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版画にみる富山の美術
麻生恵子(富山県民会館美術館)
はじめに
版の歴史は、出版や印刷の歴史と重なることが多く、文化の発展と共に高まり盛んになっている。富山県でも例外ではなく、富山県で版を利用した刷り物(版画)がどのように変遷したのかを調査し、版の面から富山県の美術を検証するという目的から、富山県民会館美術館・分館金岡邸・分館内山邸(平成12年10月21日~11月8日)と新川文化ホール(平成12年11月17日~12月3日)において、企画展「とやま 版」を開催した。展覧会では、作品が集中している江戸時代から現代まで〈註1〉約四百点を展観することとした。本稿では、展覧会「とやま 版」とともに、富山県の刷り物(版画)について紹介し、特に大正時代以降の版画―創作版画から現代の版表現までの報告を行ないたい〈註2〉。
富山の版の変遷
出品作品の多くは、印刷の中心地江戸(東京)や京都、大阪の都市からの影響を受け、発展している。歴史を概略してみると1.宗教版画(立山信仰の版木、刷りもの)、2.江戸の例にならい富山の絵師に描かせた絵俳書、3.富山藩主前田利保公自らが編じ精緻で贅を尽くした本草学の書物「本草通串証図」、4.売薬さんのおみやげとして人気があり多種でしかも大量に刷られた売薬版画、5.明治から大正にかけて作られたポスター、引札(チラシ広告)、6.創作版画に刺激を受けて誕生した文芸誌の表紙、7.美術としての版画、8.現代の版表現〈註3〉と、富山においても大きな一つの流れを形成しているように見える。
1.から5.までの刷り物、刷り絵(刷りものの中でも特別な配り物だけでなく図柄が刷られているもの)は、多種多様で版が人々の生活に密着していたことがわかる。特に江戸時代から明治時代、大正時代にかけて、大衆の生活の中から、刷り絵が多くつくられているが、富山でも、護符や立山登山案内図など立山信仰の刷りものと、富山の売薬さんがおみやげとして持参し、ごく初期を除き富山の版元によって富山の絵師の作品を富山で刷った売薬版画が、代表的なものとしてあげられる。「大量に生産できる」という版の特質がもたらした普及効果は大きく、生活に密着し実用のための物として発展した。印刷物の中心地の影響を受けたとはいえ、地方から生まれた特色ある大衆文化の一つとしてとらえられる。富山から発信した版の産業と文化の中に、独自の模様(デザイン)や由来、流行をとらえる動きがあったと考えられる。
「とやま 版」会場風景 富山県民会館美術館内
「とやま 版」会場風景 金岡邸内
富山県の版画ー創作版画から現代の版表現まで
明治時代末から大正時代、国内では、印刷技術の急速な進歩を背景に、版をめぐる状況はめまぐるしく変化した。小説の口絵に腕を揮うもの、日露戦争などの社会状況を錦絵で伝えるもの、一方で、山本鼎や織田一磨など版の表現性を追求し芸術としての版画-創作版画を作り出した作家もいた。
明治時代末から大正時代、国内では、印刷技術の急速な進歩を背景に、版をめぐる状況はめまぐるしく変化した。小説の口絵に腕を揮うもの、日露戦争などの社会状況を錦絵で伝えるもの、一方で、山本鼎や織田一磨など版の表現性を追求し芸術としての版画-創作版画を作り出した作家もいた。
富山県では、江戸時代から明治時代にかけて、売薬産業の成長に伴い、時代を映し出す多種多様の売薬版画や薬袋、引札等が大量に生みだされた。明治時代中頃(30年代半ば)以降、売薬版画も木版から石版へ、家内工業的な印刷から大量印刷の時代へと変化し、カラーの印刷物も次第に日常に現れるようになり、売薬のおまけも紙風船などが主流となり、大正から昭和にかけて、売薬版画はその歴史をとじることになる。
産業としての売薬版画が終焉に向かう頃、自己表現としての版の絵―創作版画が生み出される。旧大門町出身の改井徳寛は、大正6年(1917年)、村井盈人、久泉共三、雄山通季(出品は大正7年〔1918年〕から)らとともに、富山県で最初の洋画団体「北国洋画協会」を結成し展覧会を行った。この頃、盛んに詩作を行い、自由詩・口語詩の新しい形式で創られた同人誌『生命の詩』を村井盈人、松本福督と発行し、詩人や歌人ら文芸の関係者とも交流を深めた〈註4〉。同人誌『火焔』、『日本海詩人』、『蓑毛』は、当時、詩や歌、俳句など、富山の文芸の分野でも新しい活動を興そうと創作された文芸同人誌である〈註5〉。表紙・挿絵は、改井徳寛、村井盈人、雄山通季の他に、武蔵白草(日本画)、方等深雪(文芸)、高道夕咲人(文芸、写真、彫刻)など、同人または交流のあった作家が木版で作ったものが多く、山本鼎が創刊した雑誌『方寸』等から創作版画運動の影響を受け、制作したと考えられる。彼らの多くは主に洋画を制作し、版画を本格的に制作したというわけではないが、これまでの版画とは異なり、自己の愉しみ、あるいは表現を発表した点で、富山県の創作版画の芽ばえということができるだろう〈註6〉。
昭和に入り、富山市では印刷の美術講習会(謄写版講習会・若林紙店主催:昭和6年(1931年)など)も行われるようになり、単なる印刷ではなく「版の絵を刷る」こと―美術表現としての認識が次第に生まれていたことがわかる。
昭和13年(1938年)、富山市の旧制富山中学で本格的な版画講習会が開催される。講師に、美術雑誌『みずゑ』の編集者であり自身も版画家・版画研究家であった小野忠重(木版画)と武藤完一(銅版画)を迎えた。講習生は全部で14人、多くは美術教師で、東一雄、飯田文一、大平方、川辺外治、楠本繁、佐藤良正、布尾良作らがいた。
中でも東一雄は、小野の労働者などを力強く描く作品と人間性に惹かれ、その後、本格的に版画を制作するようになる。小野が中心となって活動した「造形版画協会」にも参加し(第3~6回、9、10回)、宇治山哲平、斉藤清などと関わり、その交流から作家としての意識を次第に確立していった。技術的にも、紙の下地から加工し、彫った線がそのまま絵になる陰刻法と呼ばれる技法を小野から学び、さらに壁のように何層にも重なった画面を創り出す独自の作風を獲得した。こうした東の初期の作品は一、二点のみの制作で、版の絵(版画)の芸術性と作品のテーマから広がる大衆性の可能性を追求した富山県における創作版画の始まりの作品といえる。東の影響は大きく、以降も富山市、氷見市などで、小野を招き、また自らも版画講習会を開き、多くの郷土の作家を牽引することになる。
昭和20年(1945年)頃、第二次世界大戦の影響から多くの人が富山県に疎開している。中でも、福野町に疎開した織田一磨、福光町に疎開した棟方志功は、郷土の作家に多大な影響を与えた。
戦後まもなく、昭和21年(1946年)から開催された富山県総合美術展では、洋画部門の審査員として、織田一磨、伊藤四郎、棟方志功、荒谷直之介など疎開作家たちが務め、郷土作家たちの大きな励みとなった。また、織田、棟方に加え、東一雄、金守世士夫、越野義郎、玉井忠一、永原広、村井辰夫、手塚義三郎、石川から森嘉紀が参加して「北陸大衆版画協会」が設立、昭和23年(1948年)富山大和にて第1回展のみの「北陸版画協会展」も開催された。
昭和25年(1950年)、棟方の指導・助言により、「越中版画会」が結成され、毎月1回越野義郎宅で研究会が開かれ、棟方志功、棟方令明、奥井友子、金守世士夫、越野義郎、尼野和三らによる自主版画集『越中版画』を発行した。これは『日本板画』へと引き継がれ、さらに昭和27年(1952年)、棟方が帰京した後、「越中版画会」を継いだ金守は新たに「富山板画会」を主催し、金守、越野、尼野、佐竹清らとともに『富山板画』、続いて『版芸』を発行している。
一方で、小野、東の版画の芸術性と大衆性を追求する姿勢は多くの作家に影響を与え、素材・色合い・表現方法も多種多彩で、独自の版画を模索する作家たちが制作活動を展開している。
富山県出身で国際的に活躍する作家もいる。高岡市出身の南桂子は、版画家浜口陽三との出会いから銅版画を本格的に制作するようになり、昭和28年(1953年)とともにフランスへ渡り、独特の心象風景の世界を創り上げた。その後も、アメリカ、日本と活躍の場を広げ、世界で高い評価を受けている。入善町出身の前田常作は、独自の宇宙観、信仰に基づく「曼陀羅」シリーズで国内外で高い評価を受けている。フランスに滞在中(昭和33年〔1958年〕から昭和38年〔1963年〕まで)に制作した銅版画は、繊細な描線が複雑にからみあい、小宇宙を創りだしている。
現代の版表現は、「版画」という言葉ではとらえきれない、版画の特質を踏まえた版画と、版画そのものを問い直す、あるいは版画の特質を超えようとする作品に大きく分けることができるだろう。高岡市出身の堀浩哉は、昭和50年(1970年)、塗る順番を変え、三原色を重ね刷りした「Three
Primary Colors-Practice 」を発表した。微妙に生じる色の違いから、塗るあるいは刷るという行為を改めて認識させる作品で、同時に絵画とは、版画とはと表現の本質を問いかけている。
一方で、’70年代、’80年代において、版画の技法はますます複雑化し、「写し出す」という性質から、写真を併用した作品、またシルクスクリーンとリトグラフ、コラージュなどを幾つかの技法を併用した作品も現れる。橋本文良は、多彩な技法を併用し、イメージを映し出すような作品を制作している。
藤江民は、「写し出す」という方法を使い制作しているが、リトグラフ、シルクスクリーン、銅版画とそれぞれに技法を変え、また版の技法を用いて絵画も制作している。情報が複雑化している現代では、版表現は多くの選択の中の一つであり、同時にその技術も、多様化はしているが、選択によって独自のものを作り出す一つの手段となっている。
分館内山邸では、富山県の現代の版表現の一断面として7作家を紹介した。無数の蟻をプリントした板で正門の壁部分を覆った柴沢勝造は見る人の視覚を意識させ、イメージと実際の風景を重複してとらえる島映子は、展示においても戸を開け自然の光と風を感じさせる試みを行なった。美術館という場を離れ、古い豪農の館に合わせて版表現を紹介し、美術を見つめ直す試みの一つとして企画したことを加えたい。
「とやま 版」会場風景 富山県民会館美術館内
「とやま 版」会場風景 内山邸内
撮影:小杉善和
おわりに
これまで、富山県の刷り物(版画)の研究は、立山信仰の版、売薬版画、あるいは富山藩の刷り物、そして戦後の版画と分かれたものが多かったように思う。よって、本研究の目的は、まず、富山という一地方における、版を通しての人と版との関係や美術のとらえかたの変遷を調査することにあり、これを展覧会として紹介することであった。このような広範囲の研究に不十分な点も多かったと思うが、富山県の版の変遷のおおまかな流れや、これまで知られていなかった大正・昭和初期の創作版画の活動などは、展覧会において紹介することができた〈註7〉。今後は、個々の作品についての分析やその歴史について、さらなる研究を続けていきたい。
〈付記〉
この度の調査・研究の資金の一部として、富山県博物館協会の美術館・博物館研究補助を利用させていただきました。また、展覧会の開催にあたり、所蔵家、関係者の方々に多大なるご指導ご協力を賜りました。記して、心よりお礼申しあげます。
註
〈1〉富山県では、奈良時代末期から平安時代初頭(8世紀末~9世紀初め)の草花や兎などを浮き彫りにした染色用の版木が出土している(富山県射水郡大島町・北高木遺跡)。染織用の版木の例は極めて少なく、日本最古の版木状木製品とされている。また、奈良時代前半(8世紀前半)の粘土板に印刻され素焼きで裏面に簡単なつまみがついている印仏も発見されている(富山県射水郡小杉町・小杉流通業務団地内遺跡No.16)。
〈2〉「とやま 版」図録(富山県民会館美術館2000年発行)では、富山県の刷り物(版画)について、執筆者4人による4論文を掲載した。富山県の版の変遷について、杉野秀樹「版の変遷と富山―実用から美術の世界へ」『とやま 版』資料集p1~3
、立山信仰の版木・刷り物については、福江充「立山信仰と刷り物」『とやま 版』資料集p4~7、江戸時代から明治時代まで富山県の刷り物(版画)については、坂森幹浩「富山の版画について」『とやま 版』(富山県民会館美術館2000年発行)資料集p8~12
を参照。本文は、拙文「とやま 版 ―創作版画から現代の版表現まで」『とやま 版』資料集p13~15を基に作成した。
〈3〉展覧会「とやま 版」では、5.引き札などは分館金岡邸で、9.現代の版表現の一部は分館内山邸で紹介した。
〈4〉北国洋画協会展の出品者の中には、詩人の松本福督、詩・歌人の喜多紅平、女性として早くから文筆活動をした高松翠子(本名:方等深雪)の名もあげられ、この頃の交友関係を知ることが出来る。
〈5〉他に『石附』(1巻1号から2巻6号まで、昭和8~9年〔1933~1934年〕、発行:石附発行所、編集・発行人:高道勇作(1-1、1-2、2-1、2-2,3、2-5、2-6)、前川正輝(2-4、2-5、2-6)にも表紙絵、挿絵に版画が使われている(作者不明。同人の高道夕咲人、武蔵白草か)。
〈6〉展覧会「とやま 版」では、〔創作版画の芽ばえ〕として、富山市出身の尾竹一枝(富本憲吉と結婚後、富本一枝)も紹介。尾竹は明治45年(1902年)雑誌『青鞜』の青鞜社に入り、富本憲吉に木版画を学び、大正2年(1913年)雑誌『青鞜』の表紙を担当した。また〔教育者の版画〕として、富山市出身で中央で活躍した結城正明を紹介。明治時代以降、学校教育の中で図画教育が始まり、普通教育、又は専門教育の一部として諸学校で絵画が教えられるにあたり、東京美術学校、京都府画学校を卒業した図画の教師が、富山県でも教壇に立った。富山時代の版画は見つからなかったが、富山で教鞭を執った高橋節雄、橋本興家の作品も紹介した。
〈7〉立山信仰の版画や売薬版画と現在へのつながりは、篁牛人等、作家たちの薬のパッケージ・デザインなどに垣間見ることができるが、現段階では十分な調査ができなかった。富山での創作版画や戦後の版画に直接引き継がれることはなかったが、背景としてはつながりをもっている。作家たちの多くは、刷りものや版画を身近に感じ、紙や版を感じ取っている。清水遠流は実家が売薬業を営み、現在もその影響で和紙と版画史を研究している。藤江民は、売薬版画の印刷所から石版用のプレス機と石を貰い受け、リトグラフ(石版)の制作に使用しているという。