前の姥谷川に架かる橋に布橋(橋板の上に白布を敷き渡して橋に見立てた)を掛けて何らかの宗教儀式を行った。
 ちなみに、同年、加賀2代藩主前田利長が5月20日に亡くなり、その母である芳春院(お松)は、慶長5年(1600)以来の江戸での人質生活から解放され、6月に金沢にもどってきている。10月には大坂冬の陣が勃発し、翌年の大坂夏の陣、さらには豊臣家滅亡へと続き、前田家にとっては、まさに激動の時代であった(利家の3女摩阿は秀吉の側室となる。4女豪は秀吉の養女となる)。こうした状況から芳春院と玉泉院が芦峅寺を訪れた意味を考えてみると、次の3つが考えられる。 [1]利長の追善供養、[2]生前に自分を供養する逆修供養、[3]大坂冬の陣など政情不穏な時期を控え、古くから軍事上意味のある芦峅寺の衆徒を懐柔しておく、といったことなどが推測される。
 さて、前述の慶長19年(1614)の儀式が契機となったのか、あるいは、それ以前から芦峅寺でこうした儀式が行われていたのかは、それを示す史料が現存せず明らかではないが、慶長19年(1614)の加賀藩主夫人らによる一件以降も、布橋を利用して何らかの宗教儀式が行われていたことが芦峅寺文書などの史料から断片的にうかがわれる。
 そして、近世後期になると、文政3年(1820)にそれまで破損の著しかった布橋が新たに架け替えられたことを契機に、さらには文政6年(1823)から芦峅寺に定住した元高野山の学侶龍淵の影響なども受け、女人救済をかかげる「布橋潅頂会」として芦峅寺一山の最も重要な祭礼に発展した。
  以下、近世後期における布橋潅頂会の内容を概略しておくと、この祭礼は毎年秋の彼岸の中日に芦峅寺の姥堂・閻魔堂・布橋を法場として執行された。
 まず初めに、全国各地から訪れた参詣者は閻魔堂で懴悔の儀式を受け、そこで三昧耶戒を授かる。それが終わると宿坊の衆徒(引導師)に導かれ、声明曲や楽器の演奏で賑やかななかを衆徒と共に行道し布橋を渡る。
 なお、芦峅寺の伝承によると、女性の参詣者たちはこの白布が敷き渡された橋を目隠しをして渡らせられたが、悪事を働いた者は白布が蜘の糸のように細く見えうまく渡ることができず、この橋から、大蛇が口を開けて待ちうける谷川へ転落したといわれている。そして、この様子は立山曼荼羅に描かれてる。
 布橋を渡り終えると、衆徒(来迎師)に導かれ姥堂へ入る。堂内では天台系の四箇法要が勤められ、血脈の授与や説法が行われた。一方、これについて芦峅寺の伝承によると、姥堂では堂篭もりの儀式が行われたとされ、扉を閉め切った暗い堂内での勤行ののち、扉がいっせいに開けられると、まばゆい光りが入り込み、まさに極楽浄土からの仏の来迎を疑似体験したのだといわれている。
 女性の参詣者は、この儀式に参加することによって来世の極楽往生を約束され、生まれかわった気持ちで日常の生活に帰っていったのだという。
 さて、こうした布橋潅頂会の儀式内容からもうかがわれるように、布橋は極楽浄土へ渡る掛け橋とされており、いわば、此岸と彼岸をつなぐ境界の橋と観念されていたわけである。そして、こうした観念にもとづき、芦峅寺地域では墓地は布橋を渡った先、すなわち彼岸の地に設けられている。
 なお、布橋潅頂会と類似した儀式として、奈良県北葛城郡の当麻寺や東京都世田谷区奥沢の浄真寺、京都市東山区今熊野の泉涌寺即成院で行われている迎講(葬送儀礼の一例として、阿弥陀如来の迎接のありさまを模し演劇化した儀式)があげられる。

3―6―5―3.文政末期以降に急増した布橋大潅頂や立山大権現祭などの祭礼への参詣者
 
 立山は女人禁制で女性の参詣者は登拝することができなかった。また観光・遊楽的な要素が強まったとはいえ、やはり禅定登山は肉体的に厳しく高齢者にはむいていなかった。さらに、健康な男性にとっても、立山に入山して登拝できる期間は7月~8月の2ヶ月間だけで、シーズン外に訪れると山麓の岩峅寺・芦峅寺などの霊場にしか参詣することができなかった。それゆえ19世紀以降、各地の社寺・霊山参詣が大衆化していくなか、立山を訪れる女性や老人の参詣者は急増したが、こうした人々にとっては、禅定登山にではなく、例えば、立山開山慈興上人の廟所があり立山大権現が勧請された山麓の霊場芦峅寺に参詣すること、あるいは、そこで行われる祭礼に参詣・結縁することにこそ重要な意義があったのである。
 さて芦峅寺では、古くから毎年秋彼岸の中日に布橋を利用して何らかの宗教儀式が行われていたが、この儀式は、文政3年(1820)にそれまで破損の著しかった布橋が新たに架け替えられたことを契機に、さらには文政6年(1823)頃から芦峅寺に定住した、もと高野山の学侶龍淵などの影響を受け、その内容に真言宗の結縁潅頂の思想が取り込まれ、より多くの庶民の参詣・結縁を対象とした完成度とイベント性の高い祭礼、いわゆる「布橋潅頂会」として再構成された。
 そして、この祭礼は身分性別を問わず、来世の極楽往生を願う人々全てを対象としていたため、当時の仏教界において救済の対象から洩れがちであった女性たちの間でとりわけ人気を博し、祭礼当日には加賀藩領内はもとより全国各地から参詣者が群集した。
 一方、布橋潅頂会だけではなく、毎年7月12日から15日までの間、芦峅寺において芦峅・岩峅両寺衆徒が合同で執行した立山大権現祭礼についても、全国各地から参詣者が群集した。

3―6―5―4.布橋大潅頂の祭礼に関する参考文献

●草野寛正「立山姥堂の行事考」(『高志人 1巻1号』所収、高志人社編、1936年9月)。●廣瀬誠「立山御姥信仰の一考察」(『信濃 第16巻 第1号』所収、信濃史学会編、1964年1月)。●五来重「布橋大灌頂と白山行事」(高瀬重雄編『山岳宗教史研究叢書10 白山・立山と北陸修験道』所収、名著出版、1977年9月)。●廣瀬誠「立山の御姥信仰」(『立山黒部奥山の歴史と伝承』所収、桂書房、1984年10月)。●橘禮吉「白山加賀禅定道の検証紀行1―加賀禅定道に布橋灌頂はあったか」(『あしなか 第222編』所収、山村民俗の会、1989年)。●岩鼻通 明「特集―死と再生 越中立山女人救済儀礼再考」(『月刊芸能 1992・2 特集―死と再生』所収、1992年2月)。●菊池武「我が国の擬死再生儀礼と立山布橋大灌頂会(前篇)〔富山県立山博物館調査研究報告書〕」(富山県[立山博物館]、1994年3月)。●鈴木正崇「女人禁制の宗教論」(『日本の美学21 特集 性 美と禁制の葛藤』所収、日本の美学編集委員会編、ぺりかん社、1994年7月)。●「我が国の擬死再生儀礼と立山布橋大灌頂会(後篇)〔富山県立山博物館調査研究報告書〕」(富山県[立山博物館]、1995年3月)。●菊池武「再生儀礼と布橋大灌頂会―特に布をめぐって―」(『山岳修験 第20号 立山特集』所収、日本山岳修験学会、1997年11月)。●福江充「「芦峅寺文書」に見る布橋と布橋灌頂会」(『立山信仰と立山曼荼羅―芦峅寺衆徒の勧進活動―(日本宗教民俗叢書4)』所収、岩田書院、1998年4月)。●福江充「芦峅寺姥堂の立地・構造からみた布橋灌頂会」(『郷土の文化 第25輯』所収、富山県立図書館・富山県郷土史会、2000年3月)。

3―7.立山曼荼羅に関する参考文献

●沼賢亮「立山信仰と立山曼荼羅」(『仏教芸術 68号』所収、仏教芸術学会編、毎日新聞社、1968年8月)。●林雅彦『日本の絵解き―資料と研究―』(三弥井書店、1982年2月)。●長島勝正『立山曼荼羅集成(複製)第1期』(文献出版、1983年)。●岩鼻通 明「宗教景観の構造把握への一試論―立山の縁起、マンダラ、参詣絵図からのアプローチ」(『空間景観イメージ』所収、京都大学文学部地理学教室編、地人書房、1983年8月)。●佐伯立光「立山曼荼羅図に見られる立山信仰の世界」(『立山町史 別 冊』所収、立山町編・刊行、1984年2月)。●長島勝正『立山曼荼羅集成(複製)第2期』(文献出版、1985年2月)。●岩鼻通 明「立山マンダラ作成年代考」(『山岳修験 第2号』所収、山岳修験学会編、山岳修験学会・名著出版、1986月9月)。●岩鼻通 明「立山マンダラにみる聖と俗のコスモロジー」(『絵図のコスモロジー 下巻』所収、葛川絵図研究会編、葛川絵図研究会・地人書房、1989年7月)。●岩鼻通 明『社寺参詣曼荼羅の系譜における立山曼荼羅の位置づけに関する研究(富山県立山博物館調査研究報告書)』(富山県教育委員会立山博物館建設準備室、1991年3月)。●『富山県[立山博物館]開館記念展解説図録「立山のこころとカタチ―立山曼荼羅の世界」』(富山県[立山博物館]、1991年11月)。●鈴木昭英「社寺参詣の絵解き―参詣曼荼羅の特性とその普及」(『仏教民俗学大系5 仏教芸能と美術』所収、名著出版、1993年9月)。●楠瀬勝「石黒信由の立山道筋実測図と立山曼荼羅」(田中喜男編『歴史の中の都市と村落社会』所収、思文閣出版、1994年10月)。●林雅彦「絵解き台本「立山曼荼羅」」(『絵解き研究 第12号』所収、絵解き研究会、1996年9月)。●岩鼻通 明「立山曼荼羅研究の成果と課題」(『山岳修験 第20号 立山特集』所収、日本山岳修験学会編、1997年11月)。●福江充『立山信仰と立山曼荼羅―芦峅寺衆徒の勧進活動―(日本宗教民俗叢書4)』(岩田書院、1998年4月)。●福江充「立山略縁起と立山曼荼羅―芦峅寺宝泉坊旧蔵本『立山縁起』の紹介と考察―」(『国文学 解釈と鑑賞 第63巻12号 特集 物語る寺社縁起』所収、至文堂、1998年12月)。●福江充「立山曼荼羅の図像描写 に対する基礎的研究―特に諸本の分類について―」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第7号』所収、富山県[立山博物館]、2000年3月)。●福江充「立山曼荼羅に関する外郭情報―特に呼称と形態について―」(『人と自然の情報交流誌 たてはく 第36号』所収、富山県[立山博物館]、2001年3月)。●福江充『近世立山信仰の展開―加賀藩芦峅寺衆徒の檀那場形成と配札―(近世史研究叢書7)』(岩田書院、2002年5月)。●高木三郎『富山県[立山博物館]平成14年度春季企画展解説図録「探検!立山曼荼羅―親子で親しむ立山開山伝説―」』(富山県[立山博物館]、2002年7月)。

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