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砺波地方に疎開した作家と戦後地元作家の動き

末永忠宏(砺波市美術館)

はじめに

 砺波市美術館では平成9年の開館より、砺波出身作家の展覧会を開催してきた。これまでに紹介した作家は川辺外冶、永原廣、表立雲、清原啓一、下保昭の五氏。 彼らの活動を見ていくと、戦中戦後にかけて、注目すべきいくつかの事柄に行きあたる。彼らの戦中戦後を作家活動の転機と捉え直してみると、そこには当時の多くの疎開作家の存在が浮き彫りとなって現れてくる。
 戦時中、県内に疎開した作家の活動は、県内美術に大きな影響を与えたといわれる。砺波は多くの疎開作家があった地方として知られているが、ここにその名を挙げると、太田村に書の大澤雅休、出町に彫塑の永原廣、福光町に版画の棟方志功、城端町に彫刻の村井辰夫と日本画の小坂勝人、福野町に版画の織田一磨、城端町に洋画の伊藤四郎、井波町に彫刻の小柳津三郎など、多彩な顔ぶれである。彼らは当時よりその活動が広く認められた実力作家であり、戦後ほどなく開催する県展においては運営面で主要な役割を担うなど、県内美術の発展に貢献した。日常生活にも事書く苦難の時代にあって、その活動は驚くほど顕著であり、その影響、県内美術への貢献の大きさは計り知れない。戦前戦後の数年間に起きた県内美術の出来事を中心に、疎開作家と地元作家の動きに注目してみたい。

戦前の県内美術

川辺外治

 明治期に大きく発展した近代美術の思潮は、近代美術教育機関の確立、洋風美術の技術普及、官展の開催、雑誌・同人誌の出版など、さまざまな動きを通して、戦前までに県内美術家に波及していたが、県内は中央に比して具体的な情報や知識を得るにはまだまだ困難な面が多かった。
 県内で戦前より、数少ない美術家養成所としての役割を担っていたのは、教育機関であったが、その最たるは明治27年創設の富山県工芸学校であろう。郷倉千靭、山崎覚太郎、佐々木大樹、松村外次郎らは同校を卒業して、東京美術学校に進み後年、美術家として名声を得た。また富山県師範学校では、原田隆諦、曾根末次郎、安岡信義、大瀧直平、佐藤良正、手塚義三郎らが自ら作家活動を行いながら、同校やその付属学校で美術家教育を担当して、学生の才能発掘に努めていた。川辺外治は同校出身で曾根に絵を学んだ、美術科の文検合格者である。文検とは戦前文部省が実施した検定試験の略称である。この難関に合格することは本人の優れた資質の証明と、社会的尊敬の獲得を意味した。
 川辺は県内で教職に就きながら、作家としても活動していた。戦前より自宅にアトリエを構え(昭9)、画業の研鑚を積む熱心な作家であった。昭和12年「草刈り子供」で大潮展特選、同16年「忙中の食事」で新文展入選。「忙中の食事」は三井コレクション買上げとなり、これを機に、川辺は同じ文検出身者で美術教師の東一雄らと一沓会を結成し、絵画研究に励んだ。
 当時の展覧会に幾つか触れると、昭和8年3月に東京新宿のほてい屋デパートで「富山県作家美術展覧会」と題した展覧会が開催されている。村井辰夫、山崎覚太郎、小坂勝人、福沢健一ら県内を代表する実力作家55名の仕事を一堂に集めたもので、東京の美術愛好者に県内作家の優れた美術を供する試みであった。
 昭和16年には、富山市の宮市大丸ホール(大和)で「富山文化協会綜合美術展」が開催されている。日本画、洋画、彫刻、工芸より合計83点の出品をみたものだった。
用紙が配給制の時期に行われた、県展に先がける県規模の総合美術展として特記される。

川辺外冶「騎馬像」昭和14年(1939)
川辺外冶「騎馬像」昭和14年(1939)
川辺外冶「忙中の食事」昭和16年(1941)
川辺外冶「忙中の食事」昭和16年(1941)
川辺外冶「黒い太陽(衝撃)」昭和50年(1975)
川辺外冶「黒い太陽(衝撃)」昭和50年(1975)

疎開作家の動き

永原廣

 太平洋戦争以後終戦までの間、県内の大規模な展覧会活動は絶たれ、戦争の激化につれ、作家の疎開が始まる。まず、戦禍を被った郷土作家の帰郷があった。
 昭和18年、永原廣が郷里砺波に戻ってきた。永原は戦前より東京で作家として活動していたが、東京千駄木の住居が焼けたため、着の身着のままでの帰郷であった。永原の活動で特筆すべきは、戦時中の金属の資材不足時に塑像制作の新たな素材としてセメントの活用を本郷新、笠置秀男らと共同で研究し、その成果をセメント彫刻に残したことであろう。戦後は郷里を拠点に作家活動を展開し、また、県内塑像作家の先達として後進の指導にも努めた。
 昭和19年に小柳津三郎が井波町へ疎開する。同23年に富山市岩瀬に移り住んで親鸞や釈迦像のほか、馬場はる、大島文雄ら、同地ゆかりの偉人たちの胸像を手がけるなど、粘土による塑像制作と乾漆彫像の制作に励んだ。
 昭和20年は砺波地方へ多くの作家が疎開した年である。
 先ず、3月19日に織田一磨が夫人の郷里である福野町に疎開。昭和24年まで同地に滞在する。上町で醤油醸造を営む安永氏宅を間借りして生活した。織田は疎開中、県内各地を写生で訪れ、立山連峰、称名滝、医王山、牛嶽などを題材に水彩画を多く描いた。疎開先での4年間の成果は、帰郷後に石版画集「富山の画会」(昭24)にまとめられており、福野の夜高祭り、冬の城端風景や五箇山集落など、各地の印象を軟らかな線と渋味のある色彩で表している。
 4月には村井辰夫が城端町の生家に疎開する。
 そして棟方志功は光徳寺と親交のあった河井寛次郎の紹介を受け、4月に福光町法林寺に疎開した。同町に6年間滞在する。この間に「鐘渓頌」の制作、戦災で 焼失した十大弟子のうち文殊・普賢二菩薩の柵の改刻などを手がけた。棟方の存在は大きいものであった。版画の創作面はもちろん、その強烈な個性と人柄、発散するエネルギーは、地元作家を惹きつけ、多方面で影響を与えるところとなった。表、清原も福光時代の棟方の寓居を訪ね、独自の芸術観に触れている。棟方の創作の影響を受けて泉田康治、金守世士夫、玉井忠一らが版画家として成長した。また城端町からは、棟方と出会い独自の風格を南画に託した石黒連州が出ている。

表立雲
 5月には村井の元に伊藤四郎が疎開する。伊藤は川辺の一沓会の指導をし、県展の審査員を第1回から3回まで務めた。昭和23年に帰京するが、帰京後も富山の美術界と親交を保った。同年5月には書の大澤雅休が学童疎開の引率で太田村光圓寺に移ってくる。同年冬に行われた書の講習会に参加し書論に感銘を受けたことから、表立雲は前衛書の道を歩みはじめる。大澤は翌年、学童と共に東京に戻るが、以後もたびたび県内を訪れ書の講習会を開いてその普及に努めた。
 高岡市出身の小坂勝人もこの年、城端町に疎開している。県高岡工芸学校卒業後、東京美術学校へ進学し日本画家となる。素朴な味わいのある画風で親しまれた。昭和23年の県日本画連盟設立に携わり、初代委員長を務めている。

永原 廣「平和III」昭和28年(1953)
永原 廣「平和III」昭和28年(1953)
永原 廣「かがむ」昭和44年(1969)
永原 廣「かがむ」昭和44年(1969)
永原 廣「無名政治犯」昭和28年(1953)
永原 廣「無名政治犯」昭和28年(1953)
表 立雲「李白詩 陪族叔遊洞庭五首其四」昭和24年(1949)
表 立雲「李白詩 陪族叔遊洞庭五首其四」昭和24年(1949)
表 立雲「草野心平の詩、青イ花」昭和26年(1951)
表 立雲「草野心平の詩、青イ花」昭和26年(1951)
表 立雲「阿麻射加流A」平成元年(1989)
表 立雲「阿麻射加流A」平成元年(1989)

戦後の活動から

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 戦後は、文字通り荒廃の中からの出発であり、あらゆるものを立て直さねばならなかったが、美術においては、自由に文化芸術を探求しうる時代の到来として、物質的な窮乏を乗り越え、いち早く美術団体の復活、結成、展覧会活動の再開へと動いた時期だといえよう。
 昭和21年初めに、富山県美術文化協会が疎開作家や在住の有力作家によって組織される。日本画の絹の配給、ホワイトなどの資材頒布を始めたが、この協会が母体となって、早くも同年5月に「第1回富山県美術展覧会」(県展)が日本画・洋画・彫刻の3部門で開催された。運営面においては、織田一磨、伊藤四郎ら疎開作家が審査員で名を連ねている。疎開作家相互の交流と、これら第一線作家に刺激を受けた県内作家のレベルの向上が、他県に先駆けた県展開催の機運を呼んだといえる。また、後に東京都美術館の館長となる県出身者で、同じく疎開中で洋画家の杉山司七が、県嘱託で美術行政を担当。裏方として重要な働きかけをしていた。

 記念すべき第1回展で下保昭は「白木蓮」で富山市長賞を受賞した。当時19歳の下保は、前年までに兄と弟、祖父を失っており、家族や親類から家を継ぐよう強く勧められていた。家督責任と、画家の夢の板ばさみに苦しむ日々を送る下保であったが、この受賞を機に改めて画家になる決意を固める。県展は、美術作家への登竜門の役割を果たしていたのである。
清原啓一は終戦当時富山師範の学生だったが、下保同様に画家の道を志していた。同校で清原の絵を指導した曾根はかつての教え子である川辺に清原の絵の指導を託した。曾根・川辺の働きかけで清原は中学校を勤めながら週末は川辺のアトリエでデッサンに打ち込むことができた。川辺のアトリエは昭和23年から開放となり、清原、板橋一歩、藤井宏らが定期的に集い石膏デッサンを行った。砺波デッサン会の始まりである。同会は川辺の還暦まで続き、多くの後進が川辺の指導を受けた。
 織田は昭和21年に越南美術会結成に関わるほか、同23年に城端別院、出町、福光、戸出で個展を開催するなど、活動が目立った。

清原啓一

 昭和21年、戦災焼失を免れた勤務先の旧制富山中学校に、東一雄は一線美術協会を創設した。疎開作家や地元実力作家を講師に、洋画の制作研究の場を提供して戦後の絵画運動の拠点となった。また、永原廣は東の依頼で新制中学校頒布用の石膏像を制作している。同校に泊り込んで、同校や富女高の美術部員、新制中学校教師らの協力をえて、同校の石膏像を原型に数百体の石膏像を作った。
 版画の活動は既に昭和10年頃、小野忠重らを招いて指導を受ける機会が生まれていたが、それに戦時疎開で来県した棟方、織田の存在が拍車をかけた。同24年、北陸版画協会展が開かれており、織田、棟方のほか金守世士夫、玉井忠一、越野義郎、手塚義三郎らが出品した。

下保 昭「港が見える」昭和25年(1950)
下保 昭「港が見える」昭和25年(1950)
下保 昭「武陵桃源(迷魂台)」平成2年(1990)
下保 昭「武陵桃源(迷魂台)」平成2年(1990)
下保 昭「称名暮雪」平成10年(1998)
下保 昭「称名暮雪」平成10年(1998)
清原啓一「八ツ峰の秋」平成6年(1994)
清原啓一「八ツ峰の秋」平成6年(1994)
清原啓一「鶏」昭和39年(1964)
清原啓一「鶏」昭和39年(1964)
清原啓一「争いを観る」昭和56年(1981)
清原啓一「争いを観る」昭和56年(1981)

結びにかえて

 戦後、地元作家と疎開作家の活動からは県内美術発展にむけたいちじるしい動きが伺える。当時中央で活躍していた作家が多数疎開してきたことは、地方作家にとっては新しい知識や技術、芸術観をうかがう格好の機会となったのだろう。その熱気が大きな盛り上がりとなって戦後の目覚しい美術復興につながったのではないかと考える。県展が、地元作家と疎開作家双方の働きかけで戦後全国的にも早くその開催をみたことは象徴的である。
 最後に、砺波出身作家のその後の活動に触れて結びとしたい。
 川辺外治は、砺波デッサン会、砺波フューザン会に集った人達を母体に、昭和33年に彩彫会を結成。設立時県内最大の美術家グループとして注目され、同64年の解散まで、異色の活動を展開した。作家の堅実な画風は晩年、抽象世界へと変貌した。
 永原廣は、郷里を制作拠点と定め、日展を中心に活動。その作風は鎮静で叙情的な塑像表現へと移行してゆく。川辺の意志を継ぎ二代目彩彫会会長も務めた。
 表立雲は師・大澤雅休より得た書の造形理論を糧に、自らの書グループ「玄土社」を昭和23年に結成。現在も書の研究、執筆活動と並行して前衛書を追求している。
 清原啓一は上京して、同地で作家活動を展開する。作家の主要モチーフとなる「鶏」を得てからは、日展、光風会を舞台に重厚な油彩表現に磨きをかけていった。
 下保昭は戦後ほどなく京都に移り住んで、西山翠嶂の青甲社に入り、以後の活動の足掛かりを築いていく。日展で独自の日本画表現が注目されたが、昭和63年の脱退以降は水墨表現に身を投じ独自の深遠な画境を見せている。
(文中敬称略)

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